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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
卒業後の話
75/115

二十歳の彼女と十九の僕(4)

 決断した途端、全ての歯車が噛み合い、動き出したようだった。


 佐藤さんもいいと言ってくれたし、ちょうどうちの両親も家にいるからと、僕は母さんに電話した。

「今日、彼女を家に連れてっていい?」

『二時間待って! 化粧するから!』

 母さんが必死の声で訴えてきたので、僕らはその分の時間を潰さなくてはならなかったけど。

「私の格好、変じゃない? 子供っぽく思われないといいな……」

 佐藤さんが気にしている様子だったから、僕は待ち時間を使い、いつも一つ結びの彼女の髪を可愛いお団子に結い直してあげた。ヘアピンやクリップを百均で買い、ネットで調べた通りにやったら、割と簡単にできた。

「わあ……。山口くんすごい! スタイリストみたい!」

 仕上がりを鏡で確認した佐藤さんは、自分のことなんてそっちのけで僕ばかり誉める。

 せっかく可愛くなったのに。ざっくり緩めのお団子は、一つ結びよりもはるかに大人っぽく見える。首の後ろがすっきりして、白くてきれいなうなじが露わになっているのもいい。両サイドに残した後れ毛が、彼女が身じろぎする度にふわっと揺れるのも可愛い。完璧な仕上がりだと思うんだけどな。

 だから僕は、佐藤さんに告げた。

 さっきは言いそびれてしまった言葉を。

「違う、佐藤さんがきれいなんだよ」

 口にしてしまってから、やっぱり気障だったような気もしてきた。もう遅いけど。

「え」

 佐藤さんは一度きょとんとした。

 その後で、耳まで赤くなるだけじゃ留まらず、まるで意地悪でもされたみたいにあたふたと困り果ててみせた。

「な……何を言うの山口くんっ! そんなことないよ! ないったら!」

 それから顔を隠すみたいに深く俯いたから、僕は笑いながら彼女に言った。

「嘘じゃない、本当にきれいだ」

 僕は心からそう思ってる。

 二十歳になった佐藤さんは、今までで一番きれいだって。


 家に連れていくことにこだわったのは、今日が彼女の誕生日だからだ。

 そして、僕にとっての『思い立ったが吉日』だったから、でもある。


 家では、完璧に化粧を済ませた母さんと、やはり身支度を完璧に整えた父さんが待っていた。

「いらっしゃい、佐藤さん。いつも息子から話は聞いてます。高校で一緒だったんですってね」

 よそ行きの服の母さんがにこやかに出迎えると、佐藤さんは緊張気味に頭を下げる。

「は、はじめまして。佐藤みゆきです」

 それから彼女らしくはにかんで、たどたどしく言った。

「ちょっと緊張しちゃってて……あの、失礼があったらすみません」

「あら可愛い! ずっと娘が欲しいと思ってたところだったの!」

 母さんが歓声を上げる横で、父さんも目尻を下げていた。

「うちは息子しかいないからな。若いお嬢さんが来ると、場が華やぐよ」

 いつも留守を預かり掃除洗濯をこなしている一人息子に何の不満があると言うのか、この人達は。

 まあ、可愛いのも場が華やぐのも否定はしない。佐藤さんがうちのリビングに座っただけで、見飽きた家の風景がまるで様変わりして、特別なものに見えてくる。まだ緊張した様子で、僕の隣にちょこんと座って、佐藤さんはずっとはにかんでいる。こんなにも早く、彼女を連れてくることになるなんて思わなかったな。

 そして今日の特別さは、テーブルに並んだ寿司桶からも醸し出されている。

「大したものは出せないけど、せっかくだから食べてってね」

 母さんが澄まして勧めたのは、家族だけの食事なら出たことのない特上寿司だ。佐藤さん家に招かれた時もそうだったけど、こういう場では寿司と相場が決まっているんだろうか。

 困惑する僕をよそに、母さんは妙に張り切りながら語を継ぐ。

「佐藤さんはもう二十歳なんでしょ? ビール飲む?」

「えっと……」

「駄目だよ母さん、二日酔いだろ」

 佐藤さんが困ってたみたいなので、そこは止めた。母さんには『言うな』という顔をされたけど、事実じゃないか。

 二人とも、朝は死にかけのゾンビみたいな顔してたくせに。

 僕が彼女を連れ帰っただけで何の騒ぎだ。全く。


 もちろん、僕もただ佐藤さんを見せびらかす為に連れ帰ったわけじゃない。

 いつもと違う雰囲気の夕食が始まり、少し経った辺りで切り出した。

「まだ先の話だけど、彼女と同棲したいと思ってるんだ」

「えっ、も、もう言うの?」

 佐藤さんは慌てていたし、『同棲』という単語にまた頬を赤らめていた。

 でも母さんは心得ていたというように、即座に頷いた。

「やっぱりね。急に連れてくるっていうから、そういう用件だと思った」

「物件見て歩いたんだけど、単身者用っていいのなくてさ」

 僕が表向きの理由を告げると、どこの母親でもするような訳知り顔を浮かべてみせる。

「それが理由? 違うでしょ、心配だからって言ってたじゃない」

「……そうなの?」

 佐藤さんが、怪訝そうな目を向けてきた。

 母さんめ余計なことを。僕は顔を顰めながら答える。

「もちろんそれもあるよ、女の子の一人暮らしって危険だし。一緒の方が安心できるのも確かだけど」

 もっと言うなら、佐藤さん働いてるのに家事とかできるのかなとか、ちゃんとご飯作って食べられるのかなとか、不規則な生活して倒れたりしないかなとは思った。そういうものを全て口にするとさすがに傷つけそうだから、黙っていたけど。

「でも、それだけじゃない。僕だって熟慮の上で決めたんだ」

 佐藤さんと一緒に暮らしたら幸せだろうな、とか。

 僕にできる限りの力で、佐藤さんを守り、支えていけるようになりたいな、とか。

 そういう気持ちがあるから――実はずっと前から胸の奥で燻っていたから、今日、決断できた。

「将来のことだってちゃんと考えてる。真剣なんだ。軽い気持ちで試しに、なんて考えてるわけじゃない」

 両親に対してこんな真面目な話をするのも滅多にないことだ。

 その分、思いの丈を素直に口にできた。

「僕はこれから先もずっと、彼女を守れるようになりたい」

「守りたい、じゃないのね。正直なんだから」

 母さんが呆れたように溜息をつく。

 だけどそこで、

「……ありがとう、山口くん」

 佐藤さんが僕に頷くと、うちの両親へと向き直る。

 そして真剣な顔つきで口を開いた。

「あの、篤史くんってすごく頼りになるんです。高校時代から私が困ってたらさりげなく手を差し伸べてくれて、私が辛い時には隣にいてくれて――」

 いきなり何を、恥ずかしい話をし始めるのか。

 唐突な暴露もそうだけど、佐藤さんが空気を読んだことにも僕は面食らっていた。

 佐藤さんですら、うちの親の前では僕を、名前で呼ぶのか。

 戸惑う僕をよそに、佐藤さんは尚も続けた。

「そんな篤史くんに、私はずっと支えられてきたんです。今だってそうで、篤史くんがいてくれるから私は仕事だって頑張れるし、お休みの日がすごく楽しいんです」

 もちろん、そう言われて悪い気はしない。

 それに、佐藤さんに名前を呼ばれるのだって、ちっとも悪くない。

「だから山口くんが私と一緒に暮らしてくれたら、とっても心強いです」

 言い切るなり、佐藤さんはがばっと頭を下げる。

「どうか、お願いします!」

「お願いします」

 僕も揃って頭を下げた。

 お嬢さんを僕にください、みたいなシチュエーションだと、場違いなこともこっそり思った。

「そこまで言ってもらえるなら、是非貰ってもらわないとね」

 得心したような母さんの声が、僕らの頭上に降ってくる。

 思わず顔を上げると、母さんと父さんが目を交わし合った後で僕らを見た。

 口を開いたのはやっぱり母さんの方だ。

「うちは両親揃って仕事忙しいからね。篤史には昔から一人ぼっちにさせてばかりで悪かったと思ってる」

「慣れたよ、そんなの」

 僕が言うと、それでも母さんはかぶりを振った。

「今だってそうでしょ。そのくらいなら、家出て誰かいい子と一緒に暮らす方が、篤史にとってもいいのかもね」

 別に僕は、一人でいるのが寂しいから同棲したいって言ってるわけじゃないんだけど。

 ない、と思うけど。

 まあでも、多少考えなくはなかったかもな。一人きりで家にいる時、隣に佐藤さんがいたら楽しいだろうなとか。昨夜の冷やし中華だって、佐藤さんと一緒だったらもっと美味しかったかもなとか、そのくらいは。

「意外と寂しがり屋な子だけど、よろしくね、佐藤さん」

 だから違うって。勝手なキャラづけしないで欲しい。

「はい! お任せください、篤史くんを寂しがらせたりしませんから!」

 佐藤さんも。張り切って答えない。

 そういうのは僕の仕事だ。僕が、佐藤さんを寂しがらせたりはしない。そりゃまあ、両方の仕事になったところで問題なんてないだろうけど。

「ただし、条件があります」

 ふと、母さんの声が鋭くなった。

 僕が目を瞬かせ、佐藤さんがしゃきっと姿勢を正したところで、

「まず、篤史が二十歳になるまでは我慢すること」

 それはまあ、そうだろうと思ってた。僕達が揃って頷くと、母さんは続ける。

「それと、今より成績は落とさないこと。留年なんて論外だからね」

「わかってるよ」

 さすがにそれは僕も避けたい。同棲をしたことでマイナスの影響をもたらしたのでは一緒に住む意味がない。ここはむしろ成績を上げる方向で頑張らないと。

「そして三番目。これが一番肝心だけど――」

 母さんはもったいつけるように僕と佐藤さんの顔を見回して、

「篤史が卒業するまで、子供は作らないこと」

 この三番目の条件に対する、僕と佐藤さんの反応は実に対照的だった。

 当然そうすべきだろうと三度頷く僕の隣で、佐藤さんは面白いほど慌てふためいた。

「そ、そういうのはっ! そういうことはまだ全然考えてないですから私達! 本当にないですから!」

「でも一緒に住むんだから、気をつけるべきよ」

 母さんが冷静な笑顔で返すと、佐藤さんは僕の方を見た後で、まるで泥沼に沈み込むかのように俯いた。

 その様子がたまらなく可愛かったので、――本当に気をつけよう、と僕は思う。


 終始騒がしかった食事会の後、僕は佐藤さんを彼女の家まで送っていった。

 並んで歩く夏の夜道で、今日一番気になったことに触れてみた。

「篤史くん、って呼んでもらっちゃったな」

 僕の言及に佐藤さんはやっぱり慌てて、俯いた。

「あっ、へ、変だったかな……」

「変じゃないよ。嬉しかった」

 ずっと『山口くん』と呼ばれてきたし、それが嫌だったわけじゃない。お互いに名前呼びに移行しようとして、でも何となく照れて、やっぱりやめようと話したこともあった。

 でも改めて呼んでもらえると、嬉しかった。

 いい機会なのかもしれないな。彼女の二十歳の誕生日に、お互いを新しい呼び方で呼ぶのは。

「山口くんは、名前で呼ばれる方がいい?」

 おずおずと僕に目を向け、佐藤さんが尋ねてくる。

 僕は素直に頷いた。

「呼ばれるだけじゃなく、呼びたいって思う」

「え……私のことも?」

「そう」

 ずっと考えてた。

 佐藤さんを名前で呼ぶなら、どう呼ぼうか。『みゆきちゃん』は何か無性に照れるし、二十歳になった彼女には子供っぽいような気もするし、他の子もそう呼んでるところもちょっと微妙。だけど『みゆき』は僕のキャラじゃない。『みゆきさん』はやっぱり論外だ。よそよそしい。

 だから、

「みゆ、って呼んでいいかな」

 僕は、彼女にそう持ちかけた。

「誰とも被らない、僕だけの呼び方で呼びたいんだ」

 彼女は呆けたように僕を見上げている。もしかしたら本当に、そう呼ばれたことがなかったのかもしれない。七月生まれなのに佐藤みゆき、その名前もきれいだけど、僕はやっぱり僕だけの呼び方で彼女を呼びたい。

「みゆ」

 改めて彼女をそう呼ぶと、見上げる表情がじわじわと柔らかく和んだ。瞳が少し潤んでいる。唇は解けるように笑んでいる。やがて、その唇が少し動いて、こう言った。

「なあに、篤史くん」

 それから照れたようにえへへと笑って、

「あっくん、っていうのもいいかと思ったんだけど。ネズミと一緒じゃ駄目だよね。私も、私だけの呼び方がいいな」

 と続ける。

 幸いにして今のところ、僕を『篤史くん』と呼ぶのは彼女くらいのものだった。滅多に会わない親戚とかはそういうふうに呼んだりもするけど、その辺はノーカンだ。

「好きに呼んでいいよ、みゆ」

「うん。そうするね、篤史くん」

「みゆ、これからもよろしく」

「篤史くん……こちらこそ、ずっと隣にいてね」

 彼女が二十歳になった日の夜。

 昔と何にも変わりなく、僕は彼女の隣にいるし、彼女も僕の隣にいる。

 今日はいろんなことがあったけど、それも全てはこれから先、彼女の隣にいる為にしたことだ。僕はその為なら何でもするし、何だってできる。

 そしてそれは彼女も同じだ。

 僕の隣にいる為に、彼女もたくさんのことをしてくれた。


『どんな時でも、いつまでもずっと隣にいられるようになりたい』

 高校時代に願ってやまなかったものが、今は手の届くところにある。

 夢は叶うものだなんて、口にしたら陳腐でしかないフレーズだけど、僕にとっては本当のことだ。

 夢は叶う。僕は彼女の隣にいる。


 幸せを噛み締める夏の夜。

 二十歳になった彼女と、まだ十九の僕は、しっかりと手を繋いで歩いた。

 このまま二人で、隣同士で、どこまでも歩いていこうと思う。

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