第二十一話「動き出した時間」
一階に降りた雪を待っていたのはリビングで微笑む母だった。
ここからが第二段階のスタートとなる。雪は久しぶりに起きられたよと笑顔でキッチンにあるテーブルを見つめ、そこにある椅子に腰かけた。
ふと違和感を感じるが、母がにこにこと微笑んでいるので雪も警戒を解く。
「あのねっママ、マコちゃんはあかねちゃんが好きみたいなの。ママにも、好きな人できるかなあ?」
「ふふっ。雪音に報告があるのよ?」
エプロンをつけた母は雪の頭を優しく撫で、好きな人がいるの、と告げる。
雪はきょとんとした顔をしながら母を見上げていた。
「……ママね、好きな人が出来たの。雪音も会ってくれる?」
「その人は、ママを泣かせない?」
「泣かせない」
「その人は、ママを虐めない?」
「虐めないよ」
「その人は、ママの側に居てくれる?」
「側に居てくれるよ」
暴力を振るっていた黒い男の影が、少しずつ薄くなっていく。
パパは、酷い男だった。ママを毎日毎日酒の瓶で殴って、蹴って。
男なんて嫌いだ。ママを虐めるやつなんて必要ない。もう二度とママを悲しませる奴なんていらない。
でも――ママはどことなく寂しそう……
いつもユキの為に必死に働いて。
ユキは、保育園でずっと居残りしてても、寂しくなんかないんだよ。
ママがずっと側にいてくれるから。ユキの側に居てくれるから。
……ママは、好きな人ができた。
マコちゃんが、あかねちゃんを好きなのと一緒。
あかねちゃんが、マコちゃんを好きなのと一緒。
いつかはそうして、誰かに好きな人が出来て、ユキから少しずつ離れていく。
ユキの側に、ずっと居てくれる人なのかなあ。
ユキが、一緒にずっといても怒らない人なのかなあ。
「……ユキ、その人に会う」
「そう――ありがとう、雪音」
ぎゅっと抱き着いて来た母の腕は僅かに震えていた。
ユキが拒絶すると思っていたのだろう。
違うよママ。
ユキは、ママが大事なの。
ママを守ってくれる王子様が現れたのなら、ユキはもう寂しくないから。
雪は眸を閉じて母の腕に包まれていた。どうやら、第二段階は終了したらしい。
その姿を階段の上から確認していた寺内達はLINEで別行動をしている弘樹と父に連絡を取っていた。
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洒落たレストラン――此処は初めて雪と、母さんと対面した思い出の場所だ。
あの時からもう13年も経ってしまったので、外観も違うし、店員も変わっている。
1席だけ予約出来た窓際の席を確保し、俺と父さんは着慣れないスーツに再び身を包んで緊張していた。
「あの時もこうやって緊張してたっけ?」
「……懐かしいな。弘樹も小さくて。妹が出来るんだぞって言ったら本当に喜んでいたな」
「まさか奥手の父さんがあんなにも綺麗な人を口説いてるなんて俺も知らなかったよ」
「ははっ……お前が生まれて間もない頃に美咲は癌で死んでしまってな……あいつの遺言なんだよ。『弘樹にちゃんとお母さんをあげて』って」
「父さん……」
俺は死んでしまった母さんのことを知らない。――それも彼女の遺言らしく、俺にそういう母の代物は残してくれなかったそうだ。
父さんもあちらのご両親からもう忘れて貴方は貴方の人生を歩んだ方が幸せだと送り出されてしまい、結局息子と二人で新たな生活を始めることとなった。
思い出は心の中にしかない。
父さんは少しだけ寂しそうな顔をしながら物思いに耽っていた。
「――俺は、もう誰かを愛するつもりは無かった。でも神様が与えてくれた偶然の再会で彼女に出会えたんだ。雪那さんに」
雪那は前の母さんと友人関係だったようで、その時からタクシーの運転手をしていた親父が時折大学に来る姿を見つめていたらしい。
お互い気になっていた存在ではあったが、互いに付き合っている人は違っていた。
しかし雪那は子を身籠った後から夫に連日暴力を受け、何度も意識を失う程の重症を負っている。
その度に地元の北海道に泣き戻りをするものの、数日後には上手く家族を言いくるめる夫に連れ戻され、再び地獄のような日々を過ごす――
「雪音は、実際二人目の子なんだ。一人目は、お腹に散々暴力を受けて、産まれる前に殺されてしまったんだ」
雪那がDVを受けているということは美咲から聞いていたらしい。何とか彼女を幸せにしてあげたいと。
美咲は自分の命をかけて産んだ弘樹を育てながらもいつも友人のことを心配していた。
「……俺も、弘樹を育てることだけで必死だったから、彼女を助けたいと思っても実際無理だと分かっていた。そんな俺の決意を試すようなことがあったのが、雪の存在だ」
美咲が死んでから独りという寂しさを埋める為に時折公園で楽しそうに遊ぶ家族連れを見ることが増えた。
隣で父の手を握る弘樹が羨望の眼差しで子供と戯れている親を見ている。
やはり、男手だけでは難しいのか…そう思った矢先だ。
保育園に隣接した公園で一人遊びをしていた雪が、弘樹の前にぽてぽてと歩いて来て、にこりと微笑んだのは。
「いいこー、いいこー?」
「ッ……」
「いいこー?」
弘樹の何も言わない寂しさを悟ったのか、当時まだ1歳だった雪は小首を傾げ、背伸びをしても届かない弘樹の頭を撫でようとしていた。
何処の子だろう…と思い彼女の頭を撫でていると保育園の方からスーツ姿の女性が走り寄って来たのだ。
――それが、雪那との再会だった。
「……雪が1歳って、俺4歳じゃん。何も覚えてないんだけど……」
「そりゃあそうだ。お前はあの時雪に頭を撫でられて鼻水垂らして号泣したからな。恥ずかしい記憶というものは少しずつ消されていくものだよ」
「そっか……」
父さんから初めて聞かされた雪との最初の出会い。
あの子は、最初から俺を優しく包み込んでくれていた。それなのに、俺は雪に対して不器用な愛情しか返せなくて――
もう離さない。
雪は、絶対に俺が守る……
カツカツとヒールの音を奏でてやってきたのはビシッと決めたレディスーツに身を包んだ母さんと、白いフリルのワンピースを着て、あの当時と同じく髪をツインテールにした雪だった。
初めて会った時と同じく、雪は緊張した面持ちでこちらを見ようともしない。
スカートの裾を不安そうに掴みながら母さんの後ろにこそこそ隠れようとしている。
「……弘樹、お前の母さんになる人と、妹だよ」
「雪音、貴方のパパになる人と、お兄ちゃんよ?」
母さんに背中を押された雪が、少しだけ顔を上げる。俺の眸をあの時と同じ純粋で、真っすぐな眸で射抜いてくる。
「おにぃちゃん」
「違うよ」
俺はくすりと微笑みながらゆっくりと雪に近づいた。
男の人が苦手な雪はびくりと身体を震わせながら一歩後退する。
「俺は、おにぃちゃんじゃなくて、弘樹。雨宮弘樹」
「……ひろ、ちゃん……?」
雪の唇が震えた。
少しずつ、生気を失っていた眸に感情が戻ってくる。
俺は小さく頷いてもう一度繰り返した。
「そう。ひろちゃんだよ」
「ひろちゃん……ひろちゃん……っ!!」
俺は雪にそっと右手を差し出した。
雪の眸からぽたぽた大粒の涙が浮かんでくる。
「ひろちゃんっ!!」
よろける足で、胸に飛び込んできた雪の背中を抱きしめる。
――もう、雪を絶対に一人にはしない。離さない……
俺は此処がレストランであることも忘れて、声を殺して泣いている雪の唇をそっと塞いだ。




