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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
93/115

ふたりで他愛ない話

 七月。

 平年どおりに梅雨が明け、じりじりと気温が上がっていく夏真っ盛りの頃。

 僕にとってこの時期は少し特別だ。子供の頃はせいぜい夏休みが待ち遠しいくらいの、通過点に過ぎない時期だった。

 だけど高校三年の夏から、それが変わった。七月になるといろんなことを考えて、ひとりでそわそわしてしまう。

 なぜなら、みゆの誕生日があるからだ。


 夏生まれなのに『みゆき』というあまり夏っぽくない名前の彼女を、僕はここ三年間欠かさず祝っている。誕生日おめでとうのメッセージは日付が変わると同時に送信するし、ふたりで一緒にケーキを食べる約束を取りつけたりもする。もちろん誕生日プレゼントだって忘れずに用意する。

 高三の夏は小遣いをはたいて桜ピンクのリボンを贈った。

 大学一年の時はバイト始めたてでお金もなかったから、彼女が欲しいと言ったビーズアクセサリーの本を買ってあげた。

 去年の夏はふたりで一緒にネズミのぬいぐるみを買いに行った。不動産屋を見に行った後に。

 そして今年は何を贈ろうか、まだ決まっていない。


「この時期はなかなか汗が引かないね」

 バスルームから出てきたみゆは、髪を拭きながらそう言った。

 僕のいるソファーまで歩いてきたから、僕はエアコンを操作して室温を少し下げる。

「寒くなったら言って」

「うん、ありがとう」

 彼女は僕の隣に座り、にっこり笑ってみせた。

 湯上がりの赤くなった頬と、水分を含んで重くなった黒い髪は毎日見てても新鮮だ。二人暮らしを始めてからもう三ヶ月が過ぎたのに、何の変哲もないパジャマ姿さえ眩しく見えるから不思議だった。

 もう七月なのに、慣れたようで慣れてない。

 みゆは濡れた髪をバスタオルで丁寧に拭いていたけど、やがて僕の視線に気づいたようだ。けげんそうに目をしばたたかせた。

「どうかしたの?」

「いや……」

 僕はすでに乾いた髪を意味もなくかき上げる。

「もう七月だなって思ってさ」

「そうだね」

 みゆがリビングの壁に貼られたカレンダーに目を向けた。季節の花が描かれた月めくりのカレンダー、今月の絵柄は夏空に向かって伸びる大輪のヒマワリだ。来月はアサガオあたりだろうか。

「歳を取ると月日が経つのが早く感じるって言うよね」

 と、みゆはしみじみ語る。

「私もこの頃実感しつつあるの。子供の頃はそこまで早くなかったのに、最近だと毎日あっという間だなって。おばあちゃんが言うには、もっと歳を取ったらもっと早く感じるようになるらしいよ」

 二十歳そこそこでそんな実感をしているのも早すぎる気がするけど、わからなくもない。

 僕も近頃は毎日楽しくて、『もう三ヶ月か』って思うくらいだ。この分だと一年経つのもあっという間に違いない。

 その頃にはみゆの湯上がり姿にも慣れているだろうか。

「七月と言えば、みゆの誕生日だけど」

 僕が切り出すと、彼女はたちまちはにかんだ。

「覚えててくれたの?」

「忘れたことないよ。高三から毎年祝ってただろ」

「そうだったね、ありがとう」

 今年はまだ祝ってないのにお礼を言われてしまった。ここからが重要なんだけどなと思いつつ、さらに続ける。

「プレゼント、何がいい?」

「え、どうしよう……」

 みゆは髪を拭く手を止め、バスタオルをかぶったまま照れたように膝を抱えた。

 さすがに四年目ともなれば『祝ってくれる気持ちだけで十分だよ』などという言葉で僕が引き下がるはずもないと理解してくれたようだ。

「これっていうものは思いつかないなあ……」

 ただ、希望がすぐに出てくるわけでもないらしい。髪を拭くのを再開しながら、少し難しげに眉根を寄せてみせた。

「欲しいものを考えると、どうしても実用的なものになっちゃうよね」

「それでもいいよ。例えば?」

「そろそろ歯ブラシの買い替え時かなって。あと麦茶のピッチャーもうひとつ必要じゃない?」

「……ごめん、やっぱよくないや」

 誕生日プレゼントが歯ブラシと麦茶のピッチャーじゃ色気がないどころの話じゃない。長年連れ添った夫婦でもそんな生活感ありありの品を贈りあったりはしないだろう。

「じゃあさ」

 僕は解決の糸口になりそうな提案を切り出した。

「自分で買うのは抵抗あるけど、プレゼントだったらもらってもいいかなってものは?」

「あー……そっか、そうだね」

 みゆもそれで光明が差したのか、ぱっと表情が明るくなる。

 そしてバスタオルを首にかけると、半乾きの髪を指で梳きながら言った。

「えっとね、ちょっと恥ずかしいんだけど……イヤリングが欲しいんだ」

「イヤリング?」

「うん、私らしくないかもだけど」

 言葉どおり、みゆはなんだか恥ずかしそうだ。もじもじと髪をいじっている。


 らしくないと言うのも変かもしれないけど、確かに彼女がイヤリングをしているところは見たことがない。

 アクセサリー自体はいくつか持っているようだ。みゆが趣味のビーズ細工で作ったもので、きらきらしたネックレスや織物みたいな密度の指輪、あるいはコットンパールで飾ったヘアゴムなんかはよく身に着けていた。

 でもイヤリングを作っているところは見たことがない。手持ちにもないようだし、単に興味がないのかと思っていた。


「耳にはしない主義なのかと思ってたよ」

 僕が内心を口にすると、みゆもうなづいた。

「ずっとそうだったんだけど、なんか欲しくなっちゃって。自分で作ろうかなとも考えたんだけど、篤史くんに選んでもらうのもいいかなって……」

 そう言うからには、イヤリングが欲しいと思ったのも最近の話なのかもしれない。何かきっかけでもあったんだろうか。

 もちろん任されたからには立派に役目を果たすつもりだ。

「何か具体的な希望はある? 大ぶりのがいいとか、個性的なのがいいとか」

「あ、どっちかっていうと小さめがいいな。揺れないで、耳に留まってる感じの」

「了解。いいのを選んでくるよ」

 応じた僕に、みゆはほっとした様子だった。

「ありがとう! 篤史くんのセンスで選んでね、きっと素敵だと思うから」

 彼女はバスタオルで長い髪の毛先を挟むように水気を取り、少しずつ真っ直ぐにしていく。そうするとまだ重たげな髪の隙間から、彼女の小さな耳が覗いた。耳たぶも薄くて狭めで、確かにそこに飾るなら小さくて控えめなデザインの方が似合うかもなと思う。あまり大きいのだと、重みですぐ落ちてしまいそうだ。

 大まかなイメージが浮かんだところで、

「ちょっといい?」

 僕は隣に座る彼女の、小さな耳に手を伸ばした。念のため、耳たぶの厚さを確かめておこうと思ったからだ。

 だけど僕の指先がかすめるかかすめないかのうちに、みゆがびくりと肩を跳ね上げた。

「ひゃあっ!」

 ついでにひっくり返ったような声も上げた。

 そして声の後にあわてて口を手で覆った後、おそるおそるといった様子で僕を見る。その目がかすかに潤んでいる。

「ごめん、びっくりした?」

 僕が謝るとみゆはぎこちなく顎を引く。

「い、いきなりだったから」

「そっか……ごめん。気をつけるよ」

「違うの、あの、篤史くんは悪くないんだけど……」

「けど?」

「ちょっと……くすぐったかった……」

 そう言って膝を抱えるみゆの頬は、湯上がりの火照り以上に赤くなっていた。湿った黒髪の隙間から覗く小さな耳まで、熟した果物みたいに真っ赤だ。

 それを見たら僕も、もう一度触れてみたくなった。

「みゆ」

「わああ、だめ! だめじゃないけどだめっ!」

 僕の指先をかわすようにいつになく機敏に立ち上がった彼女は、そのまま早足でリビングを出ていこうとする。

 逃げられた、と思いながら目で追うと、彼女は急に足を止めた。

 そしてやっぱりぎこちなく振り返る。おそるおそる、僕の反応をうかがうように。

「えっと……髪、乾かしてくるね」

「う、うん」

「だから、その……待ってて」

 最後の一言はまるで言い逃げみたいだったけど、みゆはそのままリビングを出ていく。


 リビングは静まり返り、エアコンの風の音が急に大きく聞こえ始めた。それに応じるみたいにドライヤーの音が重なって、なぜだかそわそわと落ち着かない気分になる。

 七月の夜。

 気づけば僕も少しだけ汗をかいていて、なんだか暑いなと思う。夏だから当然か。いや、それだけじゃないけど。

 だからエアコンの温度をもう少しだけ下げて、ドライヤーの音が止むのを待っていた。

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