18.ただの医術師と患者
ジェイドは腕をルナの腰に絡めると、ぐっと身体を寄せた。
「ちょ……っ」
「逃げられては困るからな」
そう言って浮かべられる秀麗な男の意地悪な笑みに、ルナは己の顔に熱が上ってくるのを感じた。見た目では分からない腕の逞しさも、この状況では帝国の英雄らしく鍛えられているのが嫌でも伝わる。
「い、今更逃げたりしませんから」
強がってそう言い放ってみたものの、動揺は隠せない。強ばった表情で、ジェイドの貴族服をキュッと握った。
ジェイドは紅潮して縋り付くルナの姿に刺激されたかのように笑みを引っ込め、熱のこもった真剣な眼差しを向けた。頬にかかるルナの髪を軽く耳にかけ、赤い顔で俯く彼女の顔をのぞき込むように唇を近づける。
互いの吐息がすぐ傍で感じられる。
「――ちょっと待って」
「なんだっ」
あと少しで触れあうというところで、ルナがジェイドを制した。彼女の瞳に、勝機を得たかのような小さな輝きが見える。
「ジェイ、確か私に借りがあったでしょ。ほら、竜が暴れた時。あの時、危険な目に遭ってる私を助けられなかったことを、借りにしておくって」
一瞬、何を言われているのか分からないという顔をしたジェイドも、確かに「倍にして返してやる」などと口走ったと思い出す。
「……あ、あれは、別に今……返さなくても」
「とにかく、そういうわけで今回は問答無用でついてきてもらうから」
元はといえば、ジェイド自身が言い出したこと。、反論する余地は無い。
しかし、もう少しというところでお預けを食らわされたジェイドはどうにも納得ができない。意気揚々と歩き出そうとするルナの腕を掴んで、強引に抱き寄せた。
「――っ!」
逞しい腕の中に閉じ込められたルナは、真っ赤になって固まっていた。
「そんな反応をするということは、俺も少しは期待していいんだな」
「……ご……ご勝手に」
照れたように突き放すルナの後ろで、ジェイドは心底嬉しそうに拳を握りしめていた。
○$○$○
「ここが、クラーラの生まれた街……」
大貧困街はいつも冷たい霧に覆われていた。林立する高い建物に囲まれた、閉塞感のある白く不気味な世界。
そこかしこで何かが腐った匂いが立ち込め、子供の泣き声や男たちの怒鳴り合う声が響き渡っていた。窓ガラスは割れ、高い高い壁には腐ったような苔が張り付き、道端で寝転がる老人がブランケットの穴からランランとした瞳をこちらへ向けていた。
気持ちの悪い虫が壁に張り付き、どす黒い卵を産み付ける。
「私も小規模なスラムは何度か行ったけど、やっぱりここは違うわね」
ルナは感慨深げに嘆息した。ルナの田舎町にも貧困街はあるが、首都のそれは街というよりまるで異国に足を踏み入れたかのよう。
規模が違う。街を覆う空気すらも。
宮廷から、誰にも知られずドラゴンでここへ来るのは思いのほか手間取った。秘書官のロイは大声でジェイドを探し回っているわ、元老院議長が一本道で長談話をしているわ。しかも本来ドラゴンの私用には許可がいるらしく、竜務員のライオネルもかなり渋っていた。最終的にはジェイドや自分たちがドラゴンに乗ることも手伝ってくれたが、まるで共犯のようなことをさせて申し訳ないと思う。
「ひゃあ、ほんとひでぇ所だな。よくこんなトコに住んでたな隊長」
フェリックスが、テンガロンハットを押さえながら建物を見上げる。
さすがに護衛官らの鋭い監視の目からは逃れられず、説得の末彼らも一緒に行くということで片がついた。ジェイドは「必要ない」とかなり不服そうであったが、それなら宮廷から出さないと言われれば仕方ない。
「へぇ、クラーラだけじゃなく、黒隊長もここの出身なの?」
ルナは隣を黙々と歩くハーディに、驚きの視線を向ける。彼以外は皆「それなり」のオンボロ上套を羽織っていたが、彼は相変わらず上から下まで真っ黒だった。
「だからどうした。それより大丈夫なんだろうな。病床にある三の皇子を外へ連れ出して」
ターバンの下から、疑惑たっぷりの視線が突き立てられる。とはいえ出会った当初に感じていたハーディのおぞましい雰囲気も、だいぶ和らいで来たようにルナは感じていた。
「平気、平気。むしろ少しくらい外の空気を吸うことも大事だわ」
「こんな薄汚ぇ空気をか」
「ちょっと淀んでるけど、平気だって。ジェイだって久しぶりに宮廷の外に出られて嬉しいわよね? ……って、あれ?」
ジェイドがついてきていない事に気づいたルナは、狭い小道を立ち止まって振り返る。宮廷という除菌防菌育ちのジェイドは、壁に向き合いながら、吐き気に耐えるように血の気の引いた顔で口元を押さえていた。
ハーディが「ほらみろ」と言わんばかりに、ルナを睨むように見やる。
「ちょっと小汚い所に来ただけで、情けない」
腰に手を当てて息を吐くルナに対し、クラーラは心底身を案じたように青ざめていた。
「も、申し訳ありません三の皇子……。やはり御輿にお乗りいただけば参れば良かったですわ」
「テメェはパレードでも開く気か」
「大丈夫、ジェイ?」
「あ、ああ」
持っていた薬を飲ませると、ジェイドは落ち着いたらしい。長い息を吐いて周囲を見渡したかと思うと、そこらを小走りするネズミたちに眉根を寄せた。
「酷い所だ。住人までヘドロ塗れではないか……。宮廷の下男の衣すら上等に見える。お前はよく平気でいられるな、ルナ」
「悪かったですね、可愛げがなくて」
「いやいや、ルナちゃんは可愛いって。ねぇ三の皇子?」
フェリックスに同意を求められ、ジェイドは答えに窮したように、赤い顔で目を泳がせた。
「聞いたって無駄よ、フェル。この間のパーティーでだって、ドレス姿の私に馬子にも衣装なんて言ってもん」
「あ、あれは……」
「まあ、照れ隠しですわ。この間の診察に同席させていただいた時、三の皇子はずっと熱い視線で姫を見つめられてましたもの。姫がお顔を近づけられた時など、こう、ポッと頬を赤らめられて」
「余計なことを言うなっ! ……別に、今更付き合っている女に照れたりなど」
「だ、だから付き合ってなんてないでしょッ」
今度はルナが慌てる。ジェイドは優越感に浸るかのように頬笑む。
「諦めろ。すでに毎日互いの部屋に寝泊まりしているという、覆しがたい事実もある」
「あーりーまーせんッ!」
肩を抱こうとするジェイド皇子の手を払う。
「どうしたよ、隊長」
フェリックスがイライラと靴裏で床を叩くハーディに近寄る。
「他人の色恋ほど下らんものはない。くっつくなら早くくっつけばいいだろう」
「とか言っちゃって、本当は三の皇子に嫉妬してんじゃねぇの? 最近ルナちゃんを気に入っちゃってるんだろ? ほら、もう見張りもしてねぇし」
「フェル……テメェは声がデカい」
自分の肩の向こうを見ているハーディに小首を傾げたフェリックスも、すぐにその意を解した。
「どういうことだ、お前たち。俺が命じもしないのに、ルナを見張っていたのか」
ジェイドの射るような眼差しに、フェリックスは片頬を引きつらせ、気まずそうにテンガロンハットを下げた。だが、ハーディの方はまるで何が悪いとでも言いたげに、こちらの会話に気づくことなくクラーラと談笑するルナへ強い視線を向ける。
「用心のためです、三の皇子。お忘れですか、あなたを付け狙う連中は国内外にごまんといる。あの女医術師が敵ではないという確証が得られない以上」
「煩い……! 二度とあいつを疑うような真似をするな」
「ま、まあまご安心を、三の皇子。今は隊長も信じてるみたいですから」
なだめすかそうと、フェリックスは二人の間に入る。それでも二人は眼光炯々(がんこうけいけい)と向かい合ったまま動かない。
ジェイドの双眼が窄められる。
「一応聞いておくが……ルナの湯浴みも見張ってたんじゃないだろうな」
「さあ、女はこいつに見張りを任せていたので」
突然向けられた四つの瞳に、フェリックスは喫驚して両人の目を交互に見やった。
「ちょ……っ、そんなことしてないっすよ!」
「貴様、本当に……っ」
怒りを滲ませたジェイドが、フェリックスの胸ぐらを掴み上げる。
「もう、一体何やってるのよ、あなたたち」
ルナがそう制した直後、ジェイドの目つきが変わった。鋭利な視線で霧の向こうを見据えている。
「ど、どうしたの、ジェイ? 怖い顔して」
ルナがジェイドから答えを聞く前に、霧の中からヌッと大小様々な男たちが現れた。
スルスルと周囲をあっという間に取り囲み、手に持つ武器など見なくとも、彼らが決して友好的な相手ではないことは容易に察することができる。
「何なの……っ」
ルナは思わずジェイド皇子の腕を掴んだ。クラーラも身体を強ばらせて息を潜める。
「――オンナを置いてサレ」
くぐもった声や言い方から、この男らがこういったことに手慣れているような印象を受けた。こんな犯罪を生業とする者など、ここでは決して珍しくはない。
ジェイドはルナの手を己の腕から引きはがすと、
「お前たちは手を出すな」
「御意に」
「ちょ……ジェイ!」
丸腰で、それもたった一人で大勢の賊の方へ歩んでいくジェイドにさすがのルナも焦りを隠せなかった。
「フェルも黒隊長も、何のんびり構えてるの? 今こそあなたたちの出番でしょ!? ほらっ」
懸命にフェリックスを前へ押し出そうとするが、鍛え上げられた長身の男などビクとも動かない。
「だって三の皇子が手ぇ出すなって。銀狼族は性質的に主の命令に忠実だから」とにこやかに言い放つ。
「だからってあんな命令に従ってどうするの? 主がボコボコにされても静観してるつもり!? いいわ、私が助力を」
「戦場での三の皇子を知らないのか? ルナちゃん」
唐突なフェリックスの問いに、腕まくりをしていたルナは虚を突かれたように目を瞬かせた。
「こ、講義ならを受けたことがあるけど」
「なら、あの方のすごさは分かるだろ? 参加した戦には全て自ら先陣を切り、どんな不利な状況下においても隊を勝利に導いてきた天才軍将。それに剣の腕で右に出る者は軍の中にもいない。それにあの顔見てみろよ」
賊と見合う、凜としたジェイドの横顔は、生来の顔立ちの端正さも相まって、美しい悪魔の気配を帯びて見えた。正直、ゾクリとして鳥肌が立つ。
「怖い顔すんだろ? 戦場でジェイド皇子が参加されたっていう情報だけで、相手は震え上がって戦闘意欲を喪失するって話だ。まあそうだろうな。あの方は、どんな相手だろうと、恐れも容赦もしない」
ジェイドが一歩近づくたびに、賊たちの腰が僅かに引いていく。
剣の先が震える始める者もあった。
「けど味方には逆だ。下っ端兵士だろうと無駄死になんか絶対にさせない。危ない橋は自ら率先して渡られる。傷を負ってもひるむこと無く立ち向かわれる。だから皆、あの方を英雄だと褒め称える。ついて行こうとする」
「普段のジェイからじゃ、考えられないけど……」
「へぇ。それじゃあ、城砦は落とせても好きな女一人落とせない恋愛ベタな軍将様のために……余計見せ場を作ってさしあげねぇとな」
フェリックスが無邪気にウインクしてみせた。以前フェリックスは女の子にモテないと嘆いていたが、整った顔立ちと逞しい体躯を持ち、こういう気障なことをしても許されるような男。彼が相当鈍感なだけで、好意を持つ子は多いんじゃないかとルナは思った。
「ジ……ジェイは、別に私のことなんて」
「貴様はなんでそう頑なにあの方の好意を否定する。三の皇子は誰がどう見てもお前に気があるだろう。女嫌いをあれほど公言なさっていたあの方が、演技でお前に迫ると思うか?」
矢のように鋭いハーディの問いは、ルナの胸中に的確に突き刺さった。
「だ、だって……私たちはただの医術師と患者だし」
「『ただの医術師と患者』。そうやって、お前があの方から逃げたいだけだろ」
「わ……私が――?」
ドスンドスンと連続した軽い地響きと、痛そうな打撃音が響く。思わずつぶった目を開くと、死屍累々と白目をむいて気絶する賊たちの中央で、平然と服の埃を払うジェイド皇子が瞳に映った。
アヴェーラに舞うつむじ風が、彼の上套の裾を巻き上げる。
天才軍将としての顔。自分に向けられる子供っぽい優しい顔。
ふいに合ったサファイアブルーの瞳に、妙にときめく。
「あ……あの、ジェイ、だ、大丈夫……? って大丈夫ですよね、何て言ったって帝国が誇る天才軍将ですし! こんな賊を相手に怪我なんてするはずがないわよね! さささ、行きましょ!」
ルナは大声でそうまくし立てると、大股でズカズカと先を歩いて行った。
「何だ? あれは」
首を傾げるジェイドの隣で、クラーラはクスクスと鈴のように笑う。
「……女の歩き方じゃねぇ。考え直されるなら今ですよ、三の皇子」
「とか言って、自分のものにしたいだけじゃねぇの?」
余計な一言に、フェリックスはハーディから手痛い肘打ちを食らった。




