第十八話「退行現象」
※冒頭部が若干強姦未遂です、苦手な方はスルーしてくださいm(__)m
「ふ……ぐぅ……うぅ…」
「まさか、拓篤が初物連れてくるなんて思わなかったなぁ。白くて綺麗な肌。い~ねぇ……そそられる」
するりと雪の肌を撫でる御堂の手は生暖かくて不快感しかなかった。
雪の口には叫べないように丸めたパーカーの袖が突っ込まれている。頭を動かすと抵抗するなと低い声で怒られてしまい、ママを殴っていた前のパパが重なった。
涙が枕を伝い落ちる。
…――ひろちゃん……ひろちゃん…――
ぬめりを帯びた舌が胸の辺りを這う。不快感の余り全身がガタガタと震えて少しずつ感情が消えていく。
ひろちゃん以外の人の手なんて、嫌だ。
ひろちゃん。
……あれ?ひろちゃん――
待って、ねぇどこに行くの。
ユキを、一人にしないで――……
音を立てて肌を吸い上げられても、もう何も感じなくなっていた。眸から伝い落ちる涙は体温が感じられない程に酷く冷たい。
このまま、自分は感情のない人形になってしまうのではないかとすら錯覚してしまう。
何度も肌を往復する唇の温かい感覚だけが、肌に残されていく。
キャミソールを捲り上げられ、ブラジャーをずらされる。冷たい風が肌を掠め、生暖かい吐息が胸の谷間にかかった。
それとほぼ同時に、ガチャリとドアを開けて三宅が帰宅してくる。
がさがさと薬局の袋の音をたて、スニーカーを脱いで顔を上げる。狭い1DKの中では何が起きているのか一目瞭然だった。
「ただい…ま……って、おい!何してんだよ御堂っ!!」
「チッ。もう帰ってきたのかよ拓篤」
あーあと名残惜しそうな声を出した瞬間、三宅は物凄い形相で御堂を睨み付けて雪の上に馬乗りになっている彼を引きはがす。
バキッ――……
右ストレートが御堂の頬に炸裂し、彼はどさっと音を立ててパイプベッドの柱に背中をぶつけた。
前髪をかき上げながら楽しそうにクツクツ笑っている。
「くっ……はは!んだよ、お前が初物連れてきたから味見でもしようと思ったのに」
「雪ちゃんは……そういう子じゃないんだよ……」
怒りに震える手で御堂を殴ったところで何も解決なんてしない。そんなことよりも、不用意にこんな場所に連れてきてしまった自分に責任がある。
パイプベッドに蹲っている雪の肩にそっと手をかけて上を向かせる。胸元は完全に開けていたが、何か御堂が行為に及んだわけではなさそうだった。
ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間で、よく見ると胸元に散在したキスマークの痕を見ると胸が痛む。
「……おい、大丈夫か?」
泣いたまま感情を失っている雪の身体を揺さぶる。口を開けたままぽかんと三宅を見上げる雪の眸には何も映っていなかった。
「おにぃちゃん?」
「は……?」
ぎゅっと震える手で三宅の服の袖を引っ張る雪の眸は涙で濡れていた。
「……ねえ、おにぃちゃん。ママを虐めないで……ユキ、いい子になるから……」
「ゆ、雪……ちゃん……」
――退行現象……
過去の強烈なフラッシュバックによって引き起こされる精神障害の一種だ。
三宅は静かに泣いている雪の背中を抱きしめながら自分の浅はかな行動を恥じた。どうすれば……ただ、それだけを繰り返す。
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「雪……何処に行っちゃったのかしら……」
「母さん。心配するな。今は弘樹が探しに行ってるから大丈夫だ……」
リビングで項垂れている母を慰める父。
全く手がかりもなく、雪からの連絡さえない。いつも出かける時は必ず目的と行先を告げる雪らしからぬ失態だ。
それがこの両親に多大なる不安を与えており、大事な時期の弘樹まで駆り出す結果となってしまった。
何か事件に巻き込まれてしまったのではないかと思い、母は一度警察に相談したが、結局は時間も経っていないし、ストーカー被害等の経緯も全くないことから事件性は低いと取り合ってももらえなかった。
確かに雪が不在になってから半日程度だ。これが明日になっても全く連絡が無ければもう一度……
――ピンポーン
無情なインターフォンの音に、母はすっと顔を上げてそれに応対しようとしたが、それよりも先に父の方がすっと椅子から立ち上がった。
「どちらさまですか?」
『あの、俺……雪ちゃんと同じ大学で、同じサークルの三宅って言います。雪ちゃんを……』
「雪!?待ってくれ今すぐ開ける」
父はその名前を聞いた瞬間すぐに玄関を開けた。
タクシーから出てきた雪の表情は一切の感情を消しており、顔を上げた瞬間視界に入った父を見て、堪えきれない動揺に、眸が揺れ動いていた。
「雪……心配したんだぞ」
「ひっ……!」
びくりと身を竦めた瞬間、雪が手に持っていた包装された袋がばさりと地面に落ちた。
最愛の義娘に拒絶された父の表情が一気に強張る。一体何が、と三宅にその鋭い視線が注がれる。
「……すいません……あの、お母さんは?」
「あ、あぁ……」
動揺している父は一度玄関からリビングで項垂れている母に声をかけた。
ゆっくりとスリッパで雪に近づいてきた母の姿を見た瞬間、雪の表情に僅かな笑顔が戻る。
「ママっ!」
玄関の前に立つ父を素通りした雪は母の腹部にしっかり抱き着いてその顔を埋めていた。
「ママ……良かったぁ……ユキ、いい子でいるから――……」
ほっとしたのか、雪の身体がそのままずるりと玄関で崩れ落ちる。
母がその雪を膝の上に乗せておろおろしていたが、事情をそれとなく知った父は玄関のドアを閉めて再び三宅を睨み付けた。
「一体、どういうことかね?」
「すいません……あの……」
三宅は雪がショッピングしていた時に偶然遭遇したこと、途中で高熱をぶり返したから休ませる為に自分の借りているシェアハウスに雪を連れて行ったこと。
解熱剤を買う為に一度家を離れた瞬間、同居している男に襲われかかったことを正直に話した。
すべてを黙って聞いていた父は、緩く頭を振りながら再び視線を三宅に移す。
「――弘樹は、この事を知っているのか?」
「……いいえ……」
三宅はしてしまった事の大きさに、償いきれない後悔の念に駆られていた。
あの時、魔がさしたとは言え、連れていくべきじゃなかったんだ。御堂を完全に信用していた。それなのに、こんなにもあっさり親友に裏切られるなんて……
唇が切れる程噛みしめても雪にしてしまったことの大きさは償えない。
「――強姦猥褻罪だな」
「……はい」
静かに紡がれた死の宣告に、三宅は覚悟を決めたように頭を下げた。
「――君も、止められなかったのであれば同罪になるぞ」
「……はい……」
覚悟はしていますと震える声で呟く。
しかし、そう呟いた穏やかな声はそれ以上三宅を咎めることなく、今日は帰りなさいと言ってタクシーの方を指さす。
「で、でも……!」
「……後は、我々で何とかしよう。それに、君がまだ此処に居ることで雪が不安になる」
「あ……」
自分の存在があることで、雪ちゃんが不安になるとは考えてもいなかった。
殴られる覚悟でここまで来たのに、雨宮先輩のご両親は一切俺を咎めない。
何故だ……?大事な娘がこんな酷い目に遭ったのに。殴らないのか、殺したい程、俺のことが憎いんじゃないのか?
「殴らないんですか……?」
ふいに出た一言に、目の前の男は盛大なため息をついた。
「――君を殴ったところで何も解決はしない。そんな空しいことをするよりも、雪の側から男を排除するよ」
それ以上三宅に目をくれることもなく、パタン…と閉じられた玄関のドア音が、辛辣な言葉や暴力ではなく、無言の態度によって関わる物全てを拒絶したような気がした――




