第二十話「好きな人と一緒って、いいよね」
「ママ、今日は保育園行かなくてもいいの?」
「そうよ、今日は”おやすみ”なの」
母は会社に事情を説明して休暇を1週間もらっていた。今の雪に頼れるのは母しかいない。
大きくなってしまった娘の頭を撫でながら何度も同じ説明を繰り返す。
今の状況を受け入れられない雪を否定するのではなく、やんわりと少しずつ変えていくしかないのだ。
しかし、雪はずっと布団の中にいることを好ましく思っていないようで、何度も上体を起こしては襲い掛かる頭痛に悩まされて再び布団をかぶっていた。
自由に動かない身体が嫌だ。鏡に映る姿がまるで他人のような気さえする。
ユキは、さくらだ ゆき。
としは、ことしで四歳。
そうだ、確か今月はあかねちゃんの誕生日だった。
ふと友人の名前を思い出し、雪は顔だけ母の方に向けた。
「ユキ、あかねちゃんとまなみちゃんに会ってないよ。寂しい」
「……二人共、お休みしてるから会えないわよ。雪ももうちょっと休みなさい?」
「ママ、お仕事行っちゃうの?ユキ、一人になっちゃうの……?」
きゅっと握りしめてくる手はまだ微かに震えていた。母はお手洗いよ、と言い雪の額にそっと口づける。
もう一度柔らかい髪を撫で、スリッパの音を響かせながら静かに部屋のドアを閉めた。
母が階段から降りてきたところで家族会議が始まる。
雪のルーツを辿るには、保育園の頃に仲良くしていたメンバーの名前が必要となる。
そして、母が新しいパパを作ると雪に言った切欠。
更にレストランでの出会いの再現――
その、一連の動作をたった1日で、しかも今の雪に耐えられるのだろうか?
ひとの精神なんていうものは計り知れない。逆にその強烈な刺激を与えることで変になったら取返しがつかなくなる。
何の根拠があるのか分からないが、嶋さんの眸は信じて欲しいと力強く言っていた。
今は一日でも早く雪を元の笑顔に戻したい。皆が願うのは、ただそれだけだった……
「雪ちゃんのお友達ってのが、その茜ちゃんって子と、真奈美ちゃんって子なんですね?」
「えぇ……男の子はやんちゃな誠君っていう子と大輔君って子がいたわ。まこちゃん、だいちゃんって呼んでたはず」
母も押し入れの奥から雪が保育園に通っていた時の古い写真を引っ張り出してくる。
その時の雪の表情は今とは別人のようで全く笑っていなかった。
口元に必死に笑顔を作ろうとしている様子だけが痛々しく写されている。
「……妹さんに、笑顔を与えたのは…弘樹君の存在なんですね」
弘樹のスマホに映されていた雪の写真は、どれも満面の笑みだった。
あの笑顔を引き出したのが弘樹の存在。今の雪は、それすらも失おうとしている。
「――じゃあ、早いうちに始めましょう。まずは保育園のシーンから…えっと、私と典子でお友達役をして雪ちゃんを見舞いに来たってことにして……」
打ち合わせが始まった。
まずは、寝ている雪の所に、保育園の友人を装った4人が見舞いだと言い話しかける。
その会話の中で、近々お母さんに新しい男の人が出来たという話を盛り上げ、4人が帰ったところで母と雪がそういう話をする。
そしてメイクアップした雪と弘樹、お父さんとの対面。
後は賭けだった……弘樹が差し出した腕で、雪の記憶が戻るかどうかは。
――コンコン。
「はぁい?」
「雪ちゃん、久しぶりっ!」
「……だぁれ?」
きょとんとしている雪の表情は固かった。警戒心が強いのか、布団をぎゅっと握りしめながらこちらを睨み付けているようにさえ見える。
これはなかなか…と思いながらも打ち合わせ通り、寺内と嶋は保育園の子供を演じていた。
「やだー忘れたの?茜よ、茜っ!」
「こんにちわ。真奈美です」
「……あかねちゃん?まなみちゃん?」
その名前を繰り返し、雪の顔に少しだけはにかんだような笑顔が戻る。
「保育園ね、ママがお休みだって言うから行けなかったの。嬉しい!」
「今日はあと2人雪ちゃんのお見舞いに来てるのよ?」
「よぉー、誠…だぜ?」
「大輔…です」
二人ともどういうキャラか分からなかったせいか、三流役者よりも酷いぎくしゃくした様子で雪に話しかけていた。
つかつかとドアの前まで歩み寄った寺内さんが森田の鳩尾に強烈な一撃を放ち、真面目にやれ、と目で訴える。
「わ、わ~った…わ~った……」
「あんたらねぇ……これでもし雪ちゃんが元気にならんかったら打ち上げやんないわよ?」
「そ、それは困る!マジで勘弁してくださいよぉ~!!茜さま~!!」
両手を拝むようなポーズで跪いた森田と寺内の掛け合いを見て、雪がクスクス笑っていた。
どうやら、それはそれで効果があったらしい。確かに変な挨拶をして固まるよりも自然な掛け合いが良いのかも知れない。
「マコちゃんと、あかねちゃん、仲良しだぁね」
「はぁ?嫌よこんな奴。私はもっとお金持ちで、格好良くて、性格良くって、私のことを愛してくれる人がいいのっ」
思わず本心を語ってしまった寺内ははっと我に返って顔を赤らめていた。
しかし当の雪はその言葉を真剣に聞きながら目線を森田の方に移す。
「マコちゃんは、あかねちゃんのこと好きだよね?」
「俺は御免だよ、大体この女は胸はちいせえし、いつも人のことぶん殴ってくるし……マジで凶暴ったらありゃしねえ」
はぁとため息をついた森田に、寺内は腕を組んだままずいっと顔を近づけて物凄い剣幕で捲し立てている。
「ほっほー?私の胸が小さいなんて何処の誰が言ったのよ!触ってもいないくせによくそんなこと言えるわねぇ!?」
「ちいせえのは服装見りゃ分かるっつーの!」
「あんたねぇ、ってことは何?いつも私の胸でも見て話ししてたって言いたいわけえ!?」
今すぐにでも噛みつきあいの喧嘩でもしそうな二人を黙って見つめていた雪が、ふふっと微笑みながらゆっくり上体を起こす。
「雪ちゃん?」
まだ寝ていた方が…と止める嶋の腕をやんわりと静止して、微笑みながら二人の間にゆっくりと近づく。
「雪ちゃん?」
「なんだぁ?」
見事にユニゾンしている二人の横に立ち、雪は無言で寺内の背中をトン、と押した。
「ちょ……!?」
バランスを崩した寺内の身体が森田の胸の中にすっぽり納まる。
その様子を見て雪はにっこりと幸せそうに微笑んだ。
「マコちゃんは、あかねちゃんのこと好きなんだよぉ。あかねちゃんも、マコちゃんが好きなんだよ。好きな人と一緒って、いいよね」
雪のふわっとした言葉に、寺内と森田はお互い顔を赤らめていた。
記憶が退行している雪に自分達の静かな関係性を悟られたことと、お互い隠していた気持ちがこうもあっさりと露見してしまったことに。
「……雪ちゃん……」
「ママにも、好きな人が出来るといいなあ」
「出来るよ、ママとお話ししてごらん?下にいるから」
嶋はそう言い雪の肩をぽんと叩く。それに力強く頷いた雪は一階にパタパタと降りて行った。
どうやら――意外なアドリブのお陰で、第一関門は突破したらしい。
残された4人は数秒の沈黙の後、嶋がにやにやしながら寺内の肩を小突き、田嶋はヒューと口笛を吹いて寺内と森田のカップル誕生を心から喜んでいた。




