17.複雑な思いとキスの約束
「はあ……」
グルグルグルグルと、まるで今自分がかき混ぜている薬鍋のように、ルナの頭の中も複雑な思いが渦を巻いていた。
消明のこと、医術師協会のこと、女帝のこと。様々な要素が絡み合って、頭がこんがらがりそうになる。
唯一の救いは、ジェイド皇子の症状が順調に回復に向かっているということだった。このままいけば、謎の呪詛を完全に解除できる日も近いだろうとアルキスと話していた。
だがそのアルキスも少々様子が妙なのも、ルナを悩ませている原因の一つではある。
「ルナ」
「ああジェイ、どうしたんです?」
薬草園の東屋に珍しくやってきたジェイド皇子が、ドカリとルナの隣に腰掛ける。彼は心なしか、少々機嫌が悪いようだった。
「『どうした』だと? お前こそ今日の往診はどうした。予定をもう一時間も過ぎているだろう」
「…………。あ!」
ルナはしまったとばかりに、ミニトランクを持って勢いよく立ち上がる。
「どこへ行く。患者はここだ」
「あぁ……そ、そうでした」
ストン、と腰掛けたルナの気落ちしたさまに、ジェイドはやれやれと大げさなため息をついた。
「昨日、義母上に何を言われた。立ち直れないほど貶されたか、もしくはあの兄上との結婚でも勧められたか?」
「べ、別に何も言われてませんよ」
「それで通用すると思っているのか。言っておくが、これでも義母上のご気質はよく分かっているつもりだ」
誤魔化せそうに無い。そう悟ったルナは、正直に話すことに決めた。
「打診を受けました。あなたではなく、自分の側につかないかと。ですが、私はどちらにつく気もありません。私なんてただの医術師ですよ……? あなたを治療しにきたのであって、後継者争いに巻き込まれに来たんじゃありません」
「だがお前の動向は、間違いなく城内の情勢を左右する。お前の背後にあるもののせいでな」
「ねぇジェイ……それ何?」
突然変わった話の矛先に、ジェイドは怪訝そうに眉をしかめた。
「『それ』?」
ジェイド皇子はルナが見つめる先――自分の首筋を手で拭うと、何やらうっすら赤いものが指先について首を傾げる。
「ちょっとそれ……口紅じゃない?」
ルナの指摘に、皇子はあからさまに焦ったように目を泳がせた。
「いや、こ、これは!」
「あ、あなたまさか、昨日パーティーで出会ったどこぞの令嬢と朝まで……っ。ふ、不潔っ!」
「そ、そんなわけが無いだろう! これは会場で酔って倒れてきた女に抱きつかれて……。お前以外の女のなど興味は」
「あーやだやだ。そんな言い訳が通用すると思ってるの? そっかそっか。あなたやっぱり、ムドーの力が欲しくて私に近づいてるのね」
「ち、違う!」
「どうだか。医術師不足の今、ムドーほどの医術師を囲い込めれば相当の発言力になりますもんね。皇太子にだって十分なれる。そりゃあ興味の無い女だって必死に口説き落とそうとしますよ。そっかそっか、そりゃそうですよね。今までの言動も納得納得」
「違うと言ってるだろう! 俺は本当にお前が」
「別にいいのよ、ジェイ。あなたが誰と何をしようと、誰と付き合おうとこれっぽっちも興味ないわ。だって私たちは、ただの医術師と患者なんだから。そうでしょ? 元老院のことなんて気にしないで、無理するのやめたら?」
ルナがそう言った瞬間、立ち上がったジェイド皇子はテーブルに乗っていた物を全て腕でなぎ払った。地面に、今までルナが作っていた薬や道具が散乱する。
「ちょ……何するの、ジェイ! ここまで作るのにどれだけ時間が」
「お前とは……しばらく口をききたくない」
そう言ってその場を去ったジェイド皇子の横顔に浮かぶのは怒りではなく、今まで見たことのないくらいの寂しげな表情だった。
「な、何なのよ……本当のことじゃない」
そうは言いつつ、ルナの心に小さな罪悪感が影を落としていた。
○$○$○
「元はといえば、自分があんな口紅なんてつけてるから悪いんでしょう? なのに……そんな傷ついた顔しなくたっていいじゃない!」
「あの……一体何のお話でしょう……」
刺繍糸を手にしたクラーラが、困惑気味に首を傾げた。
ルナは心を落ち着かせたいから、とクラーラに刺繍の手ほどきを受けていた最中だったことを思い出し、あたふたと作業に戻った。
「あ……ち、違うの、この馬の表情がね……」
ルナは足の短い歪んだ馬に続きの針を通す。
「いった!」
勢いよく指先をついてしまい、自分のふがいなさに思わずため息が漏れた。
クラーラはそんなルナを案じたように、手元を止める。
「姫……最近、三の皇子と何かあったのですか。アルキス様のご様子も、何やらおかしいようですが」
ルナも可笑しいほどにヘタクソな刺繍を施した布を置き、覚悟を決めたようにクラーラの純粋そうな瞳を見据える。
「ねえクラーラ、私の頭がいかれちゃったとか、ついにおかしくなったとか思わないで聞いてね。私……綺麗?」
一瞬面食らったように目を丸くしたクラーラに、ルナは慌てて、
「いやいや、何でも無い! 何でも無いから忘れてお願いーッ!」
真っ赤な顔で頭を抱えるルナを、クラーラは何か悟ったように優しく見つめた。
「お綺麗ですよ、とても」
「……気を遣わなくていいのよ、クラーラ……。今までそんな風に言われたことなんてなかったし、自分でもそうは思わない。裁縫も料理も全く得意じゃないし、可愛い趣味があるわけでもない。周りには魅力的なご令嬢がごまんといるのよ。なのに、どうして私なんて……」
あれほど名声があって、容姿も端麗な一国の皇子が、どうして自分に恋などするものか。
ジェイド皇子に何を言われようとも、ルナの中でそんな思いがずっと渦を巻いていた。
彼の発する自分への好意の言葉をまともに聞いて、いつか彼本人からそれを笑われる日が来るのではないかと思えてならない。窓ガラスに映る自分が、あれほどまでに魅力的な男性に好かれる女にはとても思えなかった。
だがその考えが、なぜか心をチクチクと痛めつける。自分はジェイド皇子には相応しくない。一般庶民の自分と皇族の彼という関係上、当然であるはずの事実がいつしかとても苦しくなっていた。
固く拳をにぎるルナの手に、柔らかなものが舞い降りた。
「姫は、とても真っ直ぐですわ」
クラーラがいすに座るルナの足下に跪き、両手を包み込みながら語りかけるように話す。
「この宮殿で、そんな眼をした者は一人もおりません。皆、自己保身のために動き、昨日の発言をいとも簡単に今日翻す。そんな日常で溢れているのです。でも姫は違いますわ。打算も私欲もないあなた様のその真っ直ぐな眼差しは、とても深く心の中へと染みこんでくるのです。昨日も今日も明日も、きっとあなた様だけは変わらない。そう信じられることが、殺伐とした宮廷での日常に、どれだけの安心感と安らぎをもたらすか。……姫、そんなあなた様に三の皇子は惚れ込まれたのです。どうか自信を持ってください」
クラーラの手は綿のように柔らかく、そして日の光を浴びたシーツのように暖かだった。
自分を見上げるクラーラの大きな瞳が、湖のようなきらめきを湛える。
だがクラーラは、すぐにその光を沈めるように目を伏せた。
「そう、姫なら……大切なものを見捨てるなんてこと、決してなさらないのでしょうね。私などとは違って」
「……どういうこと?」
思わず口にしたことの続きを話すことを、クラーラは一瞬躊躇したようだった。
「旦那様には固く口止めされているのですが。私は……貧困街出身です」
「アヴェーラって……あのアヴェーラ!?」
クラーラは重々しく頷く。
ルナはこんなかすみ草のように可憐な彼女が、あのような魔窟のような巨大貧困街の出身とは、俄には信じがたかった。
「十年前、街で倒れていたところを、親切なウォルト家のご夫妻が拾ってくださいました。汚い身なりだった私を、快く受け入れてくれて。……嬉しかった。ですが、拾われたあの日、『一緒に来なさい』と言われたとき、私は家族を捨てたんです。重い流行病に苦しみ続けている弟。高い薬代を少しでも稼ぐために身を削って働いていた母。心から愛していたつもりでした。でも、ほんとうにただのつもりだった。私は……あんな貧しい生活がずっと嫌でした。だから家族を捨てて、旦那様方について行ったんです。家族に別れも告げないまま。……本当に、自分勝手な女です」
クラーラの大きく透き通った目から、清らかな涙が伝って落ちる。
「クラーラ……」
だが彼女はそれを隠すかのように、急いで涙を拭って背中を向けた。
「いけません。さ、仕事に戻りませんと」
「そうやって、ずっと後悔してたのね……」
クラーラの身体が強ばる。
「クラーラ、本当に悪いって思ってるなら、直接会って謝るべきだわ。それに突然居なくなったあなたを、きっと心配しているでしょうし」
「……でも、私は」
「今から、アヴェーラに行きましょう。先に竜舎に行ってて。ムドーにばれないように自分の部屋から、医術道具の入ったカバンを持ってくるわ。あの人、私がアヴェーラに行こうとすると、いっつも煩いから」
「でも!」
「善は急げ! あなたの言うとおり、私は真っ直ぐなのかも。猪突猛進的に」
何を言っても、梃子でも動きそうも無いルナの申し出に、クラーラは申し訳なさそうに、だが感謝の涙を浮かべて頷いた。
「どこにいるのかしら、ムドー……。また資料庫?」
ルナは盗人よろしく忍び足で自分に宛がわれている部屋の扉を開けると、キョロキョロとしつこいぐらいに辺りを見渡して中へ足を踏み入れた。
壁に背中をつけ、高鳴る胸の鼓動を鎮める。
あの師匠に見つかればとがめられることは間違いない。それどころか、もう二度とアヴェーラに行けなくなるかも知れない。
それほどアルキスは、ルナがアヴェーラへ行って貧しい人々の治療をすることに反対していた。
「慎重に、慎重に」
ルナはソファーに無造作に放り投げてあったミニトランクを手に取ると、意気揚々として振り返った。
「お嬢様、どちらへ?」
「――――!」
目に見えて分かるほどに、ルナの肩がはね上がる。
「ム、ムドー……あの、ちょっと、ね!」
慌ててミニトランクを背中に隠したが、時既に遅い。笑って誤魔化そうとするルナとは対照的に、アルキスの表情には、もういつもの笑みは浮かんでいなかった。
「『ちょっと』……どこへ行くつもりだと聞いている」
「…………だ、だから……」
トランクを抱いたまま、ルナは無意識に後ずさる。
アルキスは怒っていた。彼自身はとても静かだというのに、それがありありと伝わるほどに。
これほど、彼の天鵞絨色の瞳が恐ろしいと思ったことはない。ルナは綺麗な人が怒ると怖いと聞いたことがあったが、それを今、痛いほどに実感していた。
窓から吹くそよ風が彼の一つに縛った長い髪を靡かせ、それすら行く手を阻もうとする壁のように思える。
アルキスはまるでよく切れる剣の刀身のような目で、射殺さんばかりに自分を見据え、ルナは全身に鳥肌が立った。
「またアヴェーラへ行くつもりか、ルナ」
いつも以上に低い声でアルキスがそう尋ねる。というより、確信しているようだった。
「何度言えば分かる。やめろと言ったはずだ」
だがここで引き下がるわけにはいかなかった。クラーラの弟を助けなければ。何よりクラーラと家族を会わせてあげたい。
「クラーラの弟さんを助けたいの。だからお願い、そこをどいて!」
「だめだ」
「ねえ、アヴェーラが危険な場所だっていうのは分かってる! だったらムドーがついてきてくれればいいでしょ? お願い、今回だけだから!」
「相変わらず、言っても聞かないな」
アルキスはルナを一瞥して踵を返すと、部屋の出入り口の扉を閉じた。アヴェーラに行くことを許してくれたような口調ではない。
急いで扉に駆け寄ってノブを回す。だが、押しても引いてもびくともしない。
「魔法で鍵がかかってる。ちょ……開けてったら! ムドー!」
何度も強く扉を叩くが、アルキスが答えてくれる気配はない。自分が諦めるまで、彼はここへ閉じ込めておくつもりだろう。
「クラーラが待ってるのに……」
扉に凭れかかり、ずるずると滑るように座り込んだ。
「どうして……」
危険だとはいえ、アヴェーラには医術――自分の力を必要としている人々が大勢いる。病に伏す親や兄弟にに薬も買ってやれず、弱っていく様をただ見ているしかない者たちが大勢いる。そんな彼らの悲痛な苦しみや辛さが、早くに家族を失ったルナには、痛いほどよく分かっていた。
「どうして分かってくれないの……ムドー」
膝を抱えてうずくまるルナの耳に、カンカンと優しくガラスを叩く音が聞こえて顔を上げた。
窓の外で、子供ドラゴンが嬉しそうに尻尾を振っている。
「カリメラ!」
バルコニーへ続く扉を開けると、カリメラが嬉しそうに頭をルナにこすりつけた。
「もう、良い子良い子!」
まだ柔らかなウロコで包まれた頭を何度も撫でてやる。
「さ、アヴェーラに行くわよ! でもどうしよう……クラーラもいることだし」
普段アヴェーラへ単独で乗り込んでいるルナも、今回はクラーラもいる。女二人だけでうろつけば、あの街でかなり目立ってしまうだろう。
「仕方ない、よし」
ルナは決意したように力強く頷くと、不格好にカリメラにしがみついて飛び去った。
「ジ……ジェイ? ちょっとお願いがあるんだけどなぁ……」
クラーラの待つ竜舎の前に寄ったのは、ジェイド皇子の部屋だった。バルコニーからドラゴンに乗ったまま侵入してきたルナに、皇子は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐになにごとも無かったかのように再び本に目を落とす。
「ねえ、ジェイったら! この状況で私の存在に気づいてないなんて言わせないわよ!」
カリメラの背中にしがみついたまま叫ぶが、彼はまるで聞こえていないかのように反応を示さない。カリメラが振った尻尾が巨大な花瓶を割っても、彼は僅かに眉間に皺を寄せただけで、顔を上げようとはしなかった。
ジェイド皇子は、最近こうしてあからさまにルナを無視していた。
何を聞いても答えない。目も合わせようとしない。あの日の自分の言葉が原因だと分かっていたが、それでもそんな態度は無いんじゃないかとルナは思う。
ルナは苛立ちと疎外感を覚えながら、カリメラから滑るように下りた。
「自分だって、私が気になってるとか言うくせに、不用意にあんなところに口紅つけてるのが悪いんじゃない……。なのに何なのあの態度……私ばっかり悪いみたいに……」
ルナはカリメラにしがみつきながら、いじけたようにブツブツと呟く。
「問題があったらあったなりに話して解決するのが大人でしょ……。なのにいつまでも子供みたいに私を無視して……何なの……何がしたいのよ……」
「何なんだ一体っ……!」
これ見よがしのルナの独り言に、我慢できなくなったジェイド皇子が本を投げ捨てて立ち上がる。
「アヴェーラに行きたいの。ついてきて」
単刀直入すぎるルナに、ジェイドはしばらく言葉を失ったかのようにたっぷりを間を空けた。
「ア、アヴェーラだと? この間の社交界パーティーといい、お前は一体どこまで危険な思いをすれば気が済むんだ」
「ですからこうやって、百戦錬磨の英雄様についてきてくださいって言ってるんじゃありませんか。ほら、人助けだと思って」
「断る。第一、あの男はどうした。こんなときの執事じゃないのか」
「ち、ちょっと事情があるからこうしてお願いしてるじゃないですか……」
一瞬ひるんだルナに、ジェイド皇子は彼女の弱みを嗅ぎ取ったように畳みかける。
「俺は不潔な場所が嫌いだ。それにあの口紅の件のことをまだ許してはいないしな」
「どうしてあの件に関して、私が怒られる必要があるんです」
「あれは何でもないと言ったのに、信じなかっただろう」
「別にいいじゃないですか。信じる信じないは私の自由でしょう?」
「それでは困る! お前に疑われたままなのは……困る」
ジェイド皇子は顎を引き、拗ねたような顔でルナを見つめた。その表情に、無性に母性本能がくすぐられ、ルナは己の脈拍数がやけに上がったのを感じた。
「わ、分かりましたよ。あの件で疑ったことは謝りますから」
「……『謝る』。それだけか?」
「それだけ、とは……?」
「俺は傷ついた。癒しが必要だ」
「いくら私でも、心的な傷までは……」
ジェイドは意味深な笑顔を浮かべた。
「そんなことはない。お前が俺にキスしてくれたら、俺の傷は癒やされるはずだ」
「…………キ……キス!?」
「嫌ならそれでいい。ただし、アヴェーラについて行けるほどの元気は、しばらく回復しそうにない。ああ、ついて行ってやりたいのに残念だ。非常に」
美しいサファイアブルーの瞳が嗜虐的に歪む。
(この性悪男……っ)
ルナは悔しさにキリキリと拳を握りしめるが、ここで引くことなどできない。
「わ……分かりました! やりましょうキスぐらい! いくらでもやってやりますよ」
高らかにそう言い切った。




