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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第一章  ~ポエニクスの涙を探す~
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20.アナベルの策略と消明の初恋

 宮廷が独り言を呟き始めた。

 そう思うほど、城内のあちこちでは官吏たちのの熱心な囁きが聞かれた。

 彼らの話はただの噂などではなく、その目は驚きと興奮に満ちあふれている。 

「聞いたか、ルナちゃん!」

 資料庫から出てきたルナに、フェリックスが飛びかかるように現れた。

「えー……何がー?」

 連日の徹夜明けでうっすら隈を浮かばせたルナは、欠伸を堪えながら尋ねる。

「ナエンの儀で次期皇帝たる皇太子を決める。その儀式が延期された!」

 フェリックスは興奮気味だが、ルナにはそれどういうことなのかさっぱり理解できない。フェリックスはじれったように足を踏みならす。

「だからさ、ルナちゃん!」

「儀式の日付は決まっとって、何があろうとその日が動くことはない。ただ唯一、皇太子に指名しようとしている者が出席できない場合を除いてはちゅうことですよ」

 フラッと現れたジェイド皇子の秘書官が、フェリックスの代わりに解説する。

「えーっと、ジェイの秘書の……グロゲリンガさんでしたっけ」

「全っ然ちゃうわッ!」

 ロイは咳払いすると、仕切り直すように眼鏡を押し上げる。

「第二皇子が儀式を欠席しはる気配は全くなかった。つまり閣下は、現在病床に伏されてい動けんジェイド皇子に配慮されたんでしょう。って、ここまで言えば、分かります?」

 言われたことを沈思黙考していたルナは、一気に眠気が吹き飛んだように顔を上げる。

「ちょっと待って。ジェイに配慮して儀式を延期って……それじゃあ皇太子は……次の皇帝は……!」

「間違いなくジェイド第三皇子でしょねぇ」

 つい最近、皇帝になりたいと口にした彼の顔が頭をよぎる。

(ジェイ……っ)

 良かった。

 まるで我が事のように嬉しさがこみ上げる。彼は貧困街から帰って来て以来、ずっと床に伏せていたが、これで彼も活力を得るだろう。

 フェリックスとロイも手を取り合って、子供のようにはしゃぎながらグルグル回り始める。

「そしたらあとは、病の完治と、ルナ様との結婚だけですなぁ。先に皇子の子を身ごもってもらってても構いませんけど? ガハハハハ!」

「だ、誰がジェイの子なんて身ごもりますか!」

「三の皇子もああ見えて、ええ夫、ええ父親になりますって。一時は女が嫌いやなんや言うからどうなるかと思いましたけど、ルナ様にはデロデロみたいですし」

「ち、違……っ」

「そっか。だよなぁ……俺もルナちゃんとはあまり話すなって、怒られたことあるし」と合点がいったように腕を組んで首肯するフェリックス。

「嫉妬や嫉妬! 他の男に近寄られたくないんですなぁ、三の皇子は。いやぁ、お熱いことで!」

 楽しそうにからかってくるロイに、ルナは顔が真っ赤になった。

「す、好き勝手言わないでくださいっ! ジェイの往診に行ってくるから!」

「待て。ルナ・クロエ」

 背中から『あの女』のドスの利いた声がしたかと思うと、ルナの周囲を衛兵らがバタバタと取り囲む。

 その誰もが手に小銃を持ち、敵意をむき出してルナをにらみ付けていた。

「な、何なの……一体」

 宮廷の廊下で突如として発生した事態に、行き交っていた官吏たちも興味深そうに足を止める。

 衛兵の一人が一歩後退すると、その間から女帝が姿を見せた。広げた扇を口元に当て、顔の半分は見えないが、その目のしなり方からして笑っているのだろう。

 それも冷酷に。

「ルナ・クロエ。そなたを謀反の罪で逮捕する」

「――っ!」

 ルナの目が、これでもかというくらい見開かれた。

「ちょ、お待ち下さい!」慌ててロイが女帝の傍へ駆け寄る。「アナベル様、状況をご存じでしょう? 今この方はジェイド皇子の治療を」

 女帝は、パンッと畳んだ扇子をロイの鼻先に突きつけた。

「何を申す。このような紛い物の医術師に、大切な大切なジェイド第三皇子に近づけるなど!」

「紛い物……?」

「この者は病を患っている第三皇子をあろうことか城の外へ連れ出し、挙げ句の果てには発作を再発させた、おおよそ医術師とは呼びがたい女じゃぞ! ジェイド第三皇子を亡き者にしようとしたに違いない!」

「違いますから、あれは……っ」

 発作は呪詛だと言えば、誰がそんなことをしたのかと大事おおごとになる。犯人を刺激するかもしれないし、逃げられるかもしれない。

 ルナは喉まで出かかった言葉をグッと飲み込んだ。

「いかなる言い訳は聞かぬぞ。ルナ・クロエ」

 女帝が顎を上げるのを合図に、ルナの両脇を衛兵らが抱えるように連れ去っていく。周囲の驚きと戸惑いに満ちた視線が容赦なく突き刺さった。

「ちょっと待って下さい……っ、この方しかジェイド皇子を助けられる方はいないんですよ!?」

「そうだ、今ルナちゃんがいなくなったら、三の皇子は……」

 ロイもフェリックスも衛兵らの前に立ちふさがって食い下がる。

「黙れ。これからも、治療と称して第三皇子に何をするやも知れぬのだぞ! この女は危険じゃ。よもや貴様らも……国を裏切ると申すか。故郷の親兄弟が、さぞかし辛い思いをするであろうなぁ」

「……っ」

 暗に一族まで巻き添えにしようと言う女帝に、ロイは怒りに拳を震わせた。いつもは穏やかなフェリックスも、銃を構えた時のような冷徹な視線を向ける。

「私は大丈夫よ、二人とも」

「ルナちゃん……」

 アナベルの口元に笑みが浮かぶ。

 一歩一歩とルナに近づき、扇子を開いて彼女の耳に唇を寄せた。

「そなた、半人族だそうじゃな」

 ルナはギョッとして息を飲んだ。

「全く……人族臭の臭さは異常じゃ。こうして顔を近づけると鼻が曲がりそうじゃの。じきに通る法案で、大人しく医術向上の実験台になるがよい」

 ルナは唇を噛みしめた。やはり、クラティス第二皇子が半人族を実験台に使おうという法案に反対しているというのは嘘だったのだ。

 あの法案は可決される。そして自分がその第一号。

「女帝か何か知らないけど、あんた……碌な死に方しないわよ」

「案ずるな。貴様ほどではなかろう」

 紅を引いた口元が残虐そうに歪む。

「そやつを判決が確定するまで檻に閉じ込めておけ」

「は!」

 連行されていくルナを、ロイもフェリックスもただ見守ることしかできなかった。



○$○$○


「お嬢様が!?」

 二人から先ほど起こった事態を聞かされ、アルキスの表情が強ばった。

「今し方、元老院議長の解任が可決されたとお聞きしたばかりなのに」

 アルキスは、ソファーに腰掛け、視線を床に落とす元老院議長を振り返った。

「解任て……どういうことなんです、議長!」

 ロイが問い詰める。  

「事実上の引退勧告じゃ。わしに残されたのは過去の栄光のみ。今は何の権力も無くなったただの老骨にすぎん」

「んなアホな……」

 特に問題を起こしたわけでも、彼が議長の座にいることに反感を持っている者がいると聞いたことがない。

 それが任期満了を待たずしての解任。確実に、あの女帝が一枚噛んでいるのだろうとロイは思った。

「あーもう、どうすんだよっ! ルナちゃんがいなきゃ三の皇子が……。ダレンさんだっけ。あんた高名な医術師だったんだろう!? 何とかしてくれよ!」

 フェリックスの叫びに、アルキスはベッドで苦しそうにシーツを握るジェイドを見やる。本来ならルナが往診に来ている時間。

 それをとうに過ぎた今現在、ジェイドを呪詛の苦しみが襲っていた。

「すでに手は尽くしてありますが、腕輪の無い私には、これが精一杯です。薬草でできることには限界がありますから」

「嘘だろ……」

 ジェイド皇子の額からにじみ出てくる、玉のような大量の汗を止める事すらできない。

(お嬢様……)

 アルキスは歯がゆさに口元を強く結んだ。

「一つ聞いておく」今まで黙りこくっていたハーディが、座っていた窓枠から腰を上げて近づいてきた。「三の皇子は本当に病なのか? 病気だ病気だという割には、未だその病名すら知らされてねぇが」

「ええ。未知の病ですので」

「ほう、帝位継承権を持つ三人のうちの二人だけが、たまたまかかるような病がこの世にあるってぇのか? 高名な医術師さんよ」

 ハーディは間違いなく確信している。ジェイド皇子は決して病に冒されているわけではないと。

 だがそれもおかしくはないだろう。

 そもそも彼が第一皇子と第三皇子の病状が似ていると言い出したのだから。

「あなたには隠しても無駄ですね……。お察しの通り、三の皇子は病ではありません。呪詛をかけられておられます」

 そこにいた全員の身体に電流が走ったかのように瞠目し、しばらく言葉を失った。

「そ、そんなもん……一体誰が」とフェリックス。 

「まさかあの連中とちゃいますよねぇ……。銀輪の医術師協会、ノアールと」

「さあ。そこまでは私にも分かりません」

 ハーディの鋭い視線が元議長へ向く。

「議長……いや、グライアス議員、あんたは知ってたのか?」

「いいや。じゃが今大事なのは誰が呪詛をかけたかではなく、どうやって呪詛を解くかじゃろう」

「分かりました。小生が今すぐ宮廷医術師を」

「はっきり申し上げます!」

 部屋を出ようとしたロイの背にアルキスが声をかける。

「ジェイド皇子にかけられている呪詛の解除は、特級医術師レベルの腕を持つ者にしかできません。腕輪のない私は論外、宮廷内にいる一級医術師では手も足も出ないでしょう。とはいえ別の特級医術師の確保など、この医術師不足の現状ではほぼ不可能。つまり現段階では……お嬢様にしか、できないことです」

「だったらさ、いっそルナちゃんを牢から救出しようぜ」

「やめとけ、フェル。あの女は謀反の『容疑』ではなく謀反の『罪』で投獄されているんだ。なのに三の皇子護衛官の俺たちが助け出すようなマネをすりゃ、三の皇子の立場がなくなる」

「だったらどうすんだよ、隊長! このまま指くわえて三の皇子の余命が尽きるところを見てろってか!? 謀反で捕まってるルナちゃんだってただじゃすまないんだぞ!?」

「方法はあるだろう」

 ハーディの言った意味を、フェリックス以外の全員が悟っていた。

「な、何だよ……方法って」

「三の皇子が皇帝になることを、正式に辞退すりゃあいい」

「何言ってんだ、皇子自らんなことしたら、今まで必死に三の皇子を支持してきたやつらにも見放されて、本格的に居場所がなくなるだろうが!」

「それを望んでいる奴らがいるんだろうよ」

 いつの間にかジェイドの枕元に置かれていた封書には、あとはサインをするだけの帝位拝辞書が入っていた。

(用意のいいこった)

 ハーディは目を薄めてその封書を見下ろした。強い憤りを込めて。

「自力で皇帝になれないから、二人の命を盾に取ってって……そんなこと、ありかよ」

 フェリックスは力が抜けたように、ソファーに座り込んだ。頭を垂れ、ポロリと落ちたテンガロンハットが、今の心境を表しているかのように空しさを感じさせる。

「せめて三の皇子の母上が生きてさえいれば」

「生きてるモンはいつか死ぬ」

「分かってる。けど思っちまう。良い奴は、死なずにずっと生きていてくれたらって。ポエニクスの涙があればいいのに……って」



○$○$○


「不老不死の薬か。本当にあったら、世の中はどうなるんだろう」

 ルナは、子供の頃から使っている月見草のしおりを見つめた。

 腕輪を没収され、石造りの重厚な牢へ自分の荷物と一緒に放り込まれたかと思うと、衛兵らはさっさと出て行ってしまった。高いところにある小窓から日が射し込むだけの寂寞とした世界にいると、どうしても余計な事ばかりを考えてしまう。

――実験台になるがよい

 女帝の恐ろしい言葉が頭を離れない。

「ぜ、全然ビビってませんから。い、いざとなったらササーッと華麗に脱獄してみせるわ、そうよ。立派に逃げおおせて見せますよ私は!」

 脂汗を流しながらガタガタ震えておののく。

 嫌な考えを振り払うように父親の残した童話集を開いていたが、やはりどうにも落ち着かない。

「こんなことしてる場合じゃ無いのに……。ジェイ大丈夫かな……。はああ、もうここ臭いしジメジメしてるし! 出しなさいよいい加減にーーっ!」

 グワングワンと石壁に反響していた声が、やがて空しく収束する。

「たとえ不老不死が実現できても、立派で善良な奴はやっぱり早死にして、嫌な奴だけが生き続ける世の中になるだけ。ますます住みにくい世界になるだけアルよ」

 突然聞こえた男の声に、びくりとして周囲を見渡した。

 よく見えなかった隣の牢にも、誰かが入れられていたらしい。鉄格子の向こうで、ヒラヒラとこちらに手を振ってくる中華服の男を見つけた。

「シャオ……! あんたこんなところで何してるの!?」

「食料庫から食い物くすねてるのが、ついにバレたアル」

 頭をこづいてペロッと舌を出す。

「バレたアルじゃないわよ! 協会ノアール間者スパイが何してるわけ!?」

「いやあ、このガキがどうしても高級食材を食いたいって言うから」

 消明は、自分の後ろで分厚い絵本を読む幼い少女を親指で指す。

「子供に罪をなすりつけるな! ……って誰、その子。可愛いー! あんたの妹?」

 だがよく見ると、幼い彼女が読んでいるのは医術書。

 しかもそれをまるで理解して読み進めているように見えるのは、錯覚だろうかとルナは思った。 

「こいつは玉凜ユー・リン。全くの他人アル。いつの間にか勝手に着いてきてた」

「まさか誘拐してきたんじゃないでしょうね、この幼女趣味ロリコン!」

「俺はこんなエロいこともできないガキに興味ないアル」

 そう言いながら、消明はスッと檻の隙間から新聞を滑り込ませてくる。

「何なの?」

 ルナはスルスルと回転しながら自分の足下で止まった新聞に目をやるが、この男が銀輪の医術師協会の一員だと知っているせいか、色々勘ぐってすぐに手を伸ばそうとはしなかった。

 だが、チラリと見えた一面のトップ記事に目を奪われる。

「死者十万人超、アラベスク大虐殺……?」

 色の変わった古い新聞をハラリと広げる。

「ああ。黒暦一四○三年、アラベスク地方で起こった史上最大規模の半人族虐殺事件アル。たった一月の間に死者は十万を超え、魔界にあった何百もの半人族の村が姿を消した」

 ルナは悲痛な面持ちで記事の写真から目を背ける。

 夜空を焦がすほどの業火の中で、取り残された人々が大勢いると思うと、とても直視できなかった。

「聞いたことあるわ。で? この事件が何?」

「それを指揮したグライト・スワードという男は、当時こそ大軍を率いるエリート士官だったアルが、元は貧困街アヴェーラの出身だったアル。だがグライトはそれを隠すことなく、よく当時の話をしていたらしい。話によると、グライトは幼少期に重い病を患っていたが、当然医者に行く金もなく、もう二、三日もすれば息を引き取ろうという危険な状態に陥っていた。だがそんなグライトへ、救いの手が差し伸べられたアル。ある殊勝な男が、無償でグライトの治療してやった。グライトは見違えるように元気になり、賢かった彼は貴族の養子として引き取られ、みるみるうちに出世した」

「ふうん。その男も、よくそんな瀕死の重体から生還できたわね。悪運が強いというか。助けた医術師って相当腕のある人だったんでしょうね、私みたいに」

 ルナは冗談めかしてそう言ったが、消明はにこりともしなかった。

「ああ。男を治療した医術師は銀輪の医術師協会でも随一を誇る腕をの持ち主……アルキス=ヴュー・ダレンだったアルからな」 

 ルナの手が、新聞の端をクシャリと歪ませた。

「……ムドーが?」

「驚いたか」

「べ、別に。だからって何? ムドーが彼を助けなければ、こんな事件は起きなかったって言うの?」

 馬鹿馬鹿しい、と新聞を乱雑に折りたたんで横へ放り投げる。

「事実アル。そこでグライトが病死していれば、誰もあそこまで大規模な虐殺事件を起こそうなどと考えなかった。実際、あの事件は君主に無許可で行われたグライトの暴走だったアル」

「こじつけだわ。ムドーが事件を起こしたわけじゃないじゃない」

「それじゃあなんでこの事件の直後に、あの男は医術師をやめた? 医術を捨てようとした? 腕輪を破壊した? ……奴自身、自分にも責任があると思ったからだろう」

「それは……っ」

 アルキスが貧困街アヴェーラへ行こうとする自分を、なぜあんな風に止めようとしたのか。

 そんな彼を振り切って出て行ったのに、なぜ彼はそれを咎めるでもなく自分を抱きしめてきたのか。

 なぜ医術から遠ざかろうとしたのか。

 なぜ、なぜ――

 その理由の全てが、その事件の中にあるのは確かだ。

(でも……ムドーは悪くないじゃない)

 ルナは膝を抱え、服を握りしめる。

「あの男がお前に医術を教えるのは、自分のためアル。お前を一人前の医術師に育て上げることで、あの事件を忘れて、医術師として自分のやってきたことを正当化したいだけ。お前はあの男を師として慕っているようアルが、利用されているアルよ、ルナ。目を醒ました方が良い」

 消明の言い方に、ルナは唇を噛みしめた。

 確かに彼の助けた男は、歴史上稀に見るほどの残虐な事件を起こした。それ故アルキスは耐えがたいほどの慚愧の念から協会を抜け、医術を避け、信念の揺らぎと後悔に打ちひしがれたのかもしれない。

 ルナが貧困街へ行くことを認められないのかも知れない。 

 それでも彼は――

「それでも、ムドーが私に医術を与えてくれたことに変わりはない。私を心から応援してくれていることに変わりはない。それは贖罪の気持ちから来ているのかもしれないし、あんたの言うとおり過去を塗りつぶすために私を利用しているだけなのかもしれない。でも、私は信じてる。一度捨てた医術にもう一度関わろうとしてくれたのは、ムドーの中にまだ、捨てきれない志があるからだって。私と同じ世界を目指そうとしているからだって。そう……信じてる」

 辛い過去を乗り越えてまで自分の師になってくれたのは、自分を利用するためなんかじゃない。

――医術を特別じゃないものにしたい。

 そう言ったときの彼の表情は、驚くほど優しかったのだから。

 大まじめ顔だった消明の顔が、ふて腐れたように膨らむ。

「あーあ、面白くないアル。そこまであの男を信用しているとは。俺が口説く隙がない。折角お前をノアールに引き込んでやろうと思ったのに」

「おあいにく様、私とムドーは切っても切れない鋼の縁で結ばれてるの。全く。何であんたみたいなへそ曲がりが、医術師になろうだなんて思ったの? 全くもって不思議だわ」

 そう言った瞬間、札の向こうから見える美しき漆黒の双眸が銀河のように耀(かがよ)った。

 それがなぜか、哀しげに映る。

「ど、どうしたのよ……シャオ」

「いや、昔話も悪くはないと思って」

 そう言った消明が、ポツリポツリと話し始めた。

「自慢じゃないが、俺は良いとこの生まれアル」

 消明は牢の壁に後頭部をつけながら、天井を見つめるように顎をあげた。

「父親の名前は劉厳龍リュウ・イェンロン。秦華帝国の第二都市、白京はっけい州を治めることを認められ、軍の正大将も兼任していた高級官吏。りゅうらんこうけいりょう家の中でも一番広い領土と強い権力を持ち、皇帝一族とも深い関わりを持つまでに至らしめた手腕の持ち主アル」

「あら、優秀なお父様だったのね」

 そこでルナはおや、と思った。彼の父だという男の名前には聞き覚えがある。高級官吏だということからして、歴史書か政治報紙の類いで見た名だろうか。

「ああ。とても優秀で、……屑だった」

 吐き捨てるようなその言い方からは、隠すことのできない深い憎しみが滲み出ていた。

「兄弟が何人いるかも正確には知らない。二十、三十……百人でも驚きはしない。俺も数多く居る妾の子の一人だった。俺の母親が正妻の実の妹だったことで、他の異腹の兄弟たちよりは、多少マシだった方だが、それでも正妻側からは言えないような嫌がらせをされたアル。俺の性格が歪んでいるというなら、そいつらのせいだ」

 思い出したくも無い忌まわしい日々の光景が、消明の頭の中を巡る。

「そういえば白京州の陽蘭ようらんって街で、昔ひどい伝染病がはやってたわよね。確か名前が」

「『就死病しゅうしびょう』。感染すると、すぐに発症して死に至ることから名付けられた。そう、その病に大勢の民が感染し、命を落としていったアル」

 一匹の野良猫の異変から始まった病は、瞬く間に街に広がった。弱い老人や子供から倒れ、さらに健康体だった成人すらも病魔は襲った。街から人気の無くなるほどの異常な事態。殺伐たる、いや生き地獄のような光景だった。

「思い出したわ。劉厳龍って民のために貴重な薬草をあちこちから集めさせて薬を作らせ、就死病を他の街や州に出さず、被害を最小限に食い止めさせた、あの劉正大将よね。ほんと、すごい人じゃない」

 伝染病を封じ込めるには、並大抵のことではできない。それをやってのけた人物への尊敬の念で目を輝かせるルナに、消明は身体を震わせて笑った。

 まるでそんな彼女をあざ笑うかのように。

「何よ……」

「就死病が別名『貧困病』とも呼ばれていたことは知っているだろう? 特に身分の低い者たちばかりが大勢死んだからな。なぜか分かるか? 理由は単純アル。就死病はある薬を飲めば簡単に治る病だったが、そのことにいち早く気づいた親父が治療薬を根こそぎ買い占め、あたかも貴重で希少であるかのように高値で売りさばいていたからアルよ」

「……え?」

 ルナの思考が止まる。

 一瞬消明が何を言っているのか、理解できなかった。

「そ、そんなこと許されるわけが……」

「もちろん皇帝は知らない違法行為だった。でも、親父の周りの人間は、誰も何も言わなかった。己自身も甘い汁を吸うために。医術師さえも、親父は金と力で味方に引き込んでいた。結果、女子供を筆頭に大勢の民が命を落とした。親父の膨れあがる財と引き替えに」

 ルナは驚きに声も出せなかった。

 だが、足元からいやに冷えてくる。

「俺は小さい頃、仲の良い女がいた。身分は高くない、俺の屋敷の一番下っ端の侍女だったアル。俺と同じ年で、名を春玲チュンリンと言った。生まれつき口は利けなかったが、よく働く可愛い女だったアル。劉厳龍の子として立派でなければならないと、しつけも勉強も人一倍厳しかった俺にとって、春玲といるときだけが本来の俺でいられた。だが……」

 どこか幸せそうだった消明の横顔が、僅かに歪む。

「その春玲も、就死病にかかった。薬の在処を知っていた俺は、薬を盗んで春玲の所へ持って行こうとした。でも……もう少しでというところで、親父が俺の前に立ちふさがって言ったアル。『お前はこの薬にいくら出すんだ』って。ヒドイ親父だろう? 俺は『命を救うことの何が悪い。薬はたくさんあるだろう』と叫んだが、親父は半笑いで俺を見下ろすだけだった」

 本来なら、饅頭一箱にも満たない値段の薬。それを、家族や大切な者を助けたいという心につけ込んで高額で売りさばく。

 その欲望に目を輝かせる己の父が、どれほど醜い怪物に見えたことか。

「そんな……」

 ルナの瞼が震える。

「俺は自分の持っていたもの全てを親父に差しだそうとした。当時俺が大切にしていたもの全てを。この命を差し出してもいいと言った。だがあの男は……それをただ鼻で笑って俺の手から薬を奪っていくだけだった」

 厳龍の高らかな笑いが、消明の耳にこびりついて離れない。

 その父の後ろ姿に、狂いそうなほどの絶望と憎しみを覚えた。

 噛みしめた唇からこぼれ落ちた鮮血が、涙と一緒に拳に落ちるほどに――。

「春玲は助からなかった。俺のこの腕の中でそっと息をしなくなった。いまわの際だというのに、最後まで自分を助けようとしていた俺に、口が利けないくせに感謝の気持ちを伝えようと口を動かし続けていた。自分の残り少ない寿命まで縮めて……。本当にバカな女アル」

 指の間をすり抜けていった命の感触が、まだはっきりと手に残っている。

 彼女を見殺しにするしかできなかった。

 薬は山のようにあったのに。

「シャオ、あんたまだその子のこと……」

 ルナが不意に流れた涙を拭いながら、彼の心中を察する。

 だが、消明が一度閉じた目を開いたときには、すでに寂寞とした感情は感じられず、凜然とした不退転の決意に溢れた輝きを湛えていた。

「そこから俺は家を出て医術を学び、ノアールへ入った。俺はもう……あんな醜い世界を二度と見たくない。二度と」

 そう言い切る彼の光沢のある黒い瞳の、あまりの美しさにルナはドキリとした。

「親父は屑だったアルが、親父から学んだこともある。この世界の奴らは力を何より恐れるということ。金、権力、高度な術。それらを持つ者に対しては、かなり忠実に働く輩が多いということ。だから俺は下僕が欲しい。俺の理想とする世界を作るための下僕が。説得なんて甘いものでは、この私利私欲に塗れた世界は何も動かない。誰も救えない。お前も俺と同じ世界を目指しているんだろう。だったらもう一度聞くアル、ルナ。……俺の下僕にならないか?」

 ヒラリと風が舞上げた札の下には、不敵な笑みを湛える黒眼黒髪の麗人がいた。彼の心に住まう初恋の相手への想いが、一層彼の美しさに磨きをかけているのだろう。

 ルナは自身を落ち着かせるように息を吐いて、勢いよく立ち上がった。

「悪いけど、私は誰かの奴隷なんてごめんだわ。特に、ジェイに呪詛をかけているかもしれない怪しい団体の人のなんて余計に」

 消明は拗ねたように唇をとがらせた。

「お前は一つ誤解しているアル」

「何を」

「『己が術を囲うべからず。囲わせべからず。求む者に与うべし』」

 ルナは理解できない、と言いたげに小首を傾げる。

「ノアールの創立理念アルよ。『医術を自分だけのものにしてはならない。特権階級だけのものにさせてもならない。必要とする者に施すべし』。協会の中にはよからぬことを考えている輩もいるアルが、俺たちが本当に目指しているのは誰でも医療を受けられる社会の創造。信じる信じないは自由アルが」

 消明は、今まで見た中で一番素直な笑みを見せる。

 彼が言っているのは、まさしくルナが理想としている思い。

 嘘を言っているようには見えない。

「だから協会は第三皇子の病気には一切関わっていないし、全然興味ないアル」

「でも……じゃあ誰が」

 コツ……と静寂とした牢獄に靴音が響く。

「第二皇子……」

 クラティス第二皇子が、ギラギラとした眼差しでルナの檻の前に佇んでいた。

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