第十九話「4歳になった雪」
収穫無しで帰宅した瞬間の俺を待ち構えていたのは表情を無くした父がリビングのテーブルに手をついてぼんやりしている姿だった。
「あれ、父さん……どうしたの?」
「弘樹……実はな」
言いにくそうに視線を逸らす父の様子を見て只ならぬ様子を察した俺は、それ以上の言葉を聞くのが怖くなり、急いで二階へと上がった。
雪の部屋の電気がついている。俺はノックも忘れてドアを開けた。
「雪っ!!」
「弘樹……!?お、おかえり……」
珍しく母さんが雪のベッドサイドで雪と手を繋いで座っていた。雪は何か安心したような顔をして眠っている。
いつもベッドサイドに置いてある熊のぬいぐるみが何処にも無い。一体あんなに大きなものを何処にやったのだろう?
母さんも先ほどの父さんと同じく何かを隠したいような顔で俺の目を見れないでいる。一体何が?
「……母さん、雪がどうかした?」
「弘樹……あのね……」
口籠る母が言葉を続けようとした瞬間、眠っていた雪がゆっくりと眸を開いた。
俺の顔を見つけていつものような天使の微笑みを向けてくれる。
「あ……おにぃちゃん、お帰り?」
「ゆ…き……」
言葉が出ない。今――何て?
隣で声を殺して泣いている母さんを見てそれとなく何が雪に起きているのか現状が分かった。
俺はにこにこしている雪の頬に触れようと手を伸ばした。すると雪の顔は一気に曇り、頭を支えていたはずの枕で俺の顔を叩いてきた。
「嫌い……嫌い、嫌い嫌い!!ママを、泣かせないで!ママを虐めないでっ!」
「雪、違うのよ…弘樹は、弘樹は貴方の……」
涙を拭い、雪の細い手首を掴んで必死に説得する母の声は、雪には届いていないようだった。
一体俺がいない間に何があったのだろう。あまりの雪の豹変ぶりに俺は現実を受け止めきれない。
母さんがちらりとこちらに視線を向けて首を振ったので、俺はそれ以上雪に声をかけることなく部屋を出た。
一階に戻ると父さんも絶望的な顔をして珍しく酒を飲んでいる。
――確かに、何かに縋らないとやってられない気分だ。
「……弘樹。雪はな、4歳に戻ってるんだ」
「知ってる。俺を見て怯えてた。熊のぬいぐるみのことも忘れてる」
俺は父さんからコップをもらい、珍しく日本酒を一緒に呑んだ。
辛い刺激が喉を通過しても、この消化しきれない苦い想いだけは、永遠と喉の中で燻っている。
何度目か分からないため息を吐き、俺は真っ白な天井を見上げた。
スマホを開いて退行現象について調べる。精神論についてはハッキリした医学的根拠が無い。
症例は様々で、何がきっかけで、何が効果的なのかはその人によって治療も異なるという。
かと言って今の雪を精神科に連れていくのは気が引ける。
例え4歳に戻っていても、数日大学を休み、何か彼女が浮上する切欠があれば、また戻る可能性だってあるのだから。
「……済まない弘樹。俺があの時、出かける雪を止めていたら……」
「そんな、ごめん父さん……夜勤から帰ってきたばっかなのに、分かる訳ないよ」
自責の念に駆られる父の背をそっと撫で、俺も自分が泣きたい気持ちを堪えることが出来なかった。
――結局その日は母が一日中雪に付き添う形となり、俺は翌日、一睡も出来ないまま大学へ重い足を向けた。
「おはよう、弘樹。――どうしたのその顔……」
「あ、あぁ……おはよう寺内さん」
「ちょ、ちょっと大丈夫?弘樹。具合悪いんだったら発表くらい森田に代わってもらうよ?」
余程俺は酷い顔をしていたらしい。昨日から食事も喉を通らない。何度吐いたかもわからない…
確かに気分が悪いと言われてみたら眩暈もするような気さえする。
状況を見ていた嶋さんが俺の手首を引っ張り、医務室の方へと足を向けた。
「嶋さん?」
「……何かあったんでしょう?」
勝手知った様子で医務室のドアを開け、管理者の女医と何かを話している。
「雨宮どうした?具合悪いのか。一本点滴してやるよ」
「結構です……そんなことよりもリハーサルが……」
踵を返したが、嶋さんに思っていたよりも強い手で手首を掴まれていた。
緩く首を振りながら行くなとその目が言っている。
「弘樹君、自分を大切にしないとダメだよ。貴方が、そうやって私に教えてくれたでしょう?」
あぁそうだ……
睡眠剤を飲んで自殺未遂をしかけた嶋さんに、俺が言った言葉だ。
人に偉そうなことを言っておきながら…俺は――……
嶋さんが女医に俺の症状を伝えながら何か点滴の準備をしている。俺は促されるまま医務室のベッドに横たわった。
「……そんな、ふらふらで、青い顔して……リハーサル中に倒れたら、みんな心配するでしょ」
「ごめん……嶋さん」
布団をかけられ、右手の袖を捲られる。
ドSで有名な女医はニヤニヤしながら俺の血管を探っていた。
「おーおー、この衰弱しきった血管たまんないねぇ。雨宮、ちょいと痛いけど動くなよ」
何か点滴の管を刺された俺は、そのまま500mlの点滴ボトルに繋がれ、そのまま眠ることとなった。
雪のことが心配で眠ってなんかいられない。そんな俺の不安を悟ったのか、嶋さんはそのまま俺の側で付き添ってくれていた。
「……妹さんに、何かあったの?」
「退行現象がみられてるんだ。誰かに、何かされたらしい……」
「何歳まで戻ってるの?」
「4歳。――雪は、前の親父がDVしてたのをずっと見て育ってる。だから男に対して人一倍恐怖が強い。それが俺と一緒に居たせいで警戒心が無くなって……」
元々、雪は表情の無い子だった。
可愛い外見に反して、俺と初めてレストランで出会った時、お人形だと思った。
あちらも俺と父さんのことを快く思っていなかったようで、ずっと母さんのスカートの裾を引っ張って顔を背けていた。
俺が、あの時手を差し出したから?
俺が、ずっと一緒に居たから?
おにぃちゃん……
鈴のような可憐な声でそう言う雪は、俺と出会ったことで、男に対しての恐怖を少しずつ払拭していった。
俺の友人に対しても、最初はぎこちなくて挨拶もしなかったのに、少しずつ、少しずつ打ち解けて……
俺が離れようとしたら散々泣いて喚いて――
……雪の男に対する恐怖心を拭ったのが俺なのに、それを放棄してどうするんだ。
何度も雪を悪戯に傷つけて、泣かせて……
やっと恋人になった雪は、俺がいる事で安心して今まで以上に他の男とも打ち解けて話せるようになっていた。
それは、喜ばしいことじゃないか。雪に感情が戻ったのだから。
「……弘樹君……妹さんを手放したらダメよ……可哀想過ぎる」
「嶋さん……?」
自分のことのように胸を痛めた嶋がぽろぽろと大粒の涙を流していた。
ただ弘樹が好きだという一方的な感情が爆発して、一緒にいる妹が憎くて憎くて――
携帯電話で彼女の行動を操作して兄に嫌われてしまえばいい…そんな黒い感情に塗れていた自分の考えが恥ずかしい。
「ごめんね……私、あの子を酷く傷つけた。知らなかったのよ、そんなことがあったなんて……」
「いや、雪の…このことは誰にも言ってない。嶋さんが初めてだよ」
俺は眸を閉じて自分の今までの行動の軽率さを恥じた。
一緒にいるからということで安心しきっていたのかも知れない。
雪が、いつも俺に懐いていたのが当たり前で、あまりにも居心地が良くて。
肝心の彼女を大事にするという気持ちがどこかで欠けていたような気がする。
――雪。
もう一度、彼女と最初からやり直そう……




