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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
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ふたりの待ち合わせ

 五限の授業が終わり、僕は大きく伸びをする。

 五限の必修はきつい。月曜一限と同じくらいきつい。でも文句を言うあてもないので、黙って凝り固まった首や肩をほぐしておいた。

 時刻は午後六時過ぎ。だいぶ日が長くなってきたとはいえ、窓の外はすでに真っ暗だ。ぼちぼち帰って夕飯の支度をしようと、僕は講義室を出る。

 廊下でいったん立ち止まって携帯電話をチェックすると、未読のメッセージが二件入っていた。


 一件目は三十分前に送られたもので、送ってきたのはみゆだ。

『今日は定時で上がれたから、晩ごはんは私が作るね。足りないものあるから駅前のスーパーで買い物して帰ります!』

 そんなうれしい知らせの後には、『帰ります』と唱えるうさぎのスタンプが連打されていた。それだけ定時上がりが喜ばしかったのか、単なる操作ミスか。どちらにしてもかわいい。

 今日の夕飯は彼女が作ってくれるようだ。となると今夜のメニューはカレーかシチューか、ハヤシライスか――とにかくそれ系のものに違いない。

 返事を打つ前に二件目も確認しておく。

 悪い知らせがないとも限らないからと開いた画面には、『サークル』の文字が記されていた。所属するバスケサークルのグループあてに送られた連絡だ。

 回覧メッセージの文面はこうだった。

『本日は新歓の労をねぎらうお疲れさま会を開きます! 新入部員に楽しんでもらうための和気あいあいとした飲み会です。ふるってご参加ください!』

 恒例の詐欺飲み会か、と僕はこっそり苦笑する。


 僕が所属しているのは大学のバスケサークルだ。

 バスケ部に入って本格的にやるほどでもないけど、バスケサークルの皮をかぶった飲みサーイベサーは勘弁という有志が集まるサークルで、週二、三日くらいのペースで活動している。僕はブランクがあったとはいえ経験者だからどうってことない練習量だけど、思ってたのと違うとばかりにやめていく人もけっこう多いのが特徴だった。

 そんなやる気のある奴向きのサークルではあるものの、春先になると一気に飲み会が増える。

 なぜかというと、さっきの回覧文が答えだ。

 新歓でアットホームな雰囲気を装い新入部員やお試し入部員を獲得した後、いきなり本気の練習を始めると逃げられてしまう。そこで春のうちはいかにも飲み会好きの交流好きなサークルという体で持っていき、徐々に練習量を増やしていくという手口だ。夏の終わり頃には試合後以外に飲み会なんてしなくなるし、その頃には新入部員たちもサークルの真の姿に気づいていることだろう。

 僕としては逆効果じゃないかって気もするけど。最初からガチ勢向きで募集かけておけば、出会い目当て飲み目当ての輩が来なくていいと思うんだけど、先輩が言うにはそれをやって新歓が閑古鳥だったことがあるそうだ。勧誘も楽じゃない。


 さて、何と言って返信しようか。

 僕は飲み会が嫌いじゃない。友達に誘われたらバイト終わりでも顔を出すようにしてるし、サークルでもなるべく付き合うようにしている。個人的にあまり飲むほうではないけど、酒が入ってぐだぐだしていく場の空気を見ているのは楽しいし、苦痛だと思ったこともそれほどなかった。

 でもそれはあくまで、飲み会を単体で見た場合の話だ。

 みゆと過ごす時間と比べたら――って、比べること自体がそもそもおかしい。彼女と二人でいられる時間は何物にも代えがたく、ましてや今日の夕飯は彼女の手作りだ。飲み会どころかちょっとした寄り道さえもったいない。

 というわけで、僕は迷わずこう打った。

『すみませんが不参加です。今日は彼女が夕飯作ってくれるんで』

 すると送信後一分もしないうちにみるみる既読がついて、僕の後には他のメンバーからのメッセージが続々と並んだ。

『参加します。山口は死刑』

『不参加ですが死刑には賛成』

『山口ってどこ住んでたっけ? ごちそうになりに行っていい?』

『じゃあ二次会は山口の部屋で』

 途中から趣旨が完全に変わっている。死刑まで言うか。でもまあ、このくらいの理由でも飲み会出なくていいサークルだって、新入部員に知ってもらえるのはいいことじゃないかな。

 みんなにアパート教えてなくてよかったなと思いつつ、僕は通知が鳴り続くグループのページを閉じた。

 代わりに、今度はみゆにメッセージを送る。

『今講義終わったとこ。まだ駅前にいるなら合流しよう、荷物持つよ』

 するとすぐに居場所を知らせる返信があって――僕はいても立ってもいられなくなり、早足で大学を出た。


 社会人になったら、飲み会がつらくなるという話を聞いたことがある。

 いち早く社会に出た先輩がたは口をそろえてそう言うし、みゆも職場の飲み会が大好きだというほどではないらしい。同僚やパートの人だけならともかく、店長や本部の人まで同席しているとけっこう気をつかうんだそうだ。

 僕も社会人になったら同じように思うんだろうか。思うだろうな、昔から上下関係のわずらわしいのはちょっと苦手だ。そういう時、今日みたいに『彼女が待ってるんで』って言ったら聞いてもらえるかな。さすがに彼女じゃ無理かな。

 でも『妻が』だったら、いかに職場と言えどいけそうな気がする。

 想像してみて、その単語のむずがゆさに我ながら照れた。まだ気が早いにもほどがある。なんだかしかつめらしい印象もあるし、当たり前だけど言い慣れない。

 それでも、いつかは言いそうな気がする。

 社会人になった僕は今日みたいな調子で飲み会を早抜けして、彼女の元へ急いで帰ろうとするだろう。ふたりで過ごす時間は何物にも代えがたい。きっとそれは、この先何年たっても同じだ。


 メッセージで教えてくれたとおり、みゆは駅前のスーパーにいた。

 自動ドアのセンサーに引っかからないよう、入り口から少し離れたペットボトル回収箱の前に立っていた。朝と同じベージュのコートとワンピース、それにローヒールの革靴。表情は少し疲れていたけど、僕を見つけるなりうれしそうに笑顔をはじけさせた。

 その顔を見たら、やっぱり飲み会なんて出てらんないなと強く思う。死刑でも構うもんか。

「篤史くーん、こっちこっち!」

 重そうな買い物袋をわざわざ掲げてみせる彼女に、僕も授業終わりの疲れなんて忘れて、全速力で駆け寄った。

「ごめん、待った?」

 尋ねると、みゆは大きくかぶりを振る。

「全然だよ! すぐ来てくれたからびっくりしちゃった」

 だけど頬は寒さで赤くなっていた。日中はあんなに暖かかったのに、今は夜風が少し冷たい。

「実はけっこう急いだ。日が落ちたら冷えてきたからさ」

 会話を交わしつつ、僕は彼女から買い物袋を受け取る。

 ずしりと重いその中身はジャガイモ、玉ねぎ、にんじんに牛肉――予想どおり、今日の夕飯はカレーかハヤシライスと見た。牛肉だからシチューではなさそうだ。

「今日の夕飯、何?」

 僕が尋ねると、みゆは少し得意げにしながら答える。

「ビーフシチュー! 寒いからちょうどいいよね?」

 予想が外れちゃったな。ちっとも悪い気しないけど。

「ビーフシチューか、温かくていいな」

「きっとおいしいよ。あ、私が上手に作れたらだけど」

「そんな心配してないよ」

 みゆはレパートリーこそ少ないものの、決して料理が下手なわけじゃない。たまに作ってもらえる夕飯を、僕は密かに心待ちにしているほどだ。

「それとね、こないだのパン屋さんでパンを買ったの」

 彼女の言葉に買い物袋を覗けば、一緒にパン屋の袋が入っているのも見えた。この店名には見覚えがある。

「日曜に行ったとこ? あの店もおいしかったもんな」

「うん」

 みゆはうなづき、それから楽しげに言い添える。

「それにビーフシチューにはパンじゃない?」

「確かに。うわ、話してたらお腹空いてきたな」

 思わずお腹をさすった僕に、彼女は屈託なく笑ってみせた。

「じゃあ急いで帰ろ。おいしく作れるよう、がんばるね」

 だから、心配なんてしてないったら。


 僕らはスーパーの前を離れ、バスに乗って帰ることにした。

 あいにくの帰宅ラッシュで車内はそこそこ混んでいたけど、並んで吊革に掴まって、ふたり揃って夕飯を楽しみにしながら帰った。

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