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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
82/115

ふたりの夜

 夜九時にバイトを終えて徒歩二十分の道のりを帰ってくると、部屋で人心地つく頃には十時を過ぎてしまう。

 僕はこの二人暮らしにおいて、なるべくなら規則正しい生活を送りたいと思っていた。できれば日付が変わる前には寝てしまいたかったし、就寝二時間前にアイスみたいな甘いものを食べるなんてもってのほかだ。

 でも、ときどきはそのルールを破ることがある。


 帰ってきた僕らは、ダイニングに置いたソファーの上に並んで座った。

 そして溶けかけのアイスを大急ぎで食べることにする。僕のバニラアイスは容器の側面がふにゃふにゃになっていたし、みゆの紅茶アイスも袋に張りついていてきわどいタイミングだった。あわててスプーンで口に放り込むと、味は問題なくおいしい。

「アイスは溶けかけがおいしいって言うしね」

 みゆはあくまでポジティブだ。もしかしたら本心から言ってるのかもしれないけど。

 新作だという紅茶アイスはちゃんと、といったら変かもしれないけどミルクティーの色をしていて、隣に座っているとそこはかとない紅茶の香りもした。バータイプの紅茶アイスって珍しいから、実は僕も気になっていた。みゆが幸せそうにかじっているのを見ていると、ますますその味が知りたくなってくる。

「みゆ、一口ちょうだい」

 僕がねだると、彼女は笑って紅茶アイスを差し出してきた。

「いいよ、どうぞ」

 手渡ししてくれるんじゃなくて、そのままかじっていいよという距離感だった。

 さすがにちょっと恥ずかしかったけど、わざわざ『手渡してくれ』と言うのも悪い。僕は身を乗り出してアイスにかじりつく。みゆがそっと手のひらを差し出し、アイスがこぼれないように気づかってくれた。

「……タピオカ入り?」

「そう! おいしいよね、もちもちしてて」

「そうだね、確かに」

 紅茶の味もしっかり濃厚だし、今回の新作は当たりみたいだ。次にアイスを買う時は僕もこれにしようかな。

 紅茶アイスを飲み込んだ後、僕も一応聞いてみる。

「バニラも食べる?」

「食べる!」

 みゆは即答だった。

 どうしようか迷ったけど、彼女にああしてもらった以上、スプーンとカップを手渡して――というのもそっけない気がする。

 それで僕はスプーンでバニラアイスを一口分すくい、彼女の口元に差し出した。

「はい、どうぞ」

 だけど彼女は急に照れたようで、僕が持つスプーンを見てはにかんだ。

「あ、ありがとう」

 お礼を言いつつ、伏し目がちにスプーンをくわえる。そしてバニラアイスを飲み込むと、やっぱり恥ずかしそうに僕を見上げた。

「おいしいね。でも、食べさせてくれるとは思わなかったな……」

 その言葉にはむしろ僕のほうが動揺した。

「い、いや、みゆが先に差し出してくれたからさ。そうしたほうがいいのかと」

「棒アイスとカップアイスは事情が違うよ」

「そうかな。恥ずかしさは一緒だと思うけど」

 むしろ顔を近づける必要があるぶんだけ、棒アイスのほうが照れると思う。というか、横着せずお互い手渡せばよかった話じゃないのか。こんなにどぎまぎするくらいなら。

「なんか……」

 みゆが前髪をいじりながらつぶやく。

「新婚さんってこんな感じかな、って思っちゃった」

 またそういうことを考えもなしに言う。

 こっちは『そうだね』とも言えず、かと言って否定をしたい気分でもなく、妙に落ち着かない気分でアイスの続きを食べるしかなかった。

 みゆも自分で言って照れたのか、その後は頬を赤くしたまま黙ってアイスをかじっていた。

 リアル新婚さんがどんなものかを僕らはまだ知らないけど、きっとこんなにもじもじしてはいないだろう。食べさせあったりもしないに違いない。そう思うと、かなり恥ずかしいことをやってしまったものだなと――これについてはもう考えないようにしよう、あとで思い出し赤面しそうだから。


 アイスを食べ終えると、僕はひとりでバスルームに向かった。

 コンビニではホットスナックの揚げ物のせいで油の匂いが染みついてしまう。みゆは『おいしそうだよ』ってフォローらしいことを言ってくれるけど、僕としては不本意なのでなるべく洗い流すようにしていた。

 洗った髪に軽くドライヤーをかけ、半乾きくらいで切り上げた。パジャマにしているスウェットのセットアップを着て、それから部屋に戻る。

 するとまだソファーにいたみゆが、ぱっと振り向きうれしそうに笑った。

「おかえり、篤史くん」

「ただいま」

 バスルームに行ってきただけ、たったそれだけでも彼女は『おかえり』を言ってくれる。

 バイトの後もそうだったけど、僕が姿を見せただけでこんなにも喜んでくれる子は世界で彼女だけだろう。そのことがくすぐったくも、うれしくもある。

 僕はいい気分で彼女の隣に腰を下ろした。

 そのままみゆの笑顔を見ていたら、やがて彼女は怪訝そうに小首をかしげる。

「篤史くん、にこにこしてるね。いいことでもあった?」

「うん」

 うなづいて、僕は答えた。

「いい夜だと思ってさ」

 バイトも終わって、おいしいアイスを食べて、ひとっ風呂浴びて、隣にはかわいい彼女がいて――こんなふうに静かで穏やかな夜に、みゆが隣にいてくれるのがいい。


 実家にいた時はこんな夜をひとりで過ごすことも多かった。

 親がいなくて寂しいなんていう歳でもなかったし、ひとりも気楽でいいこともあったけど、二人暮らしを始めてみてわかった。誰かといるのもいいものだ。

 ましてや彼女と一緒なら。

 どこかへ出かけた帰り道、時計を気にしながら『もうお別れだ』って思わずに済む。次に会えるまでの待ち時間をどうやり過ごそうか、頭を悩ませることもない。日常のちょっとしたうれしいこと、楽しいことをすぐに共有できるのもいい。

 二人暮らしを始めて、本当によかったと思う。


 できたら彼女にも、同じように思っていてほしいんだけどな。

 期待を込めて視線を送れば、みゆはにっこりしてこう言った。

「そうだね、土曜の夜っていいよね」

「……曜日、関係ある?」

「あるよ。日曜の夜はやっぱりちょっと憂鬱になっちゃうもん」

 それはまあ、僕もそうだけど。

 日曜の夜は楽しい週末の終わりを感じて無性に寂しくなってしまうし、月曜の朝はこれから始まる一週間のことを考えて、どうしたって気が重い。こればかりは社会人も大学生も同じだろう。平日は彼女のほうが帰りが遅いから、朝と夜しか会えないことを少し物足りなく感じてしまうこともある。

 その点、土曜日の夜は格別だ。

 まだ明日があるって思える。明日もみゆとたくさん過ごせるって思うからだ。

「篤史くん、明日は何か予定ある?」

「特にないかな。みゆは?」

 聞かれた僕が問い返すと、彼女は目を輝かせながら答える。

「私もないけど……何にもないなら、行ってみたいところがあるんだ」

「いいよ、どこ?」

「駅前に新しくできたパン屋さん。すごくおいしいって職場の人に聞いたの」

「僕も店の前は通ったよ。イートインもやってるとこだろ?」

「うん、カフェが併設されてるって。ちょっと偵察してみようよ」

「偵察か、いいね。明日のお昼はそこにしよう」

 明日の予定について話す、この他愛ないやり取りがそれだけで楽しい。わくわくする。

「それなら明日は早めに起きたほうがいいかな」

 僕は壁掛け時計を見る。

 いつの間にやら日付が変わる五分前になっていて、規則正しい生活主義者である僕としては、ぼちぼち寝るべきだと思う。今朝はしっかり寝坊してしまったけど、明日は寝坊したらお昼のパンが美味しく食べられなくなるかもしれない。

「そうなったら、おやつに食べたらいいんだよ」

 でも、みゆが屈託なくそんなことを言うから。

 僕も、まあ休日だしいいか、なんて手のひらを返してしまう。

「明日も寝坊する?」

 そう尋ねたら、みゆはこてんと僕の肩にもたれかかってきた。

「するかも。お休みの日の二度寝って気持ちいいよね」

「予告二度寝っていうのも斬新だな……」

「二度寝は自発的にするほうが楽しいよ。そうじゃないとあわてて起きることになるよ」

 まったく、ごもっとも。

 それなら今夜ものんびりするかと、僕は時計を見るのをやめ、代わりに彼女を見ていることにした。

 みゆも僕に寄りかかったまま、幸せそうな笑顔を向けてくる。頬をほんのり染めていて、瞳には照明の光がきらきらと映り込んでいる。下ろした髪はすっかり乾いていたけど、シャンプーのいい匂いは今でも確かに感じ取れた。


 本当に、いい夜だ。

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