第十三話「計画的な罠」
「はぁ~~~疲れた……もう無理」
2杯目のドリンクを飲み切ったところで先に根を上げたのは意外なことに寺内さんだった。
俺達は各々チームにわかれて他の論文を読んだり、質疑応答の文書を作成していた。
寺内さんに怒られて俺の代わりに質疑応答の文書を作っている田嶋は目が充血している。
森田は口を出している寺内さんの奴隷のように肩を揉んでいた。――やっぱりあいつらデキてるんだろうか。
「ちょっと集中力限界だね。あと5日あるし、今日はやめよう」
「おっ。弘樹がそういうならお開き。明日はどうする?」
「うん……大分質疑応答の資料も固まってきたし、それぞれ他の班の論文熟読でいいんじゃないかな。俺も発表原稿仕上げてくる」
「流石弘樹っ。頼りにしてるよ。こっちはエグい質問来たらサポートすっからね?」
ばしっと背中を叩かれて苦笑しか出ない。
それぞれが資料を纏めて帰ろうと準備を始めていると、俺は嶋さんに呼び止められた。
嶋さんは俺が論文発表をする時のスライド係になっている。隣で俺の説明に合わせてスライドを操作する担当だ。
「弘樹君、発表の最終打ち合わせしたいんだけど…今日はもう無理…かな?」
「そうだね、ぎりぎりよりも早い方がいいか。じゃあどこかでまた続ける?」
「…ここからだったら家の方が近いから、弘樹君が良ければ」
「ありがとう。家は今日雪の友達が泊まりに来てるから助かる」
今日は中学時代からの友人である田畑の妹・麻衣ちゃんが遊びに来ていると聞いた。
雪は麻衣ちゃんが来ている時は、俺の部屋まで占領してしまうことがあるので、こうやって少しでも外で時間が潰せるのはありがたかった。
俺は嶋さんの家で電源を借りてノートパソコンを再び立ち上げる。
先ほどの続きの文章を入力しながら、スライドと照らし合わせてスライド切り替えの文章にマーカーを引く。
10分以内で発表を終えないといけないので、時間を計りながら少しずつ微調整していく。
短くても長くても問題となるので最後の考察と纏めの部分でどうしても時間がオーバーしてしまうことがネックだった。
削ることは出来るが、言いたいことを端折り過ぎると通じなくなってしまう。
現にお客さんは一般の人も来るのだ。分からない論文をだらだら説明しても眠いだけ。
ふぅと小さなため息をついていると嶋さんが口直しに、と言い冷たいサイダーを持ってきてくれた。
「珈琲ばかり飲んでたからね。はいどうぞ」
「ありがとう……あと、嶋さんに俺聞きたいことあったんだけど」
貰ったサイダーを一口飲み、俺はゆっくりとフローリングに足を斜めにして座る嶋さんを見つめた。
何?と眸が言っている。――テニスコートの前でいきなりキスをした理由……それについて聞きたかった。
別にこのタイミングじゃなくても良いのかも知れないが、彼女の行動の真意を聞いておかないと雪にどう伝えたら良いかわからなくなる。
「昨日、さ……テニスコートの前で……」
「あぁ……ごめんね、弘樹君。妹さんに嫉妬しちゃった」
ふふっと笑う嶋さんは、薬剤部の中で美人の部類トップ3に君臨する綺麗な人だ。
腰まである長い黒髪に、穏やかで他人思いの優しさを見せる人……あまり饒舌なタイプではないが、その分奥ゆかしいことから周囲の人気が高い。
「私、弘樹君のことが好きだったの……実は1年生で初めて会った時から。テニス愛好会が必死に弘樹君を勧誘していた時、私も入りたくてマネージャーでも…って言ったんだけど、お母さんが赦してくれなくて……」
嶋さんの家はバリバリの医療一家らしく、この一人暮らし生活すら男に襲われたらどうするんだ、とか母親に散々制約されてきたらしい。
しかし、こんなタイミングでいきなり告白されても俺には雪がいるし正直返答に困る。
もう一口サイダーを飲みながら俺は頭の芯が何やらぼんやりしてくるような感じがした。
――変だ……確かにパソコン作業はずっとしてきたけど、人の家なのにこんなにも眠くなるなんて。
「……弘樹君?」
「あ、ごめん……すごく……眠い」
「疲れてるんだよ、弘樹君。起こすから、ちょっと眠ったら?」
「……ん…ありがと……」
もはや意識を保っているのも限界だった。俺は誘導されるまま、そのテーブルの上に突っ伏して眸を閉じる。
穏やかなまどろみに包まれていると、俺の横からゆっくりと立ち上がった気配が、スカイブルーの携帯を手に持ち何処かへと消えていった。
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「マイちゃんは、おにぃちゃんと上手く行ってるの?」
「秘密」
「えぇ~!!ずる~い。教えてよぉ。だってマイちゃんトコはさぁ、兄妹なんでしょぉ~?」
S女学院の頃から仲良しである麻衣と雪は漫才コンビのような掛け合いで有名だった。
どちらも種類の違う綺麗系女子で、周囲の共学校からはかなり熱烈な視線を浴びせられていたのだが、残念なことに二人共兄以外の男には興味が無かった。
ふふっと意味深に笑いながら話をはぐらかす麻衣に頬を膨らませていると、雪の携帯が突然音を立てた。
発信が弘樹からのものだったので、ごめんね、と麻衣に退席を告げていそいそ電話に出る。
「もしもし~ひろちゃん?」
『……』
「ひろちゃん?今日も忙しいのかな?あのね、マイちゃんが――……」
『桜田、さん?』
「……え……」
雪の表情が一気に曇る。また、あの時の女性――
ひろちゃんの特別な電話に、どうして女性が出るんだろう。そこまでひろちゃんが無防備になることなんて、今まで無かったのに。
雪は初めて感じた年上美女の存在に、弘樹を取られるのではないかという不安に駆られていた。
『実は、ちょっと桜田さんにお願いがあって』
「はい。私で出来ることでしたら……」
心臓が早鐘を打っている。どうしてひろちゃんじゃなくて、この人がひろちゃんの電話を……
眉尻が自然と下がる。悔しさにきゅっと唇を噛みしめながら、彼女からの「お願い」を聞く為握った拳に力を入れた。
『弘樹君のお部屋に行って、デスクトップのパソコン開いてもらえる?』
それはよく解らない内容だったが、急ぎとのことだったので慌てて弘樹の部屋に入る。
部屋主のいないその部屋は少しだけ空気がひんやりして冷たくなっていた。
パチリと電気をつけ、急いでパソコンを起動する。
パソコンが立ち上がるまでの間、もう一度嶋におずおずと弘樹の状態を確認する。
「あの……ひろちゃんは?」
『疲れてるみたいで、今眠ってるの』
「そ…う……ですか……」
眠ってるの。
その一言が雪の心にぐっさりと突き刺さる。
疲れているのであれば、家に帰ってきてゆっくり眠ればいいのに。
一体どうして女の家で無防備に寝るのだろう……
そんなこと、言いたいけど言える訳がない……
「起動、しました……」
『デスクトップにあると思うんだけど、薬剤部のフォルダを開いて?』
「はい、あります」
雪は嶋に言われるがまま弘樹が論文用で作っていたフォルダを開いた。
『実は、その中にあるファイルがトロイにかかってるみたいで、消去しないとデータが流出しちゃうのよ。弘樹君、そのパソコンってインターネット使ってるわよね?』
「え、あ……はい」
『そのデータ、みんなの論文が入っててそれが流出すると学校側で大変なことになるから、データを消去してもらいたいの。今こっちでは新しく作り直してるから。こんなこと頼めるの妹さんしかいなくて』
「で、でも……これって消して大丈夫なんですか?」
『バックアップは私も持ってるし、そこからウィルスが流れたら、弘樹君大変になっちゃうわよ。だからお願い。貴方にしか出来ないことなの』
弘樹が大変になる――
その言葉が雪を突き動かした。
震える指先で黄色いフォルダをごみ箱の中に入れる。
『ゴミ箱に入れただけだと、完全消去にならなくて、ウィルスが流出しちゃうの。だから、ゴミ箱の中からも完全消去してね』
「はい……」
ゴミ箱をクリックして、先ほど自分が投入した黄色いフォルダを完全消去のボタンを押して消す。
たった1秒で消えてしまった弘樹の努力の結晶。果たして、彼女に言われるがまま行動してしまったが、これで良いのだろうか?
雪はデータを消してしまった後になってから、自分がしでかしたことの重大さに気付き、堪えきれない恐怖に戦慄いた。
――弘樹の論文発表会は、あと5日だ。
もしも……このデータが無いことで、弘樹にトラブルがあったら――……?
無言の雪を更に追い詰めるようにくすりと電話越しで小さく笑う声が聞こえた。
『後はもう一度ウィルススキャンしてくれたら大丈夫。ごめんね桜田さん――弘樹君、一時間くらいしたらちゃんと起こして帰るように伝えておくから。今は休ませておくね』
一方的に切られた電話を手に持ち、呆然と弘樹の部屋に佇む雪を見て、丁度部屋から出てきた麻衣がどうしたの?と声をかけていた。
麻衣の方を向いた雪の眸には大粒の涙が浮かんでおり、何度も鼻水を啜っている。
「……マイちゃん…どうしよう……ユキ……ひろちゃんに嫌われちゃう……」
「え?えっ?…ちょっと、雪ちゃん!?」
「ひろちゃんに、嫌われたくない……どうしよう……」
突然泣き始めた雪を麻衣はただ抱きしめて背中をさすることしか出来なかった。
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スカイブルーの携帯電話の発着信を消した嶋は再びその電話を何事も無かったかのように、持ち主の下へ戻す。
そして弘樹の飲みかけていたサイダーを片付けながら、流しに置いていた睡眠剤の空をゴミ箱に捨てた。
証拠を消し去ってから再び穏やかな寝息を立てている弘樹の横に座り、その柔らかい髪を撫でる。
「……どうして、妹さんが好きなの……弘樹君」
返答は勿論ない。けれども嶋は自分の溢れる感情の波を抑えきれないでいた。
「ずっと……好きだったのに……どうしてあの子なの……」
せめて、見栄えの悪い子と弘樹が付き合っているのなら自分の中でも消化できるものはあった。
だが、桜田雪音は大学入学当初よりミスコンで優勝出来るのでは?というくらいの人気があり、自分の人気さえ危ぶまれる存在だった。
他の男も魅了しながら、更に大好きな弘樹までいきなりやってきて奪おうとする――……
ふわふわして、天然っぽくてお人形さんみたい。
すべて良い点を持っている彼女を壊したいと思った。大好きな”ひろちゃん”に嫌われたら、果たして彼女はどうなるか。
何度も柔らかい弘樹の髪を撫でながら嶋は不敵な笑いを堪えることが出来ない。
「弘樹君……妹さんの存在は、貴方の足を引っ張るわよ――これからも」
眠ったままで返答のない弘樹の顔の向きを変えると、嶋は目を細めて笑いながらその唇に触れるだけのキスを落とした……。




