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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
79/115

ふたりの食卓

 十時過ぎに起床した僕たちは、遅い朝食の準備を始めた。

 朝のメニューはだいたい決まっている。トーストとレタスのサラダ、それに目玉焼き。

 前の晩に作ったスープなんかが残っている時はそれをつけるし、みゆが『食べたかったんだ』なんて言って市内でも有名なベーカリーのパンを買ってきたこともある。でも週に五日はいつものメニューだった。

 目玉焼きを作るのは主に僕の役目だ。僕もみゆも料理の腕はそれなり未満といったところだけど、実家で自炊する機会が多かったぶん、僕のほうが料理に慣れている。少なくとも二人暮らしを始めてから、目玉焼き作りを失敗したことなんてない。


 フライパンを温めて、油をひいてから卵をふたつ割り入れる。

 白身がじわじわ固まってきたら弱火にして、黄身が安定してきたらひとつだけひっくり返して蓋をする。僕はサニーサイドアップ派だけど、みゆは黄身が固いほうが好きだからターンオーバー派。どちらも同じくらいに仕上がるよう、タイミングを計る必要がある。

 目玉焼きに火を通している間に、僕はレタスをちぎってトマトと一緒に洗っておく。

 そんな僕の隣で、みゆが飲み物を用意している。これは毎朝の彼女の役目で、いつも僕のために温かいコーヒーを入れてくれる。彼女自身は冷たくてすっぱいオレンジジュース派だから、そのひと手間がちょっと申し訳ないなと思うこともある。

「気にしないで」

 みゆはそう言ってにこにこ笑った。

 僕がフライパンから離れている間にやかんでお湯を沸かしている。僕たちのキッチンはふたりで立つには少し狭いから、こんなふうに譲りあう必要があった。

 それでもガス台前の彼女と流し台前の僕は一メートルと離れていない距離にいて、隣を向けば少し楽しそうな横顔が目につく。

「私のほうこそ、いつも篤史くんに目玉焼き作らせて悪いなって思ってるの」

「悪くないよ。僕が好きでやってることだし」

 僕が反論すると、彼女はうれしそうに目を細めた。

「じゃあ私も。好きでやってることだよ」

 その言葉には言い返せず、結局は僕もつられて笑う。

「いつもおいしいコーヒーをありがとう」

「こちらこそ、おいしい目玉焼きをありがとう!」

 ふたりでそんなことを言いあってるうちにお湯が沸き、僕のマグカップにコーヒーが入る。みゆのグラスには見るからにすっぱそうな発色のオレンジジュースが注がれ、飲み物の用意ができあがる。

「あ、オレンジもうない。今日買ってこないと」

「ちょうど買い物出る予定だったし、忘れず仕入れとこう」

 みゆはオレンジジュースが好きだからね。そう付け足すと、彼女は意気揚々とうなづいた。

「朝にオレンジジュース飲むと元気になれる気がするの。すっぱいのって身体によさそうだし、何かに効きそうだなあって」

 実際何に効くのかはどうでもよさそうな口ぶりがおかしい。でも酸味が効きそうっていうのは僕にもなんとなくわかる。僕も何に効くのかはちっともわからないけど、みゆがいつもにこにこ元気なのはオレンジジュースのおかげなのかもしれない。

「トースト焼いていい?」

 カップとグラスを持って食卓に向かうみゆが、振り返って尋ねてきた。

 僕は空いたガス台の前へ戻りながら応じる。

「いいよ。目玉焼きももうできあがる」

「はーい」

 彼女の明るい返事を聞きながら、フライパンの蓋を開けてみた。

 ふわっと上がった湯気の向こう、ふたつの目玉焼きは端がカリカリに焼きあがっている。片方は黄身がぷるっとしたサニーサイドアップ、もう片方はしっかり固まったターンオーバー。我ながら今朝もいい出来だ。

 食卓からはトースターのタイマーが立てるちりちりという音がする。パンの焼けるいい匂いにコーヒーの香り、それに卵の焼けた匂いが混ざると、たちまちお腹が空いてきた。


 ダイニングテーブルの上にひととおりの食事がそろうと、僕と彼女は食卓に着き、一緒に手を合わせる。

「いただきます」

「いただきまーす」

 テーブルは僕の実家にあった二人用のもので、たとえばフルコースの食事を並べるには狭いだろうけど――そんなの作れやしないけど、普段の食事なら十分な広さだ。

 ただ隣あっては座れないから、僕とみゆは差し向かいで食事を取る。

 僕の目の前で彼女はターンオーバーの目玉焼きをトーストの上に載せ、軽く塩を振ってから、ぱくっとかじりついた。その瞬間に目が合って、みゆは一度まばたきをしてから照れたように笑う。

 実を言えば、差し向かいの距離感にはまだちょっとだけ慣れていない。隣にいれば盗み見も簡単だけど、向かい合って『見てるのに見てないふりをする』のは難しい。それでも僕はふとした時に彼女の顔ばかり見てしまって、むやみに恥ずかしがらせてしまう。

「どうしてじっと見てるの?」

 みゆは僕に尋ねつつ、口の周りを指先であわてて払った。パンくずがついていると思ったのかもしれない。

「いや、なんでもないんだけど」

 僕はごまかすために首をすくめた。

「ほら、いつもその食べ方してるなって思ってさ」

「これ?」

 彼女は目玉焼き載せトーストを指さす。

 それから少しはにかんで、

「実はこれ、ずっと憧れだったの」

 と言った。

「憧れって?」

「こういうふうにトースト食べてみたかったんだ。でもうちではお行儀悪いからだめって言われてて」

 そこで彼女は何かを思い出したようにしゅんとする。

「うちの目玉焼きも黄身が半熟なの。それで私が無理にパンに載せたから、かじりついたら黄身がこぼれてお洋服やテーブルを汚しちゃって……」

 確かに、とろとろの半熟じゃトーストに載せて食べるのは難しいかもしれない。何歳の時の話かは知らないけど、怒られて今みたいにしゅんとしている彼女は不思議と想像がついてしまう。

「だから篤史くんにはいつも固焼きをお願いしてたんだ」

 みゆはそう言って、僕に向かって両手を合わせてきた。

「ごめんね、勝手なお願いで」

「いいよ、このくらい手間でもないし」

 そりゃまあ、どっちも同じ焼き加減のほうが楽と言えば楽だ。仮にどっちかを失敗したときも『こっちは僕が食べるよ』って言えるし。焼き加減が違うとそうもいかないから、ひっくり返す際はけっこう気をつかう。

 でもそれが彼女の憧れっていうなら、ちょっと叶えてあげたい気持ちになるじゃないか。あのひと手間だって惜しくはない。

「それにしても、変わった憧れ持ってるんだね」

 変わったというか、生活に密着するレベルのささやかさというか――何にせよ彼女っぽいなと思っていたら、みゆはますます恥ずかしそうに目を伏せた。

「映画で見たの。女の子が男の子に朝ご飯を作ってもらって、ランプの明かりで一緒に食べるの。それがトーストの上に目玉焼きを載せたもので、ほんの短いシーンなんだけどそれがすごくおいしそうに見えて……」

 話を聞くとすぐ思い当たった。その映画は僕も見たことがある。

「空から女の子が降ってくるやつ?」

「そう! その映画の!」

「あれだったのか。確かに食べてたな、目玉焼き載せたパン」

 子供の頃に見たきりだからストーリーはうろ覚えだけど、パンを食べるシーンがあったのはなんとなく覚えていた。悪者から逃げて地下に潜った後、だったかな。

 だけどそれをリアルで再現したいって思うのは、そしてそれを憧れにしてるのは、いかにも彼女らしいなと感じる。

「おいしそうだったよね。だから大人になったら絶対試そうって思ったの」

 すでに二十歳、成人済みのみゆが目をきらきらさせて語る。

「そしたら本当においしかったから、毎日食べても飽きないなって……もちろん、篤史くんのお料理が上手だからもあるけど」

 その屈託のなさはやっぱり高校時代と何も変わらない。微笑ましい。

「こんなものでよければ、いつでも作るよ」

「ありがとう!」

 快く応じた僕にお礼を言って、みゆはまた食事を再開する。

 僕は差し向かいの距離からそれを見る。


 あの映画に出てきた女の子はどんな子だっけ。それすら僕はうろ覚えだけど、みゆがパンを食べる様子を見て、こんな感じだったかもなと思ってみる。

 小さな口でゆっくりゆっくり、味わうようにパンをかじる。その上の目玉焼きも一緒に、睫毛を伏せて少しだけ微笑みながら、とても幸せそうに――そしておいしそうに。

 こんなふうに食べてもらえるんだったら、明日からも目玉焼きづくりをがんばらないとな。


 彼女を眺めながら、僕もいい気分でコーヒーをすする。

 するとマグカップの縁の上で彼女ともう一度目が合って、みゆがびっくりしたようにまばたきをした。

「えっと……やっぱり、ついてる?」

 口の周りを払うしぐさに、僕はあわてて否定した。

「大丈夫。おいしそうだなって思ってただけだから」


 差し向かいの距離感にはまだ慣れてない。

 彼女をつい見つめてしまう癖、せめて本人に気づかれないようにしないと。

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