第十六話「抑えきれない思い」
女の子の一人暮らしの部屋に、俺一人……
よく考えてみたら物凄く信頼されているもんだと思わず苦笑してしまう。
これが、獣のような男だったり、物取りとかだったらどうするんだか。
しかも、家主である彼女は穏やかな表情で規則正しい寝息を立てている。
寺内さんが言っていた嶋さんの残したメモの殴り書きを見て思わず眉を顰めてしまった。
そこに書かれていたのは、彼女が俺に対して抱いていた恋慕の情。
一歩間違えたら完全にストーカーと思えるような愛の文を見て俺は複雑な心境になった。
嶋さんと薬剤学部に入ってから、一度も同じ実習チームになったことがない。
偶然支持している教授が一緒だったり、時折違う実験の手伝いや、友人の坂田や山村の手伝いでよく研究室に呼ばれていたのでそこで顔を見る事はあったが、会話をしたことは殆どない。
まして、俺が女子で喋っていたのは専ら桑原だけだ。
それ以外の女子は今回の実習でやっと寺内さんと嶋さんと喋るようになった程度だ。
『9月18日――
今日は研究室に弘樹君が来ていました。坂田君が単位落としそうなのでまた代返を頼んでいるようです。
バイトが忙しいのは分かるけど、弘樹君も忙しいのにまたそんな笑顔で引き受けて。これで10回目でしょう』
『10月31日――
ハロウィンパーティが終わった後、私は弘樹君に初めて声をかけた。弘樹君は私のことなんて覚えてくれていないと思うけど、
一緒にとったあの写真。私の大切な宝物』
『12月24日――
女子会のクリスマス。私は携帯の待ち受け写真を弘樹君にして、私の彼氏ですと嘘をついた。
ほんの小さな嘘。でも、みんなきゃあきゃあしながら弘樹君のことを聞きたがった。
――嘘なんてつかなきゃよかった。弘樹君のこと、他の女なんかに知らせたくない』
『2月14日――
女子の戦争、バレンタインデー。私は気合いを入れて手作りのチョコレートを作った。
でも知らなかった…弘樹君が、甘いものが嫌いだってこと。高校の時は受け取ってもらえた女子も弘樹君に受け取ってもらえなかったって泣いていた。
弘樹君は、何が好きなんだろう』
ぱらぱらとめくると、最後の方に今回の実習について語られているページがあったものの、その半分以上が徒手的に破られていた。
はらりと手帳から落ちたページには、赤いボールペンでたった一言…『妹が憎い』と書かれている。
――その一文に、俺は驚いて声が出なかった。
嶋さんとのハロウィンパーティの写真?と思い記憶を辿るが、このような綺麗な人との写真なんて忘れるわけがない。
それに、毎度学校でしたことは雪に報告をしていたので、写真なんて撮っていたら雪だって覚えてるはず。
ふと彼女がパソコンを置いている机の方に視線を向けると、確かに俺が大学1年生のハロウィンパーティで眼鏡をかけた内気そうな女性と笑っている写真が大切そうにおかれていた。
「これ……嶋さん?」
1年生の時は相当影のように過ごしていたのだろう。何が彼女をここまで変えたのかは分からないが、どう見ても別人だ。
眼鏡とコンタクトの違いなのだろうか……印象がまるで違う。
俺はそこまでじっと見てやめよう…と頭を振った。家主が眠っているのに、人の秘密を見るなんて趣味じゃない。
それに、俺の不用意な一言の所為で嶋さんを傷つけてしまったのは紛れもない事実。
「……雪……ちゃんと帰るからな……」
俺は嶋さんがいつ起きるか分からないからきちんと起きていないとダメだったのに、睡魔に負けて彼女の横に突っ伏してうたた寝していた。
雀の声ではっと我に返る。眠っている嶋さんの様子は変わりなかったが、呼吸も穏やかでただ眠っているだけだった。
5ミリグラムの眠剤を8錠飲んだ。超短期型の眠剤を服用していたので、例え彼女が元々不眠症を患っていたとしても昼間くらいには目覚めるだろう。
そう高を括っていると、目の前で眠っているお姫様が少しだけ眉を動かした。
「……嶋さん?」
ぺちっと頬を叩く。何度か断続的に同じ刺激を与えてみる。
「う…う……弘樹君……?」
「やっと起きた。良かったよ……寺内さんも、森田も。みんな心配してたんだよ?」
「わ、私……ごめ、なさ……」
急激に身体を起こしたことで猛烈な吐き気に見舞われたのか、嶋さんは突然うっと口に手を当てた。
すかさずベッドサイドにあったゴミ箱を彼女に渡し、そこにげっと身体の中の異物を吐き出させる。
涙と吐射物で綺麗な顔が苦痛に歪んでいた。周囲を見渡してもタオルが無かったので、俺は自分のハンカチを取り出して彼女の口元をそっと拭く。
俺を見開いた眸で見つめていた嶋さんが、再び大粒の涙を流した。
「わ、私…最低…なのに……ごめ、なさい……っく…も、死にたい……」
泣きじゃくる彼女の頬を掴み、俺はぺちっと頬を叩いた。
「……嶋さん。その発言は、俺だけじゃなくて、貴方と一緒に頑張ってきた仲間達に対しても失礼だよ」
「ひ、ろきくん……」
温厚で、人に手を上げないこの男が自分の為に本気で怒っている。
静かに見つめてくる双眸は僅かな怒りに震えていた。
「――死にたいなんて軽々しく言うな……貴方には、俺なんかよりも、もっと貴方を愛してくれる人がいつか絶対に現れるから」
「…………ごめんなさい」
涙を流し、項垂れたまま詫びる嶋さんの背中を優しく擦る。
丁度朝の交代で森田と寺内さんがパタパタとこの部屋に入って来た。
俺と嶋さんの姿を見た瞬間、寺内さんが勘違いして口に手を当てて驚いている。
「ひ、弘樹君…何、してたの?」
「えっ…睡眠薬の副作用で嶋さん吐いてたからそれの……」
「なぁんだ~。てっきり由紀奈といい雰囲気にでもなってたのかと思ったのに」
心配して損したと笑う寺内さんの言葉に俺は絶句してしまう。
こっちは病気で苦しんでいる雪を残してきたと言うのに……
重いため息を残して俺は後を頼むと佇んだままの森田の肩をぽんと叩く。
「……弘樹。昨日は…殴っちまってごめん。――雪ちゃん、大事にな?」
「うん。前日のリハには大学顔出すから、ちょっと暫く家に居させて」
「マジで悪ぃな。また明後日」
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急いで家に帰ったものの、時刻は既に昼に差し掛かろうとしていた。
雪に電話をしても良かったのだが、先に顔をみたかった。朝に母さんに連絡をした時は雪は眠っていたと返答があったので、とりあえず解熱剤は効いているらしい。
「ただいま」
「弘樹、帰ったのか?雪なら出かけたぞ?」
「はぁっ!?父さん、何で引き留めてくれなかったんだよ……!」
新聞を読んだまま遅い朝食を食べている父に突っかかったところでどうしようもない。
父さんはタクシーの運転手なので、多分昨日雪が具合悪くて寝込んでいたなんて知らないのだろう。
俺は慌てて雪の携帯に電話をかけたが、無情にも電波の届かない所に――という機械音声が流れてきた。
一体、雪は病み上がりの身体で何処に向かったのだろう……?
雪は真っ赤な顔をしながら一人で買い物を楽しんでいた。ラッピングされたプレゼントを大事そうに抱えて歩く。
しかし昨日丸1日眠っていたせいか、身体の節々が痛い。ぼんやりした頭を振りながら家の方向の電車へ向かう。
お気に入りの音楽をスマホからかけながら大通りを歩いていると横から出てきた人にどんっとぶつかった。
「わっ、ご、ごめんなさい……」
「あれ?雪ちゃん。どうしたの買い物?」
イヤホンを外してふと顔を上げる。頭上からかかった声の主は三宅だった。警戒していた雪は少しだけ眉を寄せながら胸元でプレゼントをきゅっと抱く。
いつもと違う雪の様子を目を細めて見つめていた三宅は、口元に不敵な笑みを浮かべて雪の細い手首を引っ張る。
「あっつ!……雪ちゃん熱あるんじゃねえの?何でこんな……あいつは?」
三宅があいつ呼ばわりする人物は一人しかいない。何故か最初にあった時から仲が悪くて……
「え?……ひろちゃんは、論文の最終…」
「彼女放置して論文かよ。あいつなんかやめちまえよ、幸せになんかなれねえって――俺が……」
言いかけて言葉を噤み、小さく舌打ちをすると三宅は熱でふらふらの雪を半ば強引に自分の腕に抱きしめた。
「三宅先輩?」
男に全く免疫のない雪は、全く抵抗する様子も見せず、以前彼に唇を奪われたこともすっかり忘れているようだった。
子犬のような純粋な眸で上目遣いで見つめられた三宅は顔を赤らめていた。
「っ…たく……雪ちゃんは、免疫無さすぎだろ……」
「え?」
三宅に顎を掴まれた瞬間、雪の身体がくらっと背後に倒れそうになったので慌てて支える。
「ゆ、雪ちゃん!?」
何とか頭を打つ前に彼女を支えることは出来たが、完全にぶり返した高熱で意識を飛ばしていた。
参ったなあと頭をぽりぽり掻きながら、雪のポケットで光っているものに視線を向ける。
ブーブーと何度も音を立てている携帯電話を手に取ると、メイン画面には不在着信と、三宅が心底嫌っている雪の兄からのメールが入っていた。
小さく舌打ちをした三宅は、雪を抱きかかえたまま大通りでタクシーを拾う。
後部座席にくったりと眠っているお姫様を乗せて、運転手へ自分の家の住所を静かに告げた。




