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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
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ふたりの帰り道

「ありがとうございましたー」

 そう声をかけたお客さんは振り向きもせず、黙って開いた自動ドアをくぐる。

 外はすでに真っ暗で、昼間みたいに明るい店内とは別世界みたいだ。今、何時だっけとレジ後ろの壁かけ時計を振り返ったら、あと十五分で十時になるところだった。バイト終わりまであと十五分、とちょっと。

 ちょうど客が途切れたタイミングのようで、店内には品出し中の店長の姿しかない。頭上を流れるのはコンビニチェーンのコマーシャルソング、かれこれ二年も聴き続けてる。おかげで息継ぎのタイミングまで完璧だ、歌う機会なんてないけど。


 このコンビニは住宅街の真ん中にあって、僕が通う大学からもほど近い。

 もともとはサークルの先輩が勤めていた店で、バイトを探しているならと紹介してくれた。だけど僕が働きはじめて一ヶ月で先輩は辞めた。どうやら身代わりのいけにえが必要だったらしい。

 ここのバイトはブラックとまでは言わないけど、決してホワイトでもない。常に人手不足で週五のシフトを組まれたこともあるし、『山口くんって朝と夜入れる?』などと聞かれたこともある。その時はさすがに断ったものの、以降もちょくちょく入ってほしいオーラを出されているので、お金が欲しい時だけ手伝うようにしている。

 でもまあ、なんだかんだで二年続いてる。大学から近いおかげで友達もよく来るし、高校時代のクラスメイトたちがやってきて、レジ打ちの合間に近況報告をしたりもする。彼女と同棲してることを言ったらだいたい冷やかされる。もうお互い二十歳なんだし、早いも何もないと思うけどな。


 シフトが替わる時はレジの仮点検を行う決まりだ。十時からのシフトに入るのは誰だったっけ、とりあえず準備だけでもしておくか――早く帰りたい僕がコインカウンターを取り出した時、自動ドアの開く音がした。

「いらっしゃいませー」

 条件反射みたいに声をかけてから、はっとする。

 入り口に現れたのは彼女だった。顔を見る前に歩き方だけでわかった。部屋着にしているボーダーワンピースの上にスプリングコートを羽織り、長い髪を結ばず下ろしている。

「あ」

 彼女もレジに立つ僕に気づき、安心したような笑顔を見せた。

『あつしくん』

 声に出さず口の動きだけで呼んできたから、他にお客さんがいないのをいいことに話しかけておく。

「買い物?」

「うん。お風呂入ったら急にアイスが食べたくなって」

 その言葉どおり彼女は湯上がりで、化粧は一切してなかったし、髪もまだ半乾きでつやつやしていた。

 僕は思わずコンビニの窓から外を見る。街灯の明かりがともる夜道はそれでも薄暗くて、こんなところをひとりで歩いてきたのかと思うと心配になる。買い物があるなら連絡だけしてくれたら、僕が買って帰るのに。

 こちらの心中にはまったく気づかず、みゆは笑顔で手を振ってくる。

「アイス選んでくるね。何か食べたいものある?」

「……バニラアイス、メーカーは任せるよ」

 僕が小声で答えると、彼女はうなづいてアイスのコーナーへ向かった。スプリングコートの裾をひらひらさせながら。

 それを追わないように視線をそらしたら、品出し中だったはずの店長がこっちを見ていた。うわ。


 みゆがこのコンビニに、僕の勤務中に現れたのは初めてじゃない。

 むしろ週に一度はやってきて、アイスやゼリーや飲むヨーグルトなんかを買っていく。

 僕らのアパートからは徒歩二十分ほどのこのコンビニ、住宅街だから夜になると人通りは少なくて、僕としてはあんまり夜に出歩いてほしくない。夜のシフトの時は買い物ならして帰るよと言ってあるけど、それでも彼女は店に来る。

 そんな彼女を、僕もなんだかんだで強く止めることができない。


 事前に買うものを決めていたのか、みゆは五分もしないうちにレジへ戻ってきた。

「お願いしまーす」

 そう言ってカウンターに置いたのは僕用のバニラアイスと、この春新作の紅茶アイスだ。彼女はここの電子マネーカードを持っていて、僕が尋ねる前にポケットから取り出してみせる。

「これで払います!」

「かしこまりました」

 レジではお互い敬語というのが僕らの暗黙のルールだった。

 みゆとしてはあくまで『私はお客さんの一人です』という体でバイト中の僕と接したいらしい。こんなに愛想のいいお客様なんて他にはそうそういないけど――まさに神様だなと思いつつ、僕は二つのアイスをレジに通す。

 会計の後でアイスを袋に詰め差し出すと、みゆはにこにこしながらそれを受け取った。

「ありがとうございます!」

「……ありがとうございました」

 なんというか、彼女に限った話じゃないけど、顔見知りとコンビニの店員らしく接するのは妙に気恥ずかしい。授業参観に親が来たみたいな切り替えの難しさがある。

 もやもやする僕をよそに、みゆは口の横に手を当てて声をひそめた。

「お店の前で待ってるね」

 いいけど、アイス溶けちゃわないだろうか。

 この夜道をひとりで歩かれても困るし、待っててくれた方が僕としてはいいんだけど。

 彼女がコートの裾をひるがえして店を出ていくと、待ち構えていたように店長が声をかけてきた。

「山口くん、彼女来てたでしょ」

「ええ、まあ」

 冷やかすような笑みを向けられ、僕はあいまいにうなづく。

 こういうやり取りもまた授業参観っぽさがあるなと思っていたら、ありがたいことに次のシフトの人がバックヤードから姿を見せた。


 レジ点検と引き継ぎを手早く済ませ、あわただしく着替えを終える。

 そしてコンビニの前まで飛び出していくと、みゆは傘立ての横に立っていた。がらんとした駐車場を眺める横顔はどこか寂しそうで、そのくせ僕に気づくとすぐ満面の笑顔になる。

「篤史くん、お疲れ様!」

「ごめん、お待たせ」

 僕も急いで駆け寄って、彼女の手からコンビニの袋を受け取った。

「大丈夫、全然待ってないよ」

 みゆはそう言って笑うけど、実質二十分は待たせている。店の窓からあふれてくる眩しい光が彼女を照らしていて、化粧をしていない顔を透き通るほど白く見せていた。

「寒くなかった? お風呂上がりなんだろ?」

「コート着てるから平気だよ」

 彼女の言葉を疑うわけじゃないけど、僕はコートの裾からはみ出ていた指先をそっと握る。

 やっぱり少し冷たくて、すぐ温めるようにつなぎ直した。

「じゃあ急いで帰ろう」

「うん、アイス溶けちゃうもんね」

 僕が言うと、みゆがうなづく。

 店で僕を見つけた時みたいに、ほっとしたような、うれしそうな表情だった。


 みゆはよく僕のバイト先にやってくるけど、僕自身はみゆが働く姿をまだ見たことがない。

 僕より早く社会人になった彼女に対し、以前の僕は焦りみたいな感情を抱いていた。彼女が一足先に大人になっていくのは決して悪いことじゃないのに、どうしてか『見るのが怖い』と思った。彼女の勤め先は教えてもらっていたけどまだ行ったことがない。

 大学入って早々にバイトを始めたのは、もちろんお金欲しさもあるけど、みゆに置いていかれたくないって気持ちがあったから、かもしれない。

 彼女は何のためらいもなくバイト中の僕を訪ねてくるから、気持ちの面ではまだだいぶ置いてかれてる。いつか追いつきたい。そんなことを、彼女には内緒で考えている。


 僕らは手をつないで、同じ帰り道を歩いた。

 隣を歩くみゆの、乾きかけの髪が夜風にふわふわ揺れている。シャンプーのいい匂いが漂ってくると、これから同じところに帰るんだって実感する。

 点在する街灯が道に描いた光の円を、僕らは点つなぎみたいにたどっていく。その先にある僕らの部屋を目指して、少しだけ早足で、でもお互いに歩幅を合わせて進む。帰ったら溶けかけのアイスをふたりで一緒に食べようと思う。

「あ!」

 やがて道の向こうにアパートが見えてくると、みゆが小さく声を上げた。

「電気、つけっぱなしで来ちゃった……」

 彼女の言葉を証明するように、アパートの二階、僕らの部屋の窓にはカーテンを透かす明かりがともっている。

 みゆは気まずそうだったけど、僕は気にせず笑っておいた。

「そういうこともあるよ」

 明るいところに帰っていくのが幸せだってこともある。

 今日はそんな気分だったから、ちょうどよかった。

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