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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
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ふたりの素敵な約束

「きゅ……休講!?」

 思わず声が出た。

 大学の授業に備え早めに家を出て、三限前に昼ごはんをと大学近くのカフェに入った。休講情報は家を出る前に確認していたからまったく油断していたけど、同じ授業を取っている友人からのメッセージでそれを知り、もう一度大学のサイトを確かめてみたら今度はしっかりと書いてあった。

 何度も何度も確認したけど、やっぱり休講としか書いてなかった。

「はあ……」

 僕はひとりでうなだれ、溜息をつく。


 先生がたにもご都合はあるだろうし誰が悪いという話でもないけど、せめてもう少し早く知ることができたらよかった。僕はもう家を出てしまったしカフェにも入ってしまった。これが一時間前のことなら、もう少し家でのんびりもできたのに。

 五限まで何もないと事前にわかっていたらやりたいことだってあった。

 そろそろ暑くなってきたから衣替えをしておきたかったし、引っ越してから試運転しかしていないエアコンを慣らしておきたかったし、扇風機もぼちぼち出そうかと思っていたところだ。あとは普段なかなかできないところの掃除とか、冷蔵庫の中身の整理とか、保存食作りとか――我ながら『やりたいこと』が生活感で溢れてる気もするけど、全部大事なことには違いない。僕がやっておいたほうが彼女も喜んでくれるし、とにかくそういうことを済ませて彼女に褒めてもらう機会もできたのに。

 かと言って今から家に戻るのもなんとなくおっくうだ。でも五限まで時間をつぶすのもさすがに楽なことじゃない。今日はバイトもサークルもないし、いっそ図書館にこもって学生の本分でもみっちり全うしてやろうか。

 そんなことを思った後、まだ呆然としながらカフェの窓を見る。

 外は雲一つない快晴で、春先にはあった風もだいぶ和らいできた頃合いだ。本日の最高気温は二十二度、過ごしやすい一日になるとニュースでは言っていた。

 時計を見る。

 現在の時刻は十一時十分。ふとひらめいた。


「すみません、急用ができてしまって」

 カフェの店員に詫びて、僕は注文もせずに店を出た。申し訳ないと思うけど用があるのは事実だからしょうがない。

 そして急いで、みゆにメッセージを送ってみる。

『休講で夕方まで時間空いた。今日、お昼一緒に食べない?』

 前に彼女から、勤め先のすぐ近くに公園があるという話を聞いていた。そこで一緒にお弁当食べたいな、という言葉ももらっていたし、僕はまだ彼女の会社で売られているお弁当を食べたことがなかった。彼女が働いている場所を見に行ったことさえない。

 だから、それを試すいい機会だと思ったわけだ。

 幸い今日は天気もいいし、外でお弁当を食べるのに支障なんてないだろう。あるとすれば彼女とタイミングが合うかどうかだ。僕のメッセージに気づいてからお弁当を持って外出するのが難しいようなら、せめて彼女の働いている場所だけでも見て帰るつもりだった。それでもいいと思っていた。


 返信を待たずにバスに乗り、まずは駅前へ向かう。

 それから電車に乗り換えて、行く先はもちろん彼女の勤め先があるオフィス街だ。僕にとってずっと通り過ぎるだけの駅だったけど、今日は初めて目的があって駅を降りた。

 この時点で時刻は十一時半過ぎ。みゆからの連絡はまだなく、今日の昼休憩は早番ではないんだろうと推測できた。

 黙って待っているのも手持ちぶさただし、かと言ってすぐ動けないのも困るから、僕は駅の中にあるコーヒースタンドに入った。店内はコーヒーの他、焼きたてパンのいい匂いがしていて、その誘惑に負けないようにアイスコーヒーだけを注文した。

 カウンター席の端が一つだけ空いていたから、滑り込むようにそこへ座った。

 僕以外のお客さんはみんな黒、グレー、ネイビーなどのスーツ姿で、コーヒーを飲みながら資料らしきものに目を通したりパソコンをいじったりとせわしない。

 それどころか、コーヒースタンド内から見える駅構内を行き交う人も、誰も彼もがスーツを着ていた。せいぜい上着を着ているか小脇に抱えているかの違いくらいだ。五分袖の春ニットに黒のスキニー、などというお手本のような学生カジュアルは僕だけだった。多少の居心地悪さがあったけど、僕と違い周りの人たちは紛れ込んできた大学生にかけらも興味はないようで、それはありがたかった。


 いつか僕もこんなふうに、似たような色のスーツを着てせかせか歩くようになるのかもしれない。

 冷たいコーヒーを飲みながら、ぼんやりとそんなことを思う。

 それはもう『いつか』ではなく、残りあと二年を切った未来の話だ。僕の前にもいよいよ就職活動のスタートラインが目視できるほどの距離で近づきつつあり、他人事のような感想を抱いている場合じゃない。それはわかっているつもりだ。

 だけど目の前を行く人々は早足で、迷いもなくどんどん歩いていく。僕もここまでは迷わずに歩いてこられたけど、この先はどうだろう。訳もない不安を覚えることもたまにある。


 とりとめもなく実もないことを考えながらコーヒーを飲んでいたら、ようやく携帯電話が鳴った。

 相手はもちろんみゆだ。

『篤史くん、こっちに来られる? お弁当と飲み物買っておくから』

 電話に出るなりそう言われて、僕は即座に答えた。

「いいよ。実はもう駅まで来てたんだ」

 僕の答えは彼女をほっとさせたみたいだった。声が一段明るくなって聞こえた。

『よかった、じゃあ少しゆっくりできる時間もあるね』

 それから彼女は僕に道順を口頭で説明してくれた。どうやら公園でそのまま落ち合うつもりらしく、彼女によれば駅からは徒歩十分ほどで着けるそうだ。

『向こうで待ってるね、もし道わからなかったら連絡して』

「ありがとう、じゃあまた後で」

 僕はお礼を言って通話を終えると、急いでコーヒースタンドを出た。

 みゆにはもっとたくさんお礼を言いたい気分だったけど――こんな思い付きの計画に快く乗ってくれたことも、貴重なお昼の休憩を僕と一緒に過ごしてくれることも。でもそういうことは会って、顔を見てから言えばいい。今は貴重な時間のために急ぐべきだった。


 背高のビルが建ち並ぶ通りを、僕はスーツの人々にも負けないくらいの早足で進んだ。

 ビルの壁面はどいつもこいつもくすんで見える色をしていたけど、ぴかぴかの窓ガラスには春の青空が映り込んでいて、なんだかきれいだと思った。

 目的の公園はそんなビルの森がふつっと途切れた中にあり、遠目には木々の足元に生えた下草みたいに見える。いくつかの木陰と芝生があり、ベンチがあり、そして入り口のアーチの下には立ち姿だけでわかる彼女がいる。

「篤史くーん」

 いつもより少しだけ控えめな声で、みゆが僕を呼んだ。

 近づいていくにつれ、どことなく恥ずかしそうな表情が見えてきた。


 それはたぶん、彼女が身に着けている服装のせいだろう。

 白い水玉ブラウスの上にくすんだ緑色のタイトなジャンパースカート、それが彼女の職場の制服だってことは僕も知っている。洗濯のために持ち帰ってきたことがあったからだ。

 でも着ているところを見るのははじめてで、なんというか、新鮮な驚きがあった。

 みゆを『社会人』としてこの目で確かめた、はじめての瞬間だった。


「似合うね、その制服」

 駆け寄るなり僕が言うと、彼女はいっそう恥ずかしそうに、羽織っていたカーディガンの襟元を引き寄せる。

「そ、そうかな? 実はこのブラウス、お店のロゴが入ってるの」

 言われてよく見てみたら、水玉模様だと思っていたブラウスはなんと店のロゴ模様だった。それで恥ずかしそうにしてるのか、僕は納得してしまった。

「急に誘ってごめん。都合、大丈夫だった?」

「全然! むしろすごくうれしかったな」

 僕の言葉にみゆは言い、小さく笑ってみせる。

「私も近いうちに篤史くん誘おうと思ってたから……もしかして、前に言ったこと覚えててくれた?」

「覚えてた。だから誘ったんだ」

 彼女に関わることはなんだって忘れがたい。

 でもこの約束は、忘れられないのではなく、覚えてなくちゃいけないものだと思っていた。

 僕が乗り越えるべき壁の一つだった。働いている彼女に会いに行くこと。

「じゃあ、ごはんにしようか?」

 制服姿のみゆが笑う。

 屈託のない表情はいつもと同じで、だけどいつもより大人に見えた。

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