第二十二話「恐怖の記憶と消せない痕跡」
久しぶりの一家団欒で、お洒落なレストランで食事をする。
元の19歳に戻った雪は時折俺の顔を見つめてふわりと優しい笑みを浮かべていた。
そのふと見せる大人になった雪の表情に思わずどきりとしてしまう。
「ひろちゃん、零してる」
俺は雪に見惚れてしまっていたらしい。着慣れない黒のスーツにぽとりと鹿肉の切れ端が落ちた。
すっと差し出されたナプキンを取り、両親に笑われながらも食事が進む。
……恥ずかしい。
2時間コースの食事を終えたところで俺達はタクシーで家に帰った。
父さんが運転する車に久しぶりに4人で乗り込み、俺と雪は後部座席で肩を寄せあい座る。
森田達に心配をかけてしまったので、俺は携帯を開いて雪がもとに戻ったことを報告した。
「――うん、ありがとうな。みんなのお陰で……?」
森田と電話をしていると、雪の手が俺の左大腿部の上に乗っていた。
寂しそうに手をきゅっと握りしめていたので、俺は携帯電話を右耳に当て直し、空いた左手で雪の手をそっと握る。
小さな手を何度も愛おしく撫でながら明後日の論文発表会に向けての最終打ち合わせについて相談する。
雪は家に着くまでの間、ずっと俺の左手を握りしめながら俺の肩にこつんと頭を乗せていた。
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明後日の論文発表会最終リハーサルは明日の午後に行うことにした。
全員の予定をすり合わせたところで俺は電話を切る。
時計はもう23時を差し掛かっていた。最近論文に追われていて生活サイクルが完全に夜行型になっていた。
俺は携帯電話を充電器に差し込むといい加減風呂に入ろうと思い、ベッドから腰を上げた。
脱衣所で服を脱ぎながら発表について考えているといきなりドアが開けられた。
「ひろちゃん!一緒にお風呂入ろう?」
「ゆ、雪!?何でこんな時間に……」
いや、時間云々よりも俺と風呂に入るだと!?
一体どうした……退行現象は治ったはず。まさか昔に戻ってしまったのか!?
この家に引っ越してきた当初も雪は俺と一緒に狭いというのに風呂に入りたがっていた。
まさかその時のことを思い出してしまったのかと思うと、どう言葉を返して良いのか分からない。
「ひろちゃんがお風呂に浸かってる間に、ユキが身体洗っちゃうから。ね?いいでしょ」
いや、まったく良くない。寧ろ俺が困る。
それだったら別に雪がお風呂あがってから俺が入れば良い話だ。
俺は小さくため息をつくと下着姿だったので床に脱いだシャツを再び手に取り脱衣所を後にしようとした。
「ダメ、ひろちゃん」
珍しく雪がドアの前に立って通せんぼをしている。
その眸は真剣そのものだった。確かに雪は冗談でこんな悪戯をするような子ではないが――……
いい歳した大人二人が一緒の風呂になんて入ったら…その先は分かるような気がするのでは。
「雪が風呂あがったら俺入るから。だから一旦……」
「……ひろちゃん……側にいてよ……」
ドアに背中をつけて項垂れていた雪の表情は暗く沈んでいた。
――小さい頃の記憶が一気に逆流して、この先も…と思うと何かを失うような気がして怖いのだろう。
俺はそんな雪の不安も分かってやれなかったのか。
退行現象から一気に戻った雪は、両親達には表面上は笑顔を見せていたが、また子供に戻ってしまうかも知れないという恐怖に怯えていた。
小さく震えている肩をそっと掴み、雪の身体を自分の胸に引き寄せる。
「……悪かった雪。お風呂、一緒に入ろうか」
「ひろちゃん……」
肩口にある顔が俺の眸を見つめてくる。その顔は嬉しそうに微笑んだ。
「俺もこの格好で寒い。先に入るな」
苦笑しながら俺は下着を脱いで先に浴室のドアを開けた。
乳白色の入浴剤の入った風呂はいい具合に俺の理性を保たせてくれるような気がした。
流石に成長した雪と一緒に長時間こんな密室にいたら…どうなるか分からない。
「ひろちゃん、入るね」
タオルを前に当てた雪はいつも結っている髪を下ろしていた。長い黒髪が腰まで覆っている。
その綺麗な後ろ姿につい視線が行ってしまったが、俺は雑念を振り払うように眸を閉じたまま浴槽に浸かっていた。
雪はちらりとこちらを見たような気がしたが、特に何かを言うでもなくざぁっとシャワーを浴びていた。
甘いシャンプーの香りが鼻腔を擽る。追い炊きにしていた浴槽が熱いせいか、俺の頬は幾分紅潮していた。
息苦しくて先に出たいと思ってしまうが、雪の不安を拭うには耐えるしかない。
「ひろちゃん……」
「ん?」
ゆっくりと眸を開くと、目の前に雪の顔があり、あまりにも驚いて浴槽の中でずるっと滑ってしまった。
「ど、どうした雪……お風呂変わるか?」
「ううん。あのね…違うの」
雪は気恥ずかしそうに頬を染めながら俺の手を取って自分の胸に引き寄せてきた。
そっと触れた胸の感触よりも、心臓の鼓動が異常に早い方が気になってしまった……長く浴室なんかに入っているせいか?しかも二人で。
「あのね……ユキも、ひろちゃんと恋人らしいことしたいの」
「雪……」
「――麻衣ちゃんがね、ひろちゃんと一緒にお風呂入ってみたらって言うから」
雪は、仲良しの友人から色々なことを学んでいるらしい。
同じく兄を恋人に持つ麻衣の言うことは全く疑うことを知らない。
それに、麻衣ちゃんは以前俺が雪を悲しませたことを知っているから、その報復なのだろうか……
こんなに迫られて理性で抑えられるかって……。
俺ははぁとため息を吐き、雪の顔を引き寄せて唇を塞いだ。
浴槽のお湯が少しだけ跳ねる。膝立ちしていた雪の身体がぴくりと強張っていた。
……だから言ったのに。
ふっと心の裡でそう呟いてしまった。
男の人が怖い雪の恐怖心を拭い去るのはなかなか簡単なことではない。
雪は無邪気に俺との関係を進めたいと望んでくるが、肝心の”彼女の心”が、先を進むことをまだ受け入れられていないのだ。
キス一つだけでも、こんな見て分かる程簡単に固まってしまう。
先日ちょっとだけ進んだ関係も、結局はほんの少し触っただけだ。
別に俺は雪の身体が目当てで『恋人』になったわけじゃない。
ゆっくりでいいから……ただ、側に居て雪と一緒に歩けたらそれだけでいい。
俺は目の前で固まっている雪の頬を優しく撫で、もう一度頬に音を立ててキスをした。
はっと我に返った雪は慌てて浴槽に浸かっている俺に抱き着いてきた。柔らかい感触が胸に当たる。
「ゆ、き?」
「ひろちゃん……ユキ、ひろちゃんとだったらもう怖くないよ……」
俺は……雪がどうして俺とお風呂に入りたかったのか、その本当の意味にこの時まで気が付かなかったんだ。
そして、彼女の火照った身体から覗く赤い痣に。胸元に散在するキスマーク……
俺がつけたものではない、誰かがつけたであろうマーキングの痕に。
「ごめん……雪……怖かっただろう――……」
「……ん、ひろちゃんが、居てくれるから…大丈夫」
もう一度雪をきつく抱きしめる。俺は悔しすぎて雪の顔を凝視することが出来なかった。
それと同時にもう一人の自分が、こんなにも雪を辱めた人間を殺してしまいたいと残酷なことを囁く。
雪に尋ねることは出来ない。彼女にこんな記憶を呼び覚ましてまたフラッシュバックを起こさせるわけにはいかないのだから。
俺に出来る事は、この雪が受けた恐怖の行為を上書きすることだけ。
「――愛してる、雪……」
眸を細めて雪の後頭部を支えて深く唇を吸い上げる。薄く開いた唇から舌をそっと絡ませて甘い口づけに酔いしれた。
冷たくなった雪の身体を、ざぁっと温いシャワーが降り注ぐ。
俺は雪の恐怖の記憶をかき消す為に、時間も忘れて何度も何度も…互いの存在を確かめるように深い口づけを交わしていた。




