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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
卒業後の話
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やまぐちあつしとさとうみゆき

 今年度の終わりまで、気づけば二ヶ月を切っていた。

 この終わりは僕と彼女にとって重要な意味を持っている。

 なぜかというと来年度から、僕らは一緒に暮らし始めると決めていたからだ。

 そうして迎えた二月十四日は、僕と彼女が親元で迎える最後のバレンタインなのかもしれない。


 さすがに今年は宅配されてくることもなく、ちゃんと会って、手渡しにしてもらった。

「これ、手作りなんだけど……」

 みゆが差し出してきたのは、確かに手作りにしか見えない品だった。

「チョコも作ったんだけど、それだけじゃ足りないかなって思って。これから必要になるものでもあるし、思い切って自分で作ってみたの」

「そ、そっか……」

 そして僕は反応に困る。


 彼女がその独特ともいうべきセンスを発揮したことは、これまでにも何度もあった。

 高校時代にはフォンダンショコラを冷凍して、しかも宅配便で送ってきたし、二人で小旅行をするとなったら冷凍みかんを作って持ってきてくれたり――こんなものは序の口で、みゆについての愉快なエピソードは枚挙に暇がない。

 でもまあ僕の方もいちいち覚えてるあたり、そういうところも可愛いと思っているのは否定しきれなかった。


 ただ、今回のはさすがに戸惑った。

 バレンタインデーに、付き合ってる彼氏に対し、表札をプレゼントしてくれる彼女はなかなかいないと思われる。

 表札――ドアプレートという方が正しいんだろうか、とにかく玄関のドアの外側にぶら下げておいて、ここは誰々さんの家ですよと知らしめるあれのことだ。

 楕円形に切り抜かれた木製のプレートには可愛いかもしれないネズミの顔がついていて、そのネズミが抱えるようにしているのが僕らの名前だ。

『やまぐちあつし・さとうみゆき』

 全部ひらがなで、一文字ずつ、これも木製の切り抜き文字で記されている。


「ネズミ柄ってなかなかなくて、随分探しちゃった」

 彼女は相変わらず屈託がない。

「これから一緒に暮らすんだし、そういうのも要るよねって思ったの」

「ああ……うん、ありがとう」

 僕はと言えば、ようやく最初の衝撃から立ち直りつつあった。

 もちろん、みゆの気持ちは嬉しい。別に僕はドアプレート大好きってわけじゃないけど、彼女が間近に控えた同棲生活のスタートに、前向きな気持ちを持ってくれていることが嬉しい。

 ただ、欲しかったかと言われると――。

「言いにくいんだけどさ、みゆ」

 僕は言葉を選びながら切り出した。

「今は防犯上の理由から、表札出さない家も多いんだ。外に飾るのはどうかな」

「えっ、そうなの?」

 彼女は驚きに目を瞠る。


 これはうちの母さんが言っていたことだ。

 二人暮らしなら表札は出さない方がいいし、家電に出る時は名前を名乗らない方がいい。

『あんたはともかく、みゆちゃんが一人の時に何かあったら大変でしょう』

 とも言われた。

 僕を軽んじるあたりは実の親としてどうかと思うけど、放任主義の母さんに心配されてもそれはそれで奇妙だからいいか。


 そのことを打ち明けると、みゆは納得した様子で頷いてくれた。

「言われてみたらそうだね。防犯かあ……」

 仰々しい方をすれば、僕らはこれから親の庇護下を離れることになる。

 今までは考えもしなかったことを、自分たちで考えなくてはいけなくなるわけだ。

「すごいね、篤史くん。ちゃんと考えてるんだ」

「親の受け売りだよ」

 僕は謙遜したけど、その意見を取り入れる気でいるのも事実だった。

 これからは僕が彼女を守らなくちゃいけない。そう思う。

「なら、それ使えないね。作る前に聞けばよかったな」

 みゆは残念そうに、僕の手元にあるドアプレートを見つめた。

 僕は慌ててフォローに回る。

「外に置けないなら、家の中に飾ればいいよ。どうせ他のネズミも持ってくるんだろ?」

「そうだね……ありがとう、篤史くん!」

 すると彼女は一転、にこにこと嬉しそうに笑ってみせた。

 その笑顔が本当に明るいものだったから、僕は二重の意味でほっとする。


 ドアプレートが欲しかったわけじゃない。

 でもこれを作って、来たる同棲生活に備えてくれた彼女の気持ちは、とても嬉しい。


「楽しみにしてくれてるんだと思うと嬉しいな」

 僕はその気持ちを、素直に告げてみた。

「お互い、親元を離れるのって初めてだろ。みゆは寂しくなったりしないか、ちょっと気になってたんだ」

 すると彼女は怪訝そうに目を瞬かせる。

「篤史くんは寂しいの?」

「いや僕は全然。そういう気持ちはゼロだね」

 両親はあの通り忙しい人たちだし、独り暮らし気分を早々に味わいつつ過ごしてきた僕だ。

 むしろ、これから始まる一人じゃない暮らしが楽しみでしょうがない。

 まして相手は彼女だから。

「ゼロなんだ」

 みゆはそこで軽く吹き出してから、考え考え答えてくれた。

「私も……ゼロとまではいかないけど、そういう気持ちはあまりないかな。お母さんとはずっと一緒だったし、おじいちゃんおばあちゃんも好きだけど、今は篤史くんと一緒にいられる時間の方が楽しみ」

 そうして照れたように首を竦めてみせる。

「どうしよう、私、ホームシックにならないかも」

「ならなきゃ駄目なの?」

「何か薄情じゃない? 全然ならなかったら」

「そんなことないって。同じ市内だし、いつでも会いに行けるんだし」

 相変わらず彼女の心配はどこかピントがずれている。

 でも、そういうところも可愛い。


 みゆと別れて家に帰ると、僕は自分の部屋に直行した。

 既に段ボール箱がいくつも積まれた自室で、まだ途中の荷造り作業を再開する。彼女手作りのチョコレートをつまみつつ、いい気分で私物を選り分けていく。

 正直に言えば、僕は荷造りなんてまだ早いと思っていた。

 でもこれまた母さんが早い方がいいと言わんばかりにせっつくから、とりあえず今使わないものから詰めていくことにした。夏服や高校時代の教科書、参考書、普段はあまり読まない本などは既にしまってある。実家から持っていく食器類も、一つずつ梱包材で包んで箱に収めていく。


 そういう単純作業をしつつ、ふと物思いに駆られる。

 みゆと同じように、僕もホームシックにはならないだろうな。

 もちろん両親に思うところがあるわけじゃない。不在がちではあったけどそれは僕の為に働いてくれているからで、今日まで育ててもらった恩もある。両親を変わっているなと思うことはあっても、嫌いだと思ったことはない。

 ただ、離れるにあたって寂しいと思う気持ちもあまりない。

 この部屋だってそうだ。


 段ボールが増えていくに従い、居心地のよかった僕の部屋は殺風景になっていく。

 ここで過ごした思い出もなくはない。どちらかと言えばそれは思い出というより、身体に染みつく習慣めいた記憶だったりするけど――ベッドから見上げる天井、机に頬杖をついた時に向き合う壁、電話中にもたれた窓からの景色、そういうものが全部なくなるのはほんの少し複雑だ。

 この部屋で、散々悩んで眠れぬ夜を過ごしたことも。

 頬杖をついて、彼女からの連絡を待った時間も。

 電話をしながら何気なく外を見て、会いに行けたらなと思った気持ちも――。

 なくなってしまうのは、寂しい、かもしれない。


 これもホームシックのうちに入るんだろうか。まさかな。

 僕は一人で苦笑して、彼女手作りのチョコレートを一粒、口の中に放り込む。今年のは文句なしに美味しい。

 それから貰ったドアプレートを眺めてみる。

 可愛いかもしれないネズミの柄の、楕円形の木製のプレートには、同じく木でできた文字ブロックでこう記されていた。

『やまぐちあつし・さとうみゆき』

 彼女はどんな気持ちで僕の名前をここに並べ、接着剤で一つ一つくっつけてくれたんだろう。

 そう思ったらいても立ってもいられなくて、さっき会ったばかりだっていうのに電話をかけた。


『――篤史くん? どうかしたの?』

「ちょっと声が聴きたくなって」

『そっか。私も、もうちょっと話したいって思ってたの』

 電話の向こうで彼女が笑う。

 声だけは、高校時代と何にも変わらない。

 僕は窓にもたれて暮れゆく空を眺めつつ、彼女と話ができる幸せを噛み締める。

「今、何してた?」

『私ね、荷造り始めてたの。まだ全然早いかなって思うんだけど、お母さんたちは早めの方がいいって』

 どうやらどこの家でも、親は子供の巣立ちを急かし立てるものらしい。

「うちもだよ。ちゃんとやってるかって、最近はそればかりだ」

『そっか。でもあんまり急いだら、お部屋の中がからっぽになっちゃいそうだね』

 笑う彼女の声は、僕が思っていたよりもずっと明るく、朗らかだった。

 この声を毎日、直に聴けるようになる日ももうすぐだ。

 そう思うとほんのわずかな感傷も押し流されて、あっという間にわくわくする気分に変わってしまう。


 僕と彼女はもうじき、本当に部屋をからっぽにする。

 寂しい、かもしれない。ほんのちょっとは名残惜しくも思うかもしれない。

 でも新しい暮らしではもっとたくさんの思い出ができるはずだから――やっぱり、ホームシックになってる暇なんてないだろうな。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 表札に爆笑です(笑)
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