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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
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ふたりの幸せ

 帰宅すると、みゆは早速ビーフシチュー作りを開始した。

 時間も時間だし、僕も手伝うことにする。といってもあまり手を出しすぎると彼女ががっかりしてしまうから、お願いされたことだけするのがポイントだ。


「じゃあ篤史くんは、ジャガイモの皮むきをお願い」

「了解」

 みゆの要請を受け、僕は流し台の前に立ち包丁を手に取る。

 その間、彼女は先に切っておいた玉ねぎを鍋で炒めはじめた。じゅうじゅうと威勢のいい音を立てながら、玉ねぎを菜箸で掻き回す横顔は思いのほか真剣だ。一瞬眉をひそめたのを見て、僕はそっと尋ねた。

「目に染みた?」

「うん」

 みゆが目をぎゅっと閉じ、何度かまばたきをする。

「玉ねぎって炒める時も染みるよね」

「硫化アリルが空気中に広まるからね」

「そうなんだ……眼鏡かけてたら平気なのかな」

 彼女はそう言うけど、実は鼻に栓をするほうが効果的という話だ。しかしそれを彼女に話したところで喜んで実行はしなさそうだし、僕もしてほしくはないので黙っておく。

「お料理って意外と大変だよね」

 痛みをこらえて玉ねぎ炒めを再開したみゆは、思い出したようにため息をついた。

「一食作るくらいならそうでもないけど、毎日継続して作るのってけっこうすごいことなんだって思った。うちのお母さん、がんばってたんだなって」

 みゆの家はお母さんがひとりで働き手を担っていて、さらに夕飯もよく作っていたらしい。おじいさん、おばあさんと一緒に暮らしてはいたけど、やっぱり食の好みや食事の時間が違うんだそうだ。みゆもよく手伝ったとは言っていたものの、大変なことに変わりはないだろう。

「篤史くんは自分でごはん作ってたんだよね」

「毎日ではないけどね。うちの両親、忙しい時は本当に忙しいから」

「それでもえらいよ」

 真面目な口調で褒められて、内心照れてしまった。


 実家にいた頃の僕の料理は、食べたいものを食べ、作りたいものを作るという感じで、バランスとかバリエーションとかいう単語とは無縁だった。野菜さえ摂っておけばいいだろうとばかりに野菜と肉炒めが三日続いたこともある。疲れて帰ってくる両親は、そんな献立に文句も言わず食べてくれた。

 二人暮らしを始めてわかったのは、誰かのために料理を作ることの難しさだ。

 彼女の体調を気づかうためにも栄養バランスは最優先で考えなくてはならないし、かといって彼女に飽きさせては食べてもらえなくなってしまう。いや、彼女もやっぱり黙って食べてくれそうな気はするけど、だからこそ無理はさせられない。僕の技量が及ぶ範囲でレパートリーを増やす必要があり、こっそりとレシピ本を購入したりもした。彼女に見られると気をつかわれそうだから、電子書籍で。


 おかげで今の僕は、基本的な料理ならひととおり作れるようになった。

 といってもまだレパートリーが豊富なわけじゃない。一週間ならともかく、一ヶ月分の献立を考えてと言われたら大いに悩んでしまうだろう。その程度だ。


「私も篤史くんくらい作れるようになりたいな」

 みゆが鍋に牛肉を投入しながら言った。

 ビーフシチューはごろごろのお肉で作るのが佐藤家のきまりらしい。これがけっこう食べ応えあっておいしい。

 彼女がまた真剣な顔で牛肉を焼きつけはじめたので、僕は皮をむいたジャガイモをまとめて電子レンジにかける。煮込みすぎて煮崩れしないための大事な工程だ。

 電子レンジが過熱を終えた頃、みゆはニンジンを炒めだした。

「そろそろ水用意しとく?」

「うん、お願い」

 彼女の了承を得てから、僕は計量カップに水を測る。ビーフシチューのルー半箱分。それを手渡すと彼女は鍋に水を注入し、蓋をして一息ついた。

「これでよし、しばらく煮込みます」

 指さし確認するみたいにそう言ったみゆの頬はすっかり真っ赤に上気している。ずっとガス台の前で炒め物をしていたんだから当然だろう。表情も未だに真剣そのもので、僕は笑わないようにするのが大変だった。かわいくて。

「でも、仕事の後に料理するのって疲れるだろ?」

 使った器具を洗いながら、僕は彼女に聞き返す。

「夕飯は僕が主に作るってことで、あんまり無理しなくてもいいんだよ。こっちは暇な学生なんだし」

 さらにそう言い添えたら、みゆはぶんぶんと首を横に振った。

「篤史くんだってバイトしてるし、サークルだってしてるじゃない」

「どっちも趣味みたいなもんだしさ……」

「それに篤史くんが働きはじめたら、帰る時間は私のほうが早くなるかもしれないよ。そしたら私がごはんを作らなきゃいけないもん」

 いけない、ってこともないけど。

 別に今までどおり僕が作ったっていいんだけど――まあ、こればかりは本当に就職してみないとわからないことだ。

 仕事の後にごはんを作るのがどれほど大変か、僕はまだ身をもって体験してはいない。


 大学三年になって、ぼちぼち就活の話題が周囲にも出始めた頃だった。

 僕も夏には企業のインターンシップに参加してみようと思っていて、今は情報収集の真っ最中だ。実際のエントリー開始は来年の話だけど、来年なんてきっとすぐにでもやってきてしまうだろう。

 僕が就職したら、この二人暮らしにも変化があるのは間違いない。

 それがいいものか、ちょっと困ったものになるかはわからない。まったく初めてのことをするんだから当然だ。もしかしたら夕飯作りなんてできないくらい、しんどい社会人生活が待っているのかもしれない。

 でも幸い、僕には社会人の『先輩』がいる。

 今はとりあえず彼女を見て、働きに出るってどういうことかを学んでおこうと思っている。


 三十分後、ビーフシチューはいい匂いと共にできあがった。

 ごろごろの牛肉と透き通った玉ねぎ、しっかり形のあるニンジンとジャガイモがふんだんに入った、とてもおいしそうな仕上がりだ。

 みゆが買ってきたパンと一緒に食卓に並べて、ふたりでまた差し向かいに座り、食べはじめる。

「わあ、よかった……おいしくできた!」

 一口食べて、みゆはむしろ安心したように胸をなでおろしていた。

「すごくおいしいよ、身体に染みわたるみたいだ」

 同じように食べてから僕が褒めると、彼女はくすぐったそうに首をすくめる。

「ありがとう、褒めてくれて。篤史くんに食べてもらいたくてがんばったんだ」

 みゆの言葉はいつだって素直で、ストレートだ。

 僕がまだつかみ切れていなかった自分自身の気持ちさえ、彼女はすんなりと形にしてしまう。

 結局は僕も同じ気持ちだったということだ。僕が自学してまで料理をする理由は、体調を気づかいたいから、飽きさせたくないから以上に、彼女に食べてもらいたいからだった。そしておいしいって言ってもらいたい。本当にシンプルな答えだった。

 だから僕も、就職したってやっぱり夕飯を作り続けるのかもしれない。

「誰かにごはん作ってもらえるのって、幸せだな」

 僕が思わずつぶやけば、みゆがぱっと表情を明るくする。

「じゃあ私、もっと作る! 明日も作ろうかな!」

「い、いや、無理はしなくていいよ」

 椅子から立ち上がらんばかりの食いつきに僕のほうがあわてつつ、きょとんとする彼女に告げた。

「作ってもらえるのと同じくらい、食べてもらえるのも幸せだからさ。だから僕はみゆの作ったごはんも食べたいけど、みゆに僕のごはんを食べてももらいたい。どっちも大切なんだ」

 すると彼女はすんなり納得したようだ。

 表情を柔らかく微笑ませて、言った。

「うん、私も。どっちも本当に、幸せだよね」

 ささやかなことだけど。

 どこの家でもやってるような、ありふれたことかもしれないけど。

 それでも僕らにとって一緒に食卓を囲む人ときは、かけがえのない、じっくりかみしめたい幸せのひとつだった。


「でも私、もうちょっといろいろ作れるようになりたいな……」

 おいしいビーフシチューを食べながら、みゆがふいにそう言った。

「私、シチューの他はカレーとハヤシライスくらいしか得意じゃないから。もっと本格的なのを作れるようになりたいな、和食とか!」

 ざっくりした目標の立て方が彼女らしくて面白い。カレーもある意味和食じゃないのかな、言わないけど。

 それからパンをかじる僕を見て、きりっとした表情で尋ねてくる。

「篤史くんはお料理、やっぱりお母さんに習ったの? それとも自分で覚えたの?」

「あー、それは……」

 ぎくりとして、僕は口ごもった。

 例のこっそり買った電子書籍、打ち明けたら百パーセント『私も勉強する!』って言うだろうな。僕としては働いてる彼女には無理してほしくないと思ってるんだけど、見せないのもなんか変な話だし。

 何より隠し事ができそうになくて、僕は正直に言った。

「実はレシピ本を買って勉強してるんだ。移動中とかにさ」

 するとみゆは目を見開いた後、たちまち無邪気な顔で笑ってみせた。

「篤史くんすごいね! 私も一緒に勉強したいな!」


 そんなに屈託なく言われたら、無理してほしくない気持ちさえ吹き飛んでしまう。

 それで結局、ごはんの後にふたりでレシピ本を見た。みゆに『これ作りたい、これもおいしそう』なんてにこにこ笑ってもらいながら――食卓だけじゃなくて、何でも一緒が幸せだった。

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