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妹が恋人になりました。  作者: 蒼龍 葵
ー弘樹 論文発表会編ー
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第八話 「小さな嘘と、すれ違い」

 何となく雪が気になって、俺は論文の纏めを今日も森田か田嶋の家でやる予定だったのだが、今日だけはごめんと言い家に帰ることにした。

 その足でテニス愛好会にふらっと顔を出すと、部長の御岳さんが驚いた顔で俺を迎えてくれた。


「あれ?雨宮…お前どうした?今薬剤部って論文忙しいだろ」

「いえ、ちょっと……あの、……雪、ここに来てました?」

「おぉ…さっきまで三宅と練習してたけど。ありゃ?そういえば姿が無いな。帰ったんじゃねえか?」


 ……その、帰ったが重要なんだよ……


 これ以上この場に居ても収穫はないと思い、御岳さんに一礼してまた論文落ち着いたら来ますと言い、コートを後にする。

 俺は妙な胸騒ぎを覚え、とにかく急いで家に帰ることにした。



「ただいま……」

「お帰り、弘樹。珍しく早いわね?」


 キッチンに立っていたのは、珍しいことに母だった。

 後輩が仕事を少しずつ覚え、教育係として少し落ち着いたこともあり、母の帰宅は以前より早くなった。

 しかし、結果としては雪の方が帰宅するのが早いので、大体夕飯をつくるのはどちらかの仕事になっている。

 俺はまだ息切れが落ち着かないままリビングを一望した。


「あれ、雪は?」

「ん~さっき電話が入ってね。今日は先輩とお買い物してくるんだって。なんか嬉しそうだったわよ」


 雪もブラコン卒業かしらね、なんて母さんも無神経な一言を言ってくる。

 ……そりゃあ確かに義兄妹で結婚されるよりも、可能であれば雪にはちゃんとした恋愛をして欲しいと思うのが親心なのだろう。

 けれども、10年以上ずっとブラコンだった娘がいきなり他人を好きになれるかと言ったらそれはかなり微妙だと思う。


 俺は小さなため息をつきながらポケットから携帯を取り出した。

 勿論、雪からの連絡はない。それもそうだ。俺が忙しいのを彼女は誰よりも知っている。

 雪は気配りの出来る子なので、俺が嫌だと思うことは一切しない。一度失敗したことは繰り返さない。

 言いたいことがあっても自分の中でぐっと呑み込んでしまう。そんな奥ゆかしい子だった……


 俺はドロドロした醜い嫉妬心を抱えながら自分の部屋へと向かった。その足取りは半端なく重い……

 ベッドに転がりこみ、携帯で仲間達に明日はきちんと論文やるからごめんと連絡をして眸を閉じる。


 数分後、元気に帰宅した雪がただいま~と言いながら2階の自分の部屋へパタパタ上がってくる足音が聞こえる。

 珍しく俺の部屋から明かりが漏れていることに気付いたのか、コンコンとノックしてくる。


「どうぞ」

「ひろちゃん?今日は早いね、論文終わったの?」

「いや……ちょっと疲れて今日だけサボリ」


 その発言で俺の体調が悪いと思ったのか、雪は買ってきた袋を自分の部屋にしまうでもなく、俺の寝ているベッドの前までずかずかとやってきた。

 ベッドの前に膝立ちでちょこんと座り、俺の額にそっと手を当ててくる。


「ひろちゃん、具合悪いの?」

「いや……そうじゃなくて」


 お前が三宅君とどこに行っていたのか気になって――なんて言えるわけがない。

 ぴたっと額に当ててくる雪の手はほんの少し冷たい……。

 長い時間外に出ていたのだろう。三宅君と、お買い物でもしてきたのだろうか。


「あっ。そうそう、ひろちゃんに見てもらおうと思ってこれ買ってきたんだ~」


 嬉しそうに雪はがさがさと袋の中からテニスウェアを取り出した。

 前回は一人で悩んで白を買ってパンツが見えそう、上はブラジャーが透けるという理由からサークルで着用を却下したため、また新しいのを購入してきたらしい。

 じゃ~ん!と言いながら雪が取り出したのはグレーのスカートに、上はグレーの横ボーダーラインが入ったポロシャツ生地のものだった。

 これだったら下着が透ける心配はない。無いのだが、俺の胸中は複雑だった……


「雪……一人で買いに行ったのか?」

「?……うん」


 俺は視線だけ雪の方に動かし、身体はベッドの上に投げ出していた。先ほど母さんが言った言葉が耳に残っている。



『今日は先輩とお買い物してくるんだって。なんか嬉しそうだったわよ』



 どうして雪はわざわざ俺に嘘をつく…

 何も後ろめたいことが無ければ、三宅君と買い物に一緒に行った、で片付ければ済む話だろう。

 俺には言えないことなのか、それが……?


 ドス黒い独占欲と、嫉妬の塊が口から出て、それは残酷に雪を傷つける。

 聞いてはいけない。ふ~んそっか、で終わるような話なのに、気になって仕方がない。


「……本当に1人で?」

「どうしたの、ひろちゃん……なんか、怖い」


 答えをはぐらかされた。こんなこと、今までに一度もない。

 俺は唇を噛みしめると無言のまま雪の手首を掴み、荷物と一緒に俺の部屋から追い出した。

 まだ現状を受けきれていない雪は何故自分が部屋から出されたのか分からず、俺の部屋のドアを何度も叩いている。


「ひろちゃん、ねえ開けてよ。どうしたの?ひろちゃん……」

「……雪……本当は一人で買い物に行ってないよな」

「ひろちゃん……」


 ノックの音がピタリと止まる。それは、雪がついた小さな嘘を意味していた。

 俺は扉の向こう側に雪が立っていることを確信していたので、低い声で呟く。


「……頼むから、嘘だけは吐かないでくれ……」


 ふいに涙が零れそうになった。雪と俺を繋ぎとめているものなんて何もない。

 学校に行ったら兄と妹にしか見えなくて、勿論義理だからって恋人ですと言えるが、結局誰も信用しない。

 互いに信用できるものはお互いの見えない心の糸だけ。

 それを、信用できなければやっぱりただの兄と妹で、決して恋人ではない。


「雪……三宅君と買い物に行ったって……どうして正直に言ってくれないんだ……」

「ひろちゃんに、言ったら迷惑になると思って…だって、ひろちゃんは今忙しいし…」


 そこまでしてスコートが欲しかったのなら、幾らでも一緒に買い物に行ったのに。

 どうしてショッピングの相手が俺じゃなくて他人なんだ。そこまでして俺と買い物に行きたくないのか?

 無性に腹が立った俺は、壁をバンっと力いっぱい殴っていた。その衝撃に部屋のドアが少しだけ揺れて反対側に立っていた雪はさぞ驚いただろう。

 ほんの少しの無言の後、ドアの後ろに居たはずの雪の気配が消えたのを確認し、俺は扉にそのまま背を預けた。


 ――分かってる。雪は優しい子だから、俺に買い物に付き合ってなんて滅多に言わない。

 いつでも俺の論文と研究を優先させて、何処に行きたいとか、何か食べたいとか一切言わなかった。

 俺がいつも雪を寂しがらせて、不安にさせて――それなのに、たった一度雪がついた小さな嘘だけでここまで心が乱される。

 そんなにも俺は弱い人間だったのか。兄ちゃんとしても失格じゃないかこれじゃあ。


 その日の晩飯は珍しく父親もタクシーの休憩で家に戻ってきたので、家族4人で食卓を囲んだ。

 久しぶりに弘樹が早く帰ってきて嬉しいと喜ぶ母さんと父さんと対照的に、俺と雪は一切目を合わすこともなく適当に相槌を返していた。


 ――久しぶりの一家団欒だと言うのに、俺は夕飯に何を食べたのか、その日の記憶は全くない。




 ただ、すれ違いの余韻だけが、翌日までずるずると残ることになった。

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