第二十三話「初めて恋人らしいことをした日」
聞き覚えのない携帯のアラーム音の音がする。
……もう、朝か?と思い、ぼんやりした頭を布団の中から覗かせて軽く左右に振る。
手探りで携帯を探してそれをオフにした瞬間、その携帯が自分のものではないことに気付き、俺は慌てて上体を起こした。
時刻は朝の5時40分――……こんな時間に目覚ましをかけたことなんて一度もない。
身じろぐ隣の存在を確認して俺は昨日のことを少しずつ思い出して顔が熱くなった。
誰かに襲われかけた雪が多分つけられたと思われるキスマークに嫉妬して、その後何度も貪るように唇を奪い、結局そのまま雪の部屋になだれ込んだ気がする。
お互いに何も身に着けていない状態だったことが何を意味するか…俺は勢いに任せて雪にしてしまったことを後悔した。
もっと彼女を不安にさせない方法なんて幾らでもあったはずなのに。どうもうまくいかない……
女性とのお付き合いについてもっと学んでおくべきだった。
実際に俺が付き合いをした人はフリで彼女になってくれた桑原しかいない。
のろのろと身体を起こしてせめて…と脱ぎ捨てていた下着だけ履いてまた雪の布団の中に潜り込む。
眠っているお姫様は安心しきった顔をしていた。
俺に隠していたことを間接的であっても伝えることが出来てほっとしたのだろう。
だからと言って俺が雪にこんな行為をした相手を赦すわけがない。
……絶対に犯人を見つけて、法で裁いてやる。
こういう時に法学部の知り合いがいると色々と情報ももらえて楽だ。
「ん……あれ、ひろちゃん?」
「あ、あぁ起こしてしまったな。おはよう雪」
ごしごしと目をこすっている雪も勿論生まれたままの姿となっていた。
布団からあまり身体を起こされると、視界に揺れる白いふっくらした丸みが見えて目のやり場に困る。
昨日は夜だったし、暗かったからそこまで意識が向かなかったが、やはりこうしてカーテンの隙間から差し込む光で見える肢体は艶かしい。
まして、本人にそういう自覚が無いのだから、本当に性質が悪い。
「おはよぉ……ひろちゃん……えへっ」
「何だよ」
「んーん。ひろちゃんが、ちゃんとユキのこと女性だって思ってくれて嬉しかった」
「当たり前だろう、そんなこと――……俺は雪のことは恋人で誰よりも大切な人だと思ってるぞ」
雪はにっこりと微笑みながら俺に自分の胸を押し付けてきた。互いの心臓の鼓動が聞こえる。
あまり抱き着かれると本当に理性が効かなくなるから困る。俺は眸を閉じて雪が起きてくれるのをただじっと待った。
「ひろちゃん……もう一回して?」
「雪……」
「だって、嬉しかったんだもん」
へへっと微笑む雪は幸せそうな笑顔を浮かべていた。つられて俺もどきっとしてしまう。
眸を細めながら愛おしい雪の頭をそっと撫でる。
「――講義、いつから?」
「……3限目」
おずおずと呟かれたその言葉に安堵した俺は、雪の額にちゅっとキスを落として熱で潤んだ双眸を見つめた。
初めて恋人らしいことをしたことがそんなに嬉しかったのだろうか。それとも、抱えていた不安が払拭されたことが嬉しかったのか。
どちらにせよ、雪がこうして笑ってくれることが何よりも嬉しい。
「――じゃあ、もう一回だけな」
どちらからともなく唇を重ね、もう一度熱の残る布団の中に潜り込んだ。
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「弘樹、おっそい!!」
俺は雪と朝からじゃれあっていた所為で珍しく10分も待ち合わせに遅刻をしてしまった。
バスの乗り継ぎに失敗したのも準備に手間取っていた所為だ。
雪が3限からの授業と言っていたので、彼女に合わせて準備をして同時に大学に出たものだから間に合わなかったのだ。
俺にばいばいと手を振る微笑ましい雪の姿を見て森田と田嶋が何か違う、と顔を見合わせている。
「ごめん、本当に。昨日のことと言い、この大事な時期に迷惑かけた」
「いいのよ。弘樹が一番の功労者だって知ってるし。それじゃ、最終リハしましょ?講堂あと30分後に借りれるから」
「ありがとう寺内さん」
行動力のある彼女に頭を下げて俺は原稿を取り出して真剣にそれを最終確認していた。
来るであろう質問やデータ、細かい情報も全て頭に叩き込んでいる。後は明日の本番を待つだけだった。
「……なぁなぁ弘樹」
「ん?」
「お前、ついに雪ちゃんとやっちゃったの?」
「ばっ!!」
過剰反応してしまった俺の口元を森田が慌てて塞ぐ。一瞬だけ寺内さんと嶋さんがこちらを睨み付けていたような気がするが、ははっと引きつった笑顔を返して誤魔化す。
視線が逸れた瞬間、俺は小声で森田としゃがんで事の経緯を説明することにした。
「……何で知ってるんだよ、森田が!」
「いやぁ~……今日大学に来た雪ちゃんがいつも以上に綺麗になっててさあ……あれって恋の力だろう?」
女の子は恋をしたり、そういう行為をすると綺麗になると言うが本当なんだろうか。
俺にはそういうのはさっぱり分からない。
「まぁでも、雪ちゃんが元に戻って安心したよ。俺も自分があんな立場だったらぞっとする」
「……そうだな。俺ももう、あんな雪を見るのは御免だよ」
最後の原稿確認をした俺達は最終リハーサルの為に壇上に上がり、最後の時間調整とスライドの確認を行い、今日は解散となった。
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俺は雪が3限目の講義と言っていたので、それが終わるまでの間ラウンジでぼんやりして過ごしていた。
「……雨宮先輩」
俺にゆっくりと近づいてきたのは表情を硬くした三宅君だった。
また彼か…
揉め事なら面倒くさいと思いガタンと席を立つ。
俺が何も言わずに去ると思っていなかったのか、彼は少しだけ青ざめた顔をしながら食いついて来た。
珍しく声のトーンもしおらしい……何かあったのか。
「あの……!お父さんから、何か訊いてませんか?」
「何のことだよ……」
端的な彼の言葉の真意が全く分からない。
俺は少しだけ眉間に皺を寄せて彼を見返した。いつも強気な彼が若干やつれたようにさえ見える。
そして何かを紡ぐのを恐れているのか、でかい図体が僅かに震えている。
「……どうしたんだい、三宅君」
「俺は……俺は…せ、先輩……謝って済むことじゃないってわかってるんです……それでも」
震える唇はなかなか本題を口にできないでいた。
怯える双眸は俺の顔を見る事も出来ずただ俯いている。
「雪のことか?」
その名前を出した瞬間、彼の肩がびくりと反応を見せた。
小刻みに震えていた身体は制裁を受けることを覚悟してただじっと動かないでいる。
俺は眸を伏せて腕を組んだまま彼を見下ろしていた。周囲ですれ違う学生達が不思議そうにこちらを見ては去っていく。
――ここは人が多すぎる。俺は小さくため息をつくと三宅君の手首を掴んで屋上へと足を向けた。




