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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第一章  ~ポエニクスの涙を探す~
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16.戸惑う心

(やっぱり、ムドーについてきてもらえばよかったッ――!)

 女帝とその息子を前にしながら、ものの一〇分もしないうちに、ルナはそう激しく後悔していた。

「そなたとは、前々からこのようにゆっくり話をしたいと思っておった。クロエ医師」

 パーティーで疲れた時に、一時的に休む休憩室のソファーで紅茶を口にする。ここは葉巻室も兼ねているのか、少々煙臭さもあって、こんな状況だというのに鼻がムズムズとするのが哀しい。

 狭い空間で女帝とクラティス第二皇子、それに彼らの部下数人に囲まれ、ルナは敵地の中に置いて行かれた捕虜のような気分だった。

(帰りたい……。ムドー! 通じて、私の心の声ー!)

 扉を開けて助けに来てくれるアルキスを何度も想像し、心の中で助けを叫んだところで、所詮は妄想。声が届くはずもない。

 女帝ことアナベルは、大きな石のついた指輪をいくつも指にはめ、何百もの小さな宝石をちりばめたドレスを身に纏っていた。だが女帝はそれらに圧倒されることなく、まるで荒れ狂うドラゴンを飼い慣らすかのように易々と着こなし、身を飾っていた。

 人族計算で二七歳だと自称するアルキスの倍ほどは年を取っていそうだが、それでもとても綺麗な人だとルナは思った。

 長いまつげに、張りを忘れていない肌と髪の艶やかさ。真っ赤な爪は一昔前の流行だとはいえ、若い頃はさぞや玉のように美しい女性だっただろう。

 だがその深緑色の瞳の奥に、ギラッと光るものをルナはヒシヒシと感じていた。少し先のとがった鼻からも、山脈のように高い気位を覚える。彼女が自分を冗談めかして批判した異国の王に激高し、国ごと潰したという話も虚実ではないだろう。

 ルナは絶対に負けじと澄ましてはいるが、全身から冷や汗が吹き出し、身はコルセット以上に締め付けられる思いだった。

 だが、一人でこの局面を乗り越えなければならない。

 今度こそ、腹をくくる。

「クラティス皇子はそなたにとても興味がおありになるらしい」

 女帝の隣に座る第二皇子の紫紺の瞳と視線がかち合った瞬間、ルナは背中がゾワリとした。クラティス皇子の面立ちはジェイドと似て美しいが、ジェイドがなら彼は影。燦々(さんさん)と太陽の下で伸びる草ならば、日蔭にこけのようだった。

 クラティス皇子を包む陰湿な空気が、ルナはどうも受け入れられない。

「な、なぜ私などに……ほ、他にも綺麗な方は」

「クラティス皇子は医術を学んでおられるのだ」

 ああそっちか、と気恥ずかしくも安堵したが、庭でひどく草を枯らしていたクラティスの姿を思い出してハッとする。

(医術……ならあの時、この人は医術の実験を!?)

 付き人の一人が、テーブルの上にそっと分厚いノートを置く。

「は、拝見させていただきます」

 開いたノートは黒い用紙でできているのかと思うほどに、小さな文字でびっしりと医療魔術が書き込まれていた。それも、一級のレベルなどとうに超しているだろうほどに高度な魔術ばかりだと一目で分かる。

 どこか執念すら感じられ、ノートを持つ手に戦慄が走った。

「す、すばらしい……です、これほどまでに高度な医術を、一体どこで」

 おずおずと、ルナは斜め向かいに座るクラティスに話しかけた。だが彼はテーブルの一点を見つめたまま、何も答えようとしない。

「それよりジェイド皇子の病はどうじゃ、クロエ医師。ジェイド皇子とは政治的には対立するとは言え、クラティス皇子の血の繋がった弟。嗚呼、心配でならぬ」

 芝居がかって見えるのは、ルナの見方が穿うがち過ぎているからというわけではないだろう。

「そうでしょうね……第一皇子も同じような症状を患ってお亡くなりになられたんですから」

 女帝の細い眉が僅かに動いて、ルナの掌にいよいよ脂汗がにじみ出す。女帝の一挙手一投足が、とても意味のあるものに思えて恐ろしかった。

 この空気のよどみすらも、彼女の仕業に思える。

「あれはまこと不幸な病であった。イーサン皇子は賢く気高く、そして大層な努力家であられた。このクラティス皇子も、大変にお慕いしておられたのに」

 鷹のような目を悲しそうに伏せてはいるが、本心で悲しんでいるようには到底見えなかった。

「ジェイド皇子は…………完治されるのか」

 二度目に聞いたクラティス皇子の声は、以前よりも弱々しかった。というより、まるで掠れた風のよう。あまりに話さないが故に、声が消えかかっているのだろうかと思った。

 だが医術の話となると、ルナは途端に目に力を宿す。

「ええ、勿論。私が責任を持って治療するとお約束しましたから」

 そう言った途端、クラティス皇子の口元がビリビリと小刻みに震えるのが見えた。

(何なの……一体)

 何もかもが異常な親子に思える。こんな二人が傍にいては、ジェイド皇子もさぞかし宮廷内での居心地が悪かっただろう。戦にかまかけ、城をよく空けていた彼の気持ちが少し分かる気がした。

「クロエ医師……そなた、なぜ医術師を志した」

 女帝は足を組み、優雅に紅茶を口にする。

「誰にでも、平等に医術を受けられる社会を作りたいからです。身分、種族によらず、助けられるようになりたいからです。もちろん半人族でも」

 最後に付け加えた一言には、殊更に力を込めた。

「かの法案が耳に入っておったか。じゃが心配は無用」

「どういう……ことですか」

 女帝は隣に座るクラティス皇子の髪を優しく梳いた。

「このお優しいクラティス皇子が大層反対されておってな。考え直したいと思っておる」

(クラティス皇子が?)

 完治させるといった瞬間から、一点を見たまま口元を震わせている彼がそんなことを言うとは、どうにも信じがたい。

「どうじゃ、クロエ医師。このように慈悲溢れるクラティス皇子と手を取り合わぬか。不要な戦ばかりに明け暮れ、民のために何一つなしてこなかったジェイド皇子より、自ら医の道を志し、民をおもんばかろうとなさっているクラティス皇子と親交を深める。それこそが、そなたの志す医術社会への一歩ではないか?」

「どちらが皇太子になられるのか、私のような者が関知するところではありません。失礼いたします」

 これ以上、ここに居たくない。自分は飽くまで治療に来たのであって、こんな政治のゴタゴタに巻き込まれる筋合いはないのだ。

 立ち上がって扉に向かう途中、やけに彼らの家臣の冷たい視線が突き刺さった。

「色よい返事を期待しておるぞ。クロエ医師」

 余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)。振り返らずとも、そんな女帝の表情が容易に想像できた。




「ったく、何を勝手なことばっかり」

 池の上に立つ東屋で、ヒンヤリ冷たそうな月を見上げた。遠くで未だパーティーの明かりが見え、小さく音楽も聞こえる。

――不要な戦ばかりに明け暮れ、民のために何一つなしてこなかったジェイド皇子より、自ら医の道を志し、民を慮ろうとなさっているクラティス皇子と親交を深めることこそが、そなたの志す医術社会への一歩ではないか?

 もし……もしも女帝の言うことが本当だとしたら、本当に皇帝に相応しいのはどちらなのか。自分の理想とする社会を作れるのは、どちらなのか。

 ジェイド皇子は、そもそも皇帝になる気がない。

 夜風を髪に感じながら、アナベルの言葉を幾度も反芻はんすうした。

「あーコラコラ、騙されるな、ルナ・クロエっ!」

 ルナは激しく頭を振る。その瞬間、背中に冷たい物を当てられ肩をはね上げた。

「っ……! ……って、シャオ」

 振り返った先にいたのは、ニコニコと微笑む厨師の消明だった。

「こんなところで、何をしてるアルか」

 手渡された飲み物を受け取りながら、ルナは彼に盛大な独り言を聞かれていたかもしれないと、気まずさに視線を泳がせた。

「あ、あなたこそここで何してるの?」 

「クラティス皇子とジェイド皇子は、兄弟といえど政敵アル。一方を皇太子に推しながら、もう一方と結ばれることなんて、本人が許しても周りが許さない」

「盗み聞きしてたわね……」

 やっぱり独り言を聞かれていたかと、ルナは落ち着かなさそうに一気にグラスを空けた。

「変な妄想はやめて。私は別にどっちを推すとか推さないとか考えてないし、ジェイと結ばれるなんて……」

「俺はジェイド皇子だなんて、一言も言ってないアル」

「い、言ったようなもんじゃない!」

「皇子と結婚する気アルか? 俺の奴隷なのに」

 顔をのぞき込まれ、札の両側から見える漆黒の瞳に引き込まれそうになる。

「別にそれは、アンタが勝手に言いだしたことで、私は――っ」

 突然足に力が入らなくなり、ルナはグラスを落とした。

「何……?」

 欄干に捕まり、必死に体勢を保とうとするが、身体が痺れたように言うことを利かない。

 胡散臭い笑みを浮かべたまま、消明はルナの顎を持ち上げた。

「医術師は自分の傷や身体の異常を治すことができない……なんて皮肉アルよな」

「あんたまさか……飲み物に何か……」

 細められた彼の漆黒の瞳は、いつも以上に妖艶に映る。そっと親指の腹で唇をなぞられ、ルナはゾクリとした。消明はルナの身体を支えたまま片方の手で札のついた帽子をずらすと、ゆっくり目を閉じてルナに唇を寄せる。

 キスをされると思った瞬間、ジェイド皇子の顔が頭を過ぎった。彼以外の男に唇を奪われる。その事実がやけに重くのしかかった。

「やめ……て」

 声も上手く出ない。

(だめ――っ)

 消明と影が重なり、唇が触れ合いそうになった瞬間――

「お嬢様から離れろ」

 視線を横へやると、アルキスが今までに見たこともないほどの明らかな怒りに満ちて消明を見据えていた。

「ム、ムドー……」

「嫌アル。今、イイトコロって奴アルからな。そっちこそ邪」

「劉ッ!」

 初めて聞く、アルキスの怒鳴り声だった。

「はいはい、冗談アル」

 消明が離れた途端、体が嘘のように軽くなった。その隙を逃さず、アルキスがルナを引っ張って自分の元へ引き寄せる。

 ホッとした瞬間、ルナの中で疑問が鎌首をもたげた。アルキスは確かに彼を『劉』と呼んだ。

「ねえ、ムドー……シャオと知り合いなの?」

 アルキスは一瞬答えを迷ったようだが、諦めたように小さく「……はい」と頷く。

「いつの間に知り合いに? ここに来てからなんでしょ?」 

 飢えた獣のようにランランと瞳を輝かせる消明は、もっともらしく拱手きょうしゅしてみせる。

「好久不見。お久しぶりです、ムドー」

「……え? ……ム、『ムドー』!?」

 ルナは目をまん丸に見開き、弾かれたように勢いよくアルキスを見上げた。

「劉は、私の元弟子です」

「う、嘘……っ。あいつが? ムドーの?」

「よう、いもうと弟子」

 そう手を上げる消明の手首に煌めく銀輪は、明らかに特級医術師の証であった。それもただの銀輪ではない。銀輪の医術師協会、ノアールに所属することを示す、ウロボロスを模した腕輪だった。

「あ……あんたがノアールの特級医術師だったの!? だって……医術師は(かじ)った程度で、もう辞めたんじゃ」

「残念ながら、バリバリの現役アルよ」

「協会に属するお前が、一体ここへ何をしに来た」

 アルキスは棘のある声で、しっかりルナを抱き寄せる。彼のこれほどまでに警戒心をむき出しにした様をルナは初めて目にした。

「良い食材を求めに各地を放浪してるだけ。俺にとって料理は医術より大事アルからな」

「……知っているだろう。私が嘘を嫌うのを」

 それに消明は、カラカラと懐かしそうに目を細めて笑う。

「そうだったアル。だったら正直に言ってやる。……ポエニクスの涙を探しに来た」

 札の両側から、鏃のように鋭利な光が見える。

 この男はあなどれない。そう直感した。

 アルキスすらも読み切れないだろう、得体のしれないおぞましさを感じた。

「ポエニクスですって……? あれはただのおとぎ話でしょうが」

「お嬢様、奴の言葉を聞いてはなりません。この男はすぐに他人を惑わし、手玉に取ろうとする」

「だったら……まさかあなたがジェイを?」

「さあ。そうかもアルな」

 肩をすくめ、踵を返す消明を背中を、アルキスはキッとねめつけた。

「願わくは、劉……お前が誰かに『飼われている』ことがないよう」

 消明がピタリと足を止める。

 「飼われている」。個人にお金で囲われる銀輪の医術師を、アルキスは軽蔑の意味を込めてそう表現していた。貴重な高度医術を使って、安易に金儲けに走る者も多かったのだ。

「医術師はいつから慈善家になった?」

 顔だけ振り返った消明は、相変わらず微笑んでいた。だが彼の視線は、相手の心を抉り出そうとしているように鋭利に見える。

「あんたはいつもそうだった。『医術は公のものであれ。弱きものにも医療を』。そんな間抜けたことばかりアル。それで結局どうなった……」

 ルナの身体を支える、アルキスの指先が震え始める。

「ムドー?」

 ルナが顔を上げると、薄暗い中ではっきり確認できるほどにアルキスの顔は真っ青になっていた。

「医術は特別なものであるべきアル。選ばれし者だけが生き長らえ、価値のない者は淘汰されればいい」

「……なんてことを!」

「じゃなきゃ、またあんなことになるアルからな、ムドー。ほら、ルナにも教えたやったらどうです? あんたのせいでしょう、あんな」

「やめて!」

 震えの大きくなっていくアルキスに、ルナは堪らず消明の言葉を遮った。

「それ以上無駄口叩くなら、その大事なお札を千切って鶏ガラスープに入れるわよ……」

 一瞬きょとんとした消明は、「それは困るアル」と帽子を回して札の位置を正面に戻してルナを面白そうに眺めた。

「ルナ。お前は第三皇子でも第二皇子でもなく、俺の元へ来る。俺の下僕として、必ず……」

 どこから湧き出るのか分からないが、その口調は自信たっぷりだった。

「じゃあまた近いうちに。再見」

「誰があんたなんかと!」

 後ろから蹴り倒してやりたい気分だったが、今はそれどころではない。

「ムドー……、大丈夫?」

 顔色の悪いアルキスを覗き込む。今や彼女がアルキスを支えているような格好になっていた。

「平気です。すみません、少し酔ってしまったのでしょう」

 風に当たってくるとその場を後にするアルキスに、ルナは彼が医術師を辞めるきっかけを見た気がした。


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