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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第一章  ~ポエニクスの涙を探す~
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10.ノアールの真実と魔界神話(前)

「あー今日も疲れた。早く寝よっと」

 ルナがごそごそと布団に潜り込んだ瞬間、誰か来訪者が彼女の部屋の扉をノックした。

「はい。どなた?」取っ手に手をかけ、待てよと思いとどまる。「……まさか、ジェイじゃないですよね」

 名前で呼べと迫られた夜以降、彼は毎晩立て続けにルナの部屋に押しかけて来ていた。それもすぐに帰ってくれるならまだしも、朝まで居座るのだからたちが悪い。

 ルナの警戒心を露わにした低めの声に、

「い、いえルナ様。私です」

「クラーラ?」

 なんだ、と無警戒に扉を開けて後悔した。僅かに扉を開けた瞬間、グイと男物の靴先がねじ込まれ、体が滑り込んできた。

「俺だったら何か問題でもあるのか、ルナ」

「ジ……ジェイッ」

 彼の背後には、クラーラが申し訳なさそうに振り返りながらその場を後にしていた。

「罪のないクラーラを利用するなんて、卑怯者っ!」

 「帰れ」と思い切り扉を閉めたが、彼の腕に思い切りぶつかって閉じられない。それでも僅かながらダメージを与えられたのか、ジェイドは僅かに涙目になっていた。

「帰れとはなんだ。よく眠れないと、患者が不眠を訴えているんだ」

 そらきた、とルナは準備しておいた朝の小袋を手渡す。昨日も一昨日もこの手で部屋に押しかけて来たのだ。

「睡眠薬です。それも特別強力な」

「俺はこれ以上薬など飲みたくない」

「眠れないんでしょう? だったらお飲みになってください、はい解決」

「こんなものなくても、お前と話している内に眠気が来る。入れろ」

 一向に引き下がる様子のないジェイドに、ルナはあからさまにため息をつく。

「分かってるんですか? あなたが毎晩のようにここへ来て朝まで居座るせいで、すっかり『そういう関係』だって思われているんですから! 噂が噂じゃなくなってきてるんです!」

「今晩は気が済んだら、すぐに帰る」

「まさかその『気』は、朝まで済まないんじゃないでしょうね?」

「か……患者を信じられないのか?」

 ジェイドは急にしおらしくなって、わざとらしくさっき扉にぶつけた腕を痛そうにさすり始めた。

 

 

「これを飲んだら、すぐ帰って寝てくださいね」

 ルナは金の取っ手を持ち、ミルクポットからマグカップへ注ぐと、ソファーに腰掛けるジェイドに差し出した。優しく甘く、どこか懐かしい香りが部屋を包む。

 ジェイドは酒がいいと言ったが、患者に飲ませられる酒などあるはずはない。

「これではまるで子供ではないか」

 言いつつ、カップは大人しく受け取る。

「あら、宜しければ、子供ついでに物語の読み聞かせもしてあげましょうか?」

 ジェイドの向かい側に腰掛け、一冊の本を開いた。馬鹿にするなと拗ねるかと思ったが、彼は予想外に嬉しそうに白い歯を零す。

「懐かしい。よく乳母が寝る前にしてくれていたものだ。随分と下手だったが」

 ジェイドの思い出につられるように、ルナは優しく微笑んで表紙を撫でる。古書であるため、表面は激しく劣化していたが、管理は万全なため、落丁も破れもない。

「童話集です」

 父親の遺品の一つを、ルナは懐かしむように開いた。湧き上がる埃っぽい香りと共に、あのころの記憶が甦ってくる。

「昔々。とある山村によく問題を起こす荒くれ者の青年がいました」

 記憶の中にある父の声に被せるように、ルナはゆっくりと読み始めた。ジェイドも目を閉じて聞き入る。

「村人皆が手を焼いていたその青年は、ある日、魔獣に襲われ谷底へ落ちてしまいました。幸い傷は深くありませんでした。しかし嫌われていた彼は誰にも探してもらえず、森をさまよってフラフラと湖にたどり着いたのです。そこには美しい精霊の少女が、一人で楽しそうに水浴びをしていました。彼らは目が合ったその一瞬で恋に落ち、共に暮らし始めました。それからというもの、問題ばかり起こしていた青年は狩りや畑仕事に精を出すようになり、きちんと真面目に生きるようになったのです。けれど愛する彼女はもうじき精霊の寿命を迎え、月明かりと共に消えゆく運命でした。それを知った青年は悲しみ、命を捨てる覚悟で、愛する彼女のために不老不死をもたらすと言われるポエニクスの涙を探す旅に出たのです。たくさんの苦労を乗り越え、見事それを彼女の元へ持ち帰りました。永遠の命と愛を手に入れた彼らは、今も魔界のどこかで幸せに暮らしているらしい……というお話です。街でもよく、『これがあのポエニクスの涙だ』って言って偽物が売られているでしょう? 有名なおとぎ話です」

「ポエニクスの涙……」

 大人しく耳を傾けていたはずのジェイドが眉をひそめ、考え込むようにカップを握りしめていた。

「何か?」

「いや、何でもない。それよりルナ」 

「はい……って、ちょっ……!」

 ジェイドはソファーから立ち上がってルナの腕を引っ張り上げ、ベッドへ押し倒した。

「ジェイっ!」

 覆い被さってくるジェイドに、羞恥を押し隠して懸命に眉をつり上げて怒った顔を作ってみせる。自分を押し倒すジェイドは、至って冷静な表情をしていた。それがなぜか悔しい。 

「……キスしたい」

「は、はあ?」

 言われたことを理解する前に、唇をゆっくりとなぞられた。背中がぞくりとする。

「お前とキスをしたい。いいだろう?」

 酔いしれるかのような、うっとりとした視線が降り注がれる。この近距離に、やっぱり顔だけはいい男だと嫌でも再認識させられた。心臓がバクバクと煩い。

「ダ、ダメです! ダメに決まってるじゃないですか!」

 これ以上ないほどに顔を赤く染め、半ば自分に言い聞かせるようにルナはまくし立てた。

「なら、どうすればさせてくれる」

「どうすれば……って」

 ひどく哀しそうなジェイドの表情に、思わず「いいですよ」と言ってしまいそうになって首を振る。

「ど、どうしてもダメです! 大体、あなたを名前で呼んだらしないって約束だったじゃないですか」

「だからわざわざ、お前に許しを請うているんだ。でなければ押し倒した瞬間に奪っている」

「……ジェイ、あなた本当はすっごく女慣れしてるでしょ」

 向こうは明らかに、こういったことが初めてではないと女の勘が言っている。

 ジェイドはそこで小さく笑う。まるで大人が子供を愛でるような、優位に立つ者の悠然とした笑いだった。

「ただの教育カリキュラムの一環だ。皇族の男として恥をかかぬようにという」

「へ、へぇ、そうやって美人の女家庭教師さんに、みっちり教え込まれたってわけですか」

「ああ。お前を喜ばせるためにな」

 今日のこの男は手強い、とルナは思った。なんとしてでもキスしてやると、顔に書いてある。何とか話題を変えようと、懸命に考えを巡らせた。

「そ、そうだ。しゅ、就寝前のお薬を飲まれましたか」

 ジェイドはきちんと管理していないと、すぐに薬を飲むのをサボる。案の定、彼は綺麗な顔を歪ませた。

「お前の処方する薬は苦い」

「良薬口に苦し。文句を言わない」

「飲んだらキスしてもいいのか?」  

 期待を滲ませ、嬉しそうに上半身を起こすジェイドから、これ幸いとばかりに抜け出そうと体をひねる。

「全く。いい加減にしないと、もう名前で呼ぶのやめますよ、第三皇子」

「……もういい。寝る」

 ジェイドはベッドから這い出しかけたルナを再び押し倒すと、ふて腐れたように布団を背中からかぶり、ルナの上にまたがったまま目を閉じた。

「寝るって……どこで寝るおつもりですか! ジェイ! ジェイッ!」

 

 ○$○$○

 

「ってわけで今日もろくに眠れなかったわ……」

 目の下に薄い隈を作ってあくびをかみ殺す。

「それはそれは。痛快な毎日ですね」

 アルキスは至極可笑しそうに体を震わせた。

「もうムドーは他人事だと思って。いくら本気っぽく来たって私はあの人が本心から好きだなんだの言ってるわけじゃないって、分かってるんだから!」

 ルナは柔らかな頬を子供のように膨らませると、乾燥室で乾燥させていた薬草を、少々乱暴に瓶に詰めていく。

「いえいえ、ジェイド皇子は、あなたとの関係をもっと公にしたいのでしょう。ご自分だけのものにするために」

「ゾ、ゾッとするようなこと言わないで」

 瓶でいっぱいになり、少々重くなったバスケットをアルキスが代わりに持つ。

「それよりお嬢様。閨を共にするといっても、本当に何もないのでしょう?」

「と、当然じゃない! 彼はただの私の受け持ってる患者ってだけなんだから」

「百『万』歩譲ってキスは許せても……」アルキスは声のトーンを落とすと共に、ルナの顎を強引に引き上げて顔をぐいと近づけた。

 兄や父とも慕う彼とはいえ、思わず見とれるほど端正な顔を近づけられてはルナも反射的に顔が赤くなる。

「正式に嫁ぐ前から、そんなふしだらな関係は許さないからな」

 眼前の自分を見つめる剣呑とした双眸は、完全に据わっている。

「は……はいぃ」

 赤くなっていた顔が、一瞬のうちに青ざめた。不意打ちの、師匠バージョンの彼は心臓に来る。

 ルナの返事に満足したのか、アルキスはいつもの執事の顔に戻り、柔らかな笑みを浮かべて顔を離した。

「それより気になりますね、同じ病で亡くなったかもしれないという、第一皇子のこと」

「え、ええ。ねえムドー? もし、同じ呪詛をかけられてたとしたら」

 乾燥室に差し込む太陽の明かりが、アルキスの片目を照らした。

「お二人に恨みを持つ者の犯行か、もしくはお二人がいなくなることで利益を得る者のしわざ……かもしれません」

 一瞬、先日見た第二皇子の後ろ姿が頭をよぎった。

「他人を救うはずの医術で、誰がこんな真似を……っ!」

 ルナは怒りを押し隠し、息を吐いて顎を上げた。 

「ちょっと資料庫覗いてくるわ。あそこに行くの、あんまり乗り気じゃないけど」

 

 ○$○$○

 

 ロイは書き込んでいた手帳から、勢いよく顔を上げた。

「朝帰り? ルナ様のお部屋から?」

「ああ。おかげで寝不足だ」

 あくびをかみ殺すこともなく、ジェイドは執務室の椅子に腰掛けた。眠そうに目をしばたかせるジェイドの姿に背を向け、ロイと元老院議長は頭を付き合わせる。

「議長、どう思いますこれ。ホンマなんですかね」

「ふむ。あのルナ様を、そう簡単に口説ける技量をお持ちかどうか怪しいとは思って、勝手にこちらで密会の噂を流しておったが……実際にルナ様が三の皇子を名前で呼ぶようになったり、三の皇子がルナ様のお部屋に入ったきり、朝まで出てこなかったという侍女らの証言もあることじゃしのう」

「やりやがったんですかね」

「男女が閨を共にして、本能の声に背くことができる者はそうおらん。……やりやがったんじゃろう」

「っちゅうことは、つまり……?」

 骸骨の元老院議長が真剣な面持ちで、ゆっくりしなびた両手の親指を上げる。

「三の皇子の尻を蹴りに蹴りまくった、我らの大大大勝利というわけじゃ」

「ジェイド様!」

 ロイはあくび途中のジェイドに駆け寄り、その手をしかと握る。

「あんた様はやったらできる男やと、この小生は最初っから分かっておりました!」

「いやあ目出たい、目出たい!」

 ロイは感動して涙を流し、議長はどこから持ち出したのか分からない紙吹雪をまき散らす。

「ベビー用品も早く買いそろえんと! ねえ、議長!」

「べ、ベビー用品!?」

 ジェイドは眠気が吹き飛んだように、目を丸くして鸚鵡おうむ返しした。その途端、二人の動きがパタリと止まる。

「え……まさか、そういうこととちゃうんですか?」

「朝までご一緒で、まさか添い寝だけ……とか」

 頭頂に紙吹雪をのせた二人の、呆然として失望の滲んだ顔つきに、ジェイドは視線を宙に漂わせる。

「そ、そんなはずないだろう。むしろ向こうから誘ってきたくらいだ。早く用意しておけ、昨日のあれであれしたかもしれんしな……」

 やっぱりそうかと、両手を取って踊り始めるロイと議長を横目に、ジェイドは頬をほんのり赤く染めて、「いずれはそうなるはずだ」と眠気に襲われたふりをしながら顔を机に伏せた。

 

 ○$○$○

 

 ルナはアルキスと別れると、いつもは寄りつかない、宮廷内にある医術資料庫へ足を踏み入れた。そこには宮廷内で行われた医療記録以外にも、帝国内各地から集められた膨大な資料が眠っている。医術師としてかなり興味のあるところだが、ここにいると宮廷医術師らに見つかって追い回されるのが目に見えているため、あまり足を運ぶことはなかった。

 本当は今日とて寄りつきたくなどなかったが、第一皇子の病に関する資料を探すためには致し方ない。

 棚に順序よく並んだ新旧入り混ざったファイルの背を撫でながら、埃っぽく薄暗い資料庫を進んだ。

「イーサン……イーサン。あった」

 薄いファイルを開いて、七年前のカルテを探した。

「無い」

 七年前のカルテだけごっそり抜け落ち、無理矢理引きちぎったような、紙の断片がわずかに残っているだけだった。


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