第七話 「芽生えた独占欲」
雀の声で目覚めると、隣で眠っていたはずの雪の姿がない。――それもそうか、今日は平日。雪は普通に2限から授業の予定になっているはずだ。
俺は小さくあくびをすると、一度伸びをしてから1階にゆっくり下りた。
「あっ。ひろちゃんおはよ~!」
規則正しい包丁の動く音が聞こえてくる。そしてふわっと香る朝食の香り。
昨日とは違うシンプルなエプロンをつけていた雪は、俺と2階でまだ寝ている友人達の為にわざわざ朝食を作ってくれていたようだ。
スクランブルエッグに焼き色のついたウィンナー。子供じゃないのに何故かタコさんの形になっている……
さらにレタスを千切っている雪の横にある鍋からはオニオンスープの香りがする。
「わざわざいいのに……雪、学校だろ」
「うんっ。大丈夫だよ、お風呂入ったし、全然間に合うもん」
俺は急に雪が愛おしくなり、背後からそっと抱きしめた。
布団は冷たくなっていた。腕枕に乗っていたはずの感触は殆ど感じられなかった。――雪は、何時から起きていたのだろう?
一本に纏めてある長い黒色の髪からは、いつも雪が使ってるシャンプーの甘い香りがする。
その肩口に顔を埋めていると、料理中の雪が不思議そうな顔で俺を見つめてきた。
「……ひろちゃん?」
「雪補充」
鼻腔から甘い香りを堪能し、俺は横を向いた雪の顎を掴むと、小さな唇をそっと塞いだ。
真っ赤になった雪は軽く動揺した様子でパタパタキッチンの周りを片付け始める。
そんな態度をされるとこちらまで恥ずかしくなる。やはり雪とこれ以上先に進むのは難しいのかも知れない……
正直、俺は恋愛という恋愛を経験してきていないから、彼女になった妹にどう接して良いのかわからない。
単純に平行線上から俺達は何一つ変わっていない。
雪、ひろちゃんという呼び方も、態度も。
一緒にお風呂に入るわけでもなく、なかなか手を繋いで歩く暇もない。
ショッピングや映画も行きたいところだが、大学では論文と研究、実習に追われており、サークルに参加する以外は国家試験に向けて少しずつ勉強もしているせいで暇がない。
雪は、俺とのこの関係を一体どう思っているのだろうか……
いつかは雪が俺を捨てて離れてしまうのではないか。――そんな不安だけが胸中を過る。
「くぁ~っ。おはよお弘樹」
二階から降りて来た森田と田嶋の声で俺達は何事も無かったかのようにぱっと離れた。
雪は学校の準備するねと笑いながら、少しだけ俺から逃げるように洗面所の方へと向かっていった。
俺は一つため息をついてから椅子に腰かけ、まだ半分寝ぼけている二人にも椅子に座るよう声をかける。
「おはよう」
「おっ!朝飯手作りじゃ~ん!すっげえ幸せ。いいなあ可愛い妹の愛情飯」
「弘樹~。昨日は雪ちゃんのお部屋で二人きりだったんだろ?やっぱさ~あんなに可愛かったら妹にも欲情しちゃう?」
鼻をひくつかせながら喜ぶ二人の獣にこのこのっと肘鉄されても返す言葉もない。
先に進みたかったけど――出来なかったんだよ……嫌われたくないから。
俺は苦笑しながらノーコメントと言い、温かいオニオンスープで乾いた喉を潤した。
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雪が先に大学に行ったのを見送った俺達は残った資料のまとめに取り掛かり、昼飯前に一度大学に戻ることにした。
運転手は免許歴の長い田嶋に任せて俺と森田は後部座席に座った。
「しっかし、弘樹ん家って友達泊まりに来るとあんなにおもてなししてくれんの?幸せだったわ」
「あぁ、母さんに言ったら張り切っちゃって。家はあまり友達呼ぶことなかったし」
「俺なんて昨日の雪音ちゃんのメイド姿が夢にまで出てきちゃって大変だったんだぜ」
「そーそー、弘樹聞いてくれよ。コイツさぁ、寝言で雪ちゃ~んとか。俺に朝間違って抱き着いてきたらカオスだわ。キモイったらない!」
「ははっ……」
隣で田嶋の声真似をする森田にがばっと抱き着かれたが、返す言葉もない。
一体雪はどうしてあんな格好をしたんだろう。こうなることも容易に想像できたはずなのに……
悶々としている間に田嶋の運転する車は大学へと到着した……。
「おはよー3馬鹿トリオ」
「3馬鹿とは何だ3馬鹿とはっ!」
「あ、そっかぁ。弘樹は馬鹿じゃないもんね。2馬鹿だ」
「くっそお昨日俺だって資料纏め頑張ったんだぞ!激励は無いのか寺内っ!!」
現在同じ抗がん剤の研究仲間である、寺内 典子と嶋 由紀奈から痛い歓迎を受けた。
彼女達は既に症例検討の方まで手を進めており、前回の大学病院実習で得た症例データも加味してまとめに入っている。
一方俺達に与えられた方は海外のデータと日本のデータの比較と、副作用症状の出現について。症例数も多く、人によって作用は様々なのでそれをまとめるのは骨が折れる。
昨日の1日で3分の1丁度終わったくらいだ。折り返しまでまだ遠い。
個別で別れてまとめると内容の差異が出てしまうので、今日は久しぶりに5人で作業に入る。
図書室の一角を借りて俺達は長丁場になる作業に備えた。
「1時間だけよ、図書室籠るのは。後で絶対集中力切れるもん。早くスタバ行きたい」
「まずは資料集めないとな。弘樹頼んでいい?」
「うん。アーサー博士の研究資料と先進国の現状の辺り探してみる」
俺は席を立つと残りの纏め作業を4人に任せて医学書の辺りをぶつぶつ言いながら探した。
ふと本の隙間から見知った人の頭が見える。この時間に雪が図書室にいるなんて珍しい。1年生も何か資料探しなのだろうか?
そう思い雪が高いところにある本を読んでいる姿を見て、声をかけようかどうか悩んでいると、雪の背後から、テニス愛好会の三宅が親しそうに声をかけていた。
知った顔を見つけて微笑んでいる雪の笑顔を見て俺は胸が締め付けられるような感覚に陥った。
三宅君は、雪のことが好きなんだろうか……
だからって、それにどう返事するかは雪次第。
「どうしたの?弘樹」
何も持たずに席に戻って来た俺を訝し気な顔で問いかけてくる寺内さんの視線が痛い。
まさか、雪と三宅君の様子が気になって何も探せなかったなんて言えない。勘ぐられるかと思ったが、とりあえず適当に言葉を濁す。
「あ、あぁ……丁度借りられててなかったみたい」
「うっそ~ショック。絶対3班じゃん。ちょっとぉ、田嶋さ~、坂田にはよ返せやって脅迫してきて」
「無理だって!あっちもアーサー博士の本使ってるじゃん」
「じゃあ30ページコピってきてよ。あんたら友達でしょう!?」
寺内さんと田嶋、森田がぎゃーぎゃー言い争いを始めるとカウンターの司書が強い咳払いをしてじろっと睨み付けて来たので俺達は互いの口に指を当てて大人しくした。
その瞬間、近くで本を探していた人達が一斉にこちらを見ていたような気がした。
俺はふと先ほど本を探していた雪を視線で追うと、雪は少しだけ羨望の眼差しをこちらに向けていた。
やはり、この学年も違う微妙に敷かれた境界線には軽々しく踏み込めないことを分かっている。
雪の背後に立っていた三宅君も俺の存在に気付き、ははぁと何か企んでいるように目を細めている。
ちらりと雪に何か耳打ちをして、雪の肩を抱きながら二人は図書室から消えていった。
馴れ馴れしい……あいつ……っ
俺はいきなりガタンと席を立つと、他の4人が驚いた顔で俺を一斉に見つめてくる。
「弘樹君、どうしたの?まだ資料探さないと……」
「あ、あぁ……ごめん。ちょっとトイレ」
苦笑しながら席を離れ、静かに図書室を出ると、既に雪と三宅君の姿はなかった。
二人共多分今日はテニス愛好会の方に出るだろう……俺は今論文のまとめ作業なので時間が無い。
携帯電話をポケットから取り出し、雪に連絡をしようとして止める。
サークルに行くななんて言えない。そんな醜い束縛をして一体何になる。俺は項垂れたまま図書室の入口から動けなくなっていた。
――少しでも他の男と仲良くしている雪の姿を見ると胸が痛い。
俺は、独占欲の塊なんだろうか……?




