第十五話「軽率な言葉の代償」
残り4日間の論文纏めの為、俺達は最終打ち合わせの為に時間確認と、リハーサルで大学の講堂に集まっていた。
当日のように準備が進められ、司会進行の人がマイクテストや、他の班のメンバーも集まってかなりの大人数になっている。
俺は雪がデータを消してしまったので、質疑応答の具体的なデータが不足していたが、頭の中で何百回も繰り返してきた数字の方程式はすべてインプットされている。
「――弘樹君、楽しそうね」
スライド係の嶋さんがそう言いながら俺の顔を覗き込んできた。
俺は今回の仲間達と作ったこの素晴らしい論文で賞を絶対に取る気でいた。結果を残せば、三宅君は雪を執拗に追いかけることをやめるだろう。
もう、雪を悲しませたくない。
その俺の気持ちが原動力になっていた。
『薬剤部4年、発表、雨宮弘樹、スライド、嶋由紀奈、メンバー、森田伸治、田嶋裕也、寺内典子――』
名前を呼ばれて俺達はすっと壇上に上がる。何度も嶋さんとリハーサルをしてきたので時間配分もスライドのタイミングもばっちりだった。
ハラハラしながら俺と嶋さんの発表を見つめていた森田達が、発表を終えた俺達が降りてきたと同時に近寄ってきて肩をばしばし叩いた。
「弘樹、完璧じゃん。後はいやらしい質問さえ来なければ…だね?」
「うん――あとは、本番だけだ」
長時間のリハーサルが終わり、俺達は後は本番までリラックスと言いみんなと別れた。
大学を出る前で嶋さんに声をかけられる。
「ねぇ、弘樹君……論文終わったら、田嶋君の都合聞いて5人で打ち上げしようね?」
「うん。いいよ。――でもその前に、嶋さんに言いたいことがあるんだ」
「何?」
きょとんとした顔で小首を傾げた嶋さんに、俺は眸を細め、低い声で冷たく言い放った。
「……雪を、泣かせないで欲しい」
「え……?」
彼女の眸が驚愕に丸くなる。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった顔だ。
……人は思いがけないことを言われたり、嘘を隠そうとすると無意識に眸が揺れ動く。
信じたかったが、彼女の態度と口元が引きつっている様子を見て俺は核心した。
パソコンのフォルダを操作した人物を……
そして、雪を傷つけた人物を……
「――嶋さんは6年専攻だっけ?……また同じチームになる時は、俺裏方に回らせてもらうから」
「ひ、弘樹君……!?」
呼び止められても俺は振り返ることなく、真っすぐに家へと足を向けた。
「ただいま」
家の鍵を開けても、まだ誰も帰っていないようだった。
時計の針は19時を回っている。暗い家に電気をつけると、雪の部屋から咳き込んでいる声が聞こえてきた。
「……雪?」
「ごほっ……あ、れひろちゃん……おかえり」
淡い黄色のパジャマを着ていた雪は慌てた様子で部屋の電気をつけた。
その眸は赤くなっており、頬もかなり紅潮している。もしや、と思い額に手を当てるとかなり熱くなっていた。
へらへら笑う雪の笑顔は変わらないが、具合が悪いのか歩いている足取りには覇気がない。
「雪……いつから具合悪かったんだ。ほら、ちゃんと寝て」
「えへ…今日…学校行ったらなんか…突然」
ぽすんと俺の胸になだれ込んできた雪は身体もかなり熱くなっていた。じっとりと背中には汗の玉が浮かんでいる。
「着替えるか?お湯持ってくるよ」
「……恥ずかしいよ」
「だってそんなふらふらじゃお風呂入れないだろ。明日熱下がってからにしなさい」
俺は軽々と雪を抱きかかえてベッドに再び寝かせ、その身体に布団をかける。
お湯を取りに行く為踵を返すと、雪に手首を掴まれた。
「ひろちゃん……」
「――すぐ戻ってくるからな?」
不安そうにこちらを見つめている雪の頭をぽんと撫でて安心させる。額に乗せたタオルは熱の所為ですぐに温くなるだろう。
……まずは下の冷蔵庫から冷えピタでも取ってきて、後は温かいお湯を入れて少し身体の汗を拭いて――……
そう考えながら階段を下りているとポケットに入れたままの携帯が鳴りだした。
急ぎじゃないだろうと思い無視を決め込んでいるがなかなか着信が切れない。
小さくため息をついて俺は着信に出る。
「……もしもし?」
『弘樹!!ちょっと大変なのよっ!!』
電話の主は寺内さんだった。物凄く慌てた様子に俺も電話を耳に当て直す。
「どうしたの?」
『由紀奈が……由紀奈がっ……!』
「嶋さん?どうしたの……」
『睡眠薬、大量に飲んで……弘樹、早く来てっ!もう、どうしたらいいの……!?』
――ドクリ……
信じられないような言葉が耳の奥で聞こえていた。
泣きじゃくる寺内さんの横に森田も居たようで、現状を端的に教えてくれている。
どうやら、俺が放った一言に傷ついた彼女はこの発表前の大切な時期に自殺するつもりだったらしい。
病院に連れて行きたいところだったが、このタイミングでもめ事となれば論文発表会も延期になる可能性だってある。
それに、恋愛事情のごたごたなので間違いなく俺達全員に制裁が下るだろう。
俺は眉間に皺を寄せたまま眸を閉じて唇を強く噛みしめた。
「……悪い…そっちには行けない」
『弘樹っ!由紀奈はあんたのことが好きなんだよっ!?』
「それでも……行けない」
俺の頭の中は論文発表会よりも、今二階で苦しんでる雪のことでいっぱいだった。
半ば叫び声のような電話を一方的に切り、俺は風呂場から桶を取るとそれに温かいお湯を入れる。
冷凍庫からは氷枕と冷えピタを取り、両手に色々抱えて雪の部屋に戻った。
「雪、大丈夫か?」
「ひろちゃん……」
雪の熱はさらに上がっているようで先ほどよりも苦しそうに見えた。
額に冷えピタをつけ、頭の下に氷枕を入れる。身体はじっとり汗ばんでいたので、俺は荒い呼吸を繰り返している雪の上体をゆっくりと起こし、パジャマのボタンを丁寧に外していく。
「ひ、ひろちゃん…やっぱり……」
俺は恥ずかしがって少し抵抗する雪の腕を掴みながら胸の前にそっと温かいタオルを当てた。
袖も脱がせて背中からゆっくり温かいタオルで拭いていく。
「そんな汗まみれで寝てたら風邪ひくだろ。シーツは熱が落ち着いたらにして……薬は飲んだ?」
「う……ううん…まだ……」
「ミネラルウォーター持って来たから、これでまず解熱剤だけでも飲みな」
新しいピンクのパジャマを着せながら、俺は持って来た解熱剤を雪の口の中に含ませた。
恥ずかしさと熱で真っ赤になっている雪は素直にそれを飲み、再び枕に頭を沈めた。
俺は愛おしい雪の額を何度も撫で、ベッドサイドに雪が使用している勉強用の回転椅子を引っ張ってくる。
「ひろちゃん……あの――」
雪が何か言いかけた瞬間、また携帯電話が鳴った。発信は寺内さんだ。
俺が出ようか悩んでいると、事情を何となく察した雪がふわりと微笑んだ。
「ひろちゃん、ユキね、大丈夫だから……なんか、大変みたいだし、いって来て?」
「雪……」
気丈に微笑む雪は、俺が躊躇している気持ちを察していたらしい。
――病気になってる恋人の側にも居られないなんて……
俺はぎりっと唇を噛みしめ、雪の顎を掴むと唇に触れるだけのキスを落とした。
「悪い…雪。なんか、嶋さんが自殺未遂起こしたみたいで。俺が不用意なことを言った所為なんだ。ケジメつけてくる」
「うん……いってらっしゃい、ひろちゃん」
もう一度可愛い恋人にキスをして、俺は後ろ髪を引かれる思いで雪の部屋を後にした。
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嶋さんの家に到着すると、泣いていた寺内さんと、怒りに任せて俺の頬を殴って来た森田の姿があった。
どうやら田嶋には心配かけたくないと事を伝えていなかったようだ。
二人に俺は素直に詫び、今雪が風邪をひいて寝込んでいることも同時に伝えた。
結局病院に連れて行こうにも呼吸が乱れているわけでもなく、ただ眠っているだけだったので、どうしていいのか分からなかったようだ。
これで意識混濁や命の危険性が高ければ救急車を呼ぼうとしたのだが、眠っているだけであればこのことをもみ消したいのが素直な気持ちだ。
「……弘樹、どうしよう。このまま由紀奈起きるまで付き添うしかないかな……」
「うん…何錠飲んだみたい?」
「8…だと思う」
薬の空を見る限り、左程の量ではなかった。しかし1回服用量からは確実に逸脱している。
よほど不眠症の人であれば別に大した意識混濁は起こさないものの、身体面への影響は計り知れない。
俺はため息をついてその空を握りつぶした。不用意な一言を言わなければ穏便に終わったものを……
「――俺の所為だし、付き添いするよ。森田も寺内さんも帰らないとまずいでしょう?」
「う、うん……明日朝になったら変わるから、それまで頼んでいい?」
「分かった。俺も雪が心配だから、朝にチェンジしてもらえる?」
ごめんね、と言い帰る寺内さんと森田を見送り、俺は眠り姫のようにベッドで眸を閉じている嶋さんを見つめた。
一体どうして俺の為にそんな無茶をしたのだろう。正直迷惑を通り越して呆れしかない。
雪が心配だった俺は母さんの携帯電話にコールした。こういう時に限って母さんの職場は急な残業だったりして捕まらない。
小さくため息をついて、一か八か雪の携帯電話も鳴らしてみた。すると5秒後に力ない声でぷつっと音がする。
「雪?」
『……ひろちゃん、どうしたの?』
「……ごめんな、雪。俺…嶋さんとこに付き添いしなきゃいけなくて」
『大丈夫だよ、ひろちゃん……ユキは、元気だぞ』
えへへと電話口から力なく笑う声は鼻声で咳込んでいた。
こんな時に傍に居れない自分の不甲斐なさを呪い、俺は不覚にも涙を流してしまった。
「雪…明日の朝には絶対帰るから、それまでちゃんと寝てろよ?」
『うん……ひろちゃんも、きちんと休んでね?』
ひろちゃん大好き――
そう力なく紡がれた声に、胸が熱くなった。
俺は溢れる涙を乱暴に拭い、静かに雪との電話を切った。




