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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
95/115

ふたりで夏休みの計画

 ショッピングモールから乗り込んだバスが、見慣れたバス停前で停まる。

「降りるよ」

 僕は隣に座るみゆに声をかけ、まず座席から下りた。

「うん」

 彼女が応じる。バスに乗っている間は酔いのせいか、うとうととまどろんでいるようだったけど、ちゃんと起きてはいるようだ。黙って後についてきた。


 冷房の効いた車内とは違い、外は夏の夜らしい蒸し暑さだ。ステップを降りた瞬間から息苦しいほどの熱気が押し寄せてくる。

 バスがエンジン音を上げて走り去った後、僕はみゆに手を差し伸べた。

「大丈夫? 歩けそう?」

「全然平気」

 そう答えて、彼女が僕の手を握る。

 触れる手のひらが気温以上に熱く感じた。

「バスに乗ってる間はちょっと眠かったけどね」

「確かにおとなしかったね」

「でも今は大丈夫、そんなに酔ってないよ」

 酔っ払いは押しなべて『酔ってない』と自分では言うものだけど、みゆの言葉は嘘でもないようだ。バス停に降り立った時は思いのほかしっかりしていたし、眠そうな様子もない。

 そもそもレストランではワインを二杯飲んだだけだし、酔っ払うほどの酒量ではなかったはずだ。正直、もっと飲むって言い出すんじゃないかと思っていた。もちろんそれでもよかったんだけど、具合さえ悪くならなければ。

「みゆが歩けないなら、背負って帰るつもりだったよ」

 僕がおどけて言うと、みゆは声を上げて笑った。

「それもよかったかなあ」

「よかった? して欲しいならやってあげるよ」

「だめだよ、重いもん」

 屈託なく答えた彼女が、その後でつぶやくように続ける。

「でも篤史くんの背中広いから、背負われたら気持ちいいだろうね」

 独り言めいた声に、僕はどう答えていいのかわからない。

 ただ、やっぱり酔ってるみたいだ、と思った。普段のみゆならもっと遠慮してるはずだ。


 バス停から僕らの暮らすアパートまではたったの徒歩五分。

 急ぐ用事もないし、お酒も入っているし、何より気分がいいからのんびり帰ることにした。

「見て、空がすごくきれいだよ」

 みゆがうんと首を伸ばして見上げた先には、雲ひとつない夜空が広がっている。あいにく満月前で星の光を月明かりが飲み込んではいたものの、冴え冴えとした月の光も蒸し暑い夏の夜にはいいものだった。

 午後九時を過ぎた住宅街は道行く人もほとんどおらず、耳を澄ませば聞こえてくるのはどこかの家で流すテレビの音、キッチンかバスルームの水音、それに夏らしい虫のぎいぎい言う声くらいだ。空を見上げて歩く僕らの足音さえ吸い込まれていく、とても静かな夜だった。

「夏だね……」

 なんとなくそう零した僕を、みゆがちらりと見る。

「星のこと?」

「いや、全体的に。夏っぽい夜だなと思ってさ」

 僕はそれほど天体に詳しいわけじゃない。こと座のベガと白鳥座のデネブ、わし座のアルタイルで夏の大三角、そのくらいは授業でやったから覚えてる。でも実際の星空を見上げてそれらの星々を探そうなんて気にはなかなかならない。

 ただ夜空の一角を埋めつくす天の川と、それよりも煌々と輝く月光、風のない熱せられた空気、秋より涼しげじゃない虫の声、それに歩いているだけでじっとりと汗ばむ身体が、どれもこれも今を『夏だ』と全力で思い知らせてくる。

「篤史くんは夏って好き?」

 みゆの問いに対し、僕は正直に応じた。

「なんとも言えないな。暑くて過ごしにくいのはあるけど、夏しかできないこともあるし。なんだかんだで夏の夜って、いくつになってもわくわくするよ」

 夏の夜の空気は、縁日とか花火大会といった、子供の頃の楽しかった記憶を思い出させてくれる。今日は飲んだワインも手伝ってか、気分がよくてしょうがない。

「みゆは? 夏生まれだから、やっぱり夏が好き?」

 僕が聞き返すと、彼女は口をとがらせる。

「うーん……好きか嫌いかで言ったら、苦手かなあ」

「そうなんだ、意外」

「あ、苦手っていうか。夏が来るのが嫌なほどではないんだけど」

 少し困ったように言いつくろった後、みゆはまた夜空を見上げた。

 汗で首筋に張りつく後れ毛と、小さな耳に光るイヤリング。そちらに泳ぎかけた視線を理性で横顔まで向ければ、彼女はどこか浮かない表情をしていた。

 もっと言うなら、愁いを帯びた顔だった。

「夏って、なんとなくだけどね。他の季節には考えないことを考えちゃうの」

 続いた言葉も意外、というより予想もしていなかったもので、僕は反応に困ってしまう。

「考えないことって、どんな?」

「うん……」

 そこでみゆは口ごもった。

 夜空に目を向けたまま数秒間黙って、やがて言いにくそうに答えた。

「なんか、暗いこと。あんまり人には言わない方がいいようなこと」

 その答えもまた、予想だにしていないものだった。

 人に言わない方がいいようなこと。その範疇には僕も含まれているんだろうか。そもそも人に言えないような暗いことを考えるみゆが想像つかなくて、僕はじっと彼女を見つめた。

 みゆは立ち止まる。僕と手を繋いだまま、物思いにふけるように視線を落とす。


 彼女が明るいだけの人ではないことを、僕はとてもよく知っている。

 昔は『隣の席の佐藤さん』が、いつもにこにこして、悩みなんてなさそうな子だって思っていた。正直言って、見下してもいた。人の心配をするくらいならまず自分のことをできるようになればいいのに、なんて偉そうに考えていた。

 でも、それは間違っていた。みゆは明るいだけの女の子ではなかった。自分のできないことを知っていて、思い知らされていて、その上で努力しようとしたり、でもだめで行き詰まったりしながら、他の人と同様に悩みもがき続ける普通の女の子だった。思い知らされているからこそ彼女はいつも笑っていて、人に対しては優しくて――そういうところから僕は、彼女を好きになった。

 高校時代からの付き合いだ。彼女のことは全てではなくても、ほとんど知っていると思っていたのに。今では同棲までしているのに、わからない。

 みゆは夏になると、何を考えるんだろう。


「それは――」

 黙ってはいられず、僕は尋ねた。

「僕が聞いてもいいこと?」

 すると彼女はこちらを見て、しっかりとうなづいた。

 それから、こう切り出した。

「あのね、篤史くん」

「な、何?」

「夏休みって、何か用事ある?」

 話を逸らされた。

 一瞬そう思いかけたのは、たぶん誤りだ。みゆは引き続き真面目な、そしてやはり悲しげな顔をしていたから、この話題はひと続きのものなんだろう。だから冗談で茶化したり、曖昧な答え方をしてはいけない。

「この夏は就活に向けて、インターンシップに参加する予定なんだ。と言っても申し込んだのは五社くらいだから、それほどみっちり予定あるわけでもないよ。あとはバイトと、サークルの練習に行く程度かな」

 大学生の僕とは違い、みゆには夏休みはない。お盆休みならあるから、もし彼女に予定がなければどこか旅行にでも誘おうかと思っていた。それまではバイトのシフトを増やして、七月のうちにお金を貯めておくつもりでもあった。

 もしかしたら彼女は、お盆には実家に帰るというかもしれないけど――そんな考えが頭を過ぎった時、みゆがためらいがちに口を開いた。

「もしよかったら……お盆休みに、付き合って欲しいところがあるの」

「いいよ、どこ?」

「お墓参り」

 小さな声で言って、彼女がこちらをうかがうように見る。

「私の、お父さんの……なの」


 みゆに、お父さんはいない。

 僕はその話を高校時代に聞かされていて、でも詳しいことは聞けずじまいだった。彼女に対してむやみに働く好奇心も、その部分だけはどうしても触れがたかった。でも彼女の家には仏壇があって、いつもかすかな線香の匂いがすることは知っていた。

 彼女が今まで言わなかったことを、僕も聞けずにいたことを、今夜初めて聞いた。


「あの、あのね」

 みゆは少し早口になって続ける。

「お酒の勢いでお願いすることじゃないってわかってるんだけど、どうしても切り出しにくくて。でもね、篤史くんに来て欲しいの。お父さんに会って欲しくて……あの、お父さんっていうか、お墓なんだけど」

 彼女が言った、『暗いこと』の意味がようやくわかった気がした。

 もちろん僕は即答する。

「いいよ、ご挨拶に行こう」

 迷いはなかった。むしろ彼女がそう言ってくれるのを待ってさえいた。だから今のお願いはすごくうれしくて、答えた後に彼女の手を強く握りしめたほどだ。

 みゆがはっとして、それから安堵に表情をほどく。

「ありがとう、篤史くん。変なお願いなのに」

「変じゃないよ、当然のことだろ」

 僕だって連れていってもらいたかった。彼女のお母さんやおじいさん、おばあさんにはご挨拶したけど、お父さんにはまだなんだから。

 僕もお酒の勢いかもしれないけど、ここは言うべきだと思ってきっぱり宣言した。

「ちゃんとご挨拶するよ。僕が娘さんを幸せにします、って」

 すると彼女は大きく目を見開いてから、

「え、う、うん。それ、すごくうれしいな」

 もじもじしつつ、僕の手をぎゅっと握り返してきた。

「今日は本当に、いいお誕生日になったよ……」


 初めてふたりでお酒を飲んだ夜。

 僕らはお互い、言いたいことをちゃんと言えたようだ。

 その後はすぐ傍に見えるアパートまで、夏休みの計画を立てながら帰った。

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