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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
卒業後の話
73/115

二十歳の彼女と十九の僕(2)

 佐藤さんの誕生日は、幸いにして土曜日だった。

 その日、僕は早起きをして、出かける準備を済ませていた。


 ダイニングテーブルで朝食を取っていると、階段を下りてくる音が聞こえる。

 起きてきたのはどっちだろう。僕が目をやれば、あくびしながら現れたのは母さんの方だった。

「休みだってのに、早いね」

「おはよう。今日、ちょっと出かけるから」

 僕が応じると、皺だらけのスーツ姿で、髪もぼさぼさの母さんが僕の真向かいに座った。二日酔いなのか、随分とだるそうに頬杖をつく。

「お水ちょうだい、篤史」

 それで僕は食事の手を止め、コップに水を汲んで母さんに差し出す。

 母さんはそれを一息に飲み干した後、深々と溜息をついた。

「昨夜は飲みすぎた……!」

「また飲み会? 若くないんだから、程々にしとけばいいのに」

「うるさい。飲まなきゃいけない付き合いってのもあるの」

 僕を睨みつけた母さんが、声を落として言い添える。

「お父さんは寝かしといてあげてね。潰れてたから」

「わかった」

 大人になった後っていうのもいろいろ大変みたいだ。僕は深く頷いた。

 もっとも僕は、飲んで帰ってきた日であっても、着替えくらいはして布団に入る大人でありたいと思うけど。

「篤史は昨夜、何食べたの?」

「冷やし中華」

「えーいいなあ。何かさっぱりしたもの食べたい」

「麺だけ茹でればすぐ出せるよ。作る?」

「食べるー」

 母さんの返事を聞いて、僕は麺を茹でる為のお湯を沸かし始めた。

 それから作り置きの冷やし中華の具材を取り出すと、背後で母さんが笑ったようだ。

「働くね、篤史。いつお婿に出しても問題ないんじゃない?」

「僕が婿に行くのかよ……」

「今時、貰うばっかでもないでしょ。彼女とはそういう話しないの?」

「一切してないね」

 どっちの籍に入るとか、どっちの名字を名乗るとか、そういう話題が僕らの間に上るはずもない。せいぜい『結婚したいね』程度だ。

 大体、僕はまだ学生なんだし、佐藤さんだってまだ――。

「……母さん」

 鍋の中でお湯が沸き立った頃、僕はふと口を開いた。

「もし僕が一人暮らししたいって言ったら、どう思う?」

「したいの?」

 母さんは即座に聞き返してきた。

 少し迷ってから、僕は首を横に振る。

「僕の話じゃないんだ。周りにそういう子がいてさ」

 あえて、佐藤さんだとは言わなかった。

 母さんに彼女がいるという話はしていたけど、まだ一度も会わせたことがない。それで何かと言うと『連れてこい会わせろ紹介しろ』とうるさいから、母さんの前で彼女の話をするのが億劫になっていた。会わせたら会わせたでうるさいに決まっているし。

「その子、自立したいから一人暮らしするって言うんだ。それはもっともな考えだと思うけど、ちょっと心配で。いや、応援してあげたい気持ちもあるんだけど――」

 僕は何気ないふうを装いつつ、続ける。

「親の側から見たら、自立の為の一人暮らしって、どうなのかな」


 大人になりたいから家を出る。

 その佐藤さんの考えが、間違っているとは思わない。

 でも全ての大人達が、そういうふうに大人になったわけじゃないだろう。むしろ既に大人になった人達は、どのような経緯を辿って大人になったんだろう。あるいは、自分が大人になったって、いつわかるものなんだろう。

 それを聞いてみたくて、僕は手近な大人に尋ねた。


「そんなの、ご家庭によって違うんじゃないの」

 母さんの答えはあっさりしていた。

「よそはよそ、うちはうちだから。お母さんの考えしか答えようないけど」

「それでいいよ」

「お母さん的には、その考えもありだと思うな」

 沸き立つ鍋の中に、冷やし中華の麺を投入する。黄色っぽいちぢれ麺が熱湯の中で躍り出す。

「だって一人暮らしって、何でも自分で責任取るってことだからね」

 母さんの話は続く。

「自分で掃除しなきゃ散らかる一方だし、洗濯しなきゃ着る服なくなるし。ご飯用意しなきゃそのうち倒れるし、ちゃんと寝ないと具合悪くなる。そういう責任を全部、自分で背負うってことだもの」

 妙に説得力のある話だ。実体験なんだろうか。

「実家暮らしは違うでしょ。黙ってても掃除洗濯してもらえるし、ご飯だって出てくる。――まあ、うちは違うけど」

「そうだね」

「うちだって最低限、あんたが病気になったら看病はするよ」

 むきになったように母さんは言い、更に話を続けた。

「でも、一人暮らしじゃそういうのだってないからね。病気でぶっ倒れても誰にも気づかれない可能性だってあるし、そこまで行かなくたって体調管理も自分の責任でしょ。それはやっぱり、大人じゃないとできないことだと思うけど」

 それを聞いた僕は、にわかに不安を覚えた。

 佐藤さん、一人暮らしなんかして本当に大丈夫だろうか。いや、彼女が頼りないって言いたいわけじゃない。ないけど、ちょっとだけ頼りないと言うか、結構ぎりぎりまで無理するところあるしな……。

 ここはやっぱり、彼女が一人暮らしを始めたら、ちょくちょく様子見に行くのがいいかもしれない。

「じゃあ大人になるって、何でも自分で責任を取るってこと?」

 麺が茹で上がったので、ざるに取って水で締める。適当に冷やしたら、後は皿に盛って具を飾るだけだ。

 僕の問いに、母さんは少し笑ったようだった。

「かもね。一人暮らしには覚悟が必要よ」

 自由には責任が付随する。

 当たり前の話だけど、大人になるっていうのもそういうことなのかもしれない。

 何でも自由にできる代わりに、自由に振る舞う全ての行動に対し、自分で責任を負わなければいけない。

「はい、できたよ母さん」

 できあがった冷やし中華の皿を差し出せば、母さんはありがたがるように両手を合わせてきた。

「美味しそう! 本当に、いつお婿に出しても問題ないね」

「そんなに出したいの、婿に」

 僕が呆れると、母さんはにやにやしながら応じる。

「別にどっちでもいいけど、そう遠くないんじゃないかと思って」

「でもないよ。僕、まだ学生だよ」

「だけど、家を出るって話になってるんでしょ?」

 麺を啜る母さんが、じっと僕を見つめてくる。

 なんでまたそんな誤解を。僕は目を逸らしつつ、深い溜息をついておいた。

「さっき、僕の話じゃないって言ったはずだけどな」

「でも彼女の話なんでしょ?」

 そこは、どうしてばれたんだろう。顔に出てたかな。

 だけど婿に行く行かないって話になってるなんてことはない。断じてない。母さんは深読みしすぎだ。

「一緒に暮らすっていうんなら彼女ちゃん、一度連れてきなさい。話はそれから」

「そんなこと一言も言ってないだろ」

「顔に書いてある! お母さんはお見通しなんだからね」

「書いてないよ……考えもしなかったよ、そんなこと」

 そりゃ憧れないことはない。

 佐藤さんと二人暮らし、それってつまり同棲ってことだ。学生と社会人で環境が違ってしまっている今、一緒に暮らすことでより時間を共有できるのは確かに魅力的だった。失礼ながら、佐藤さんの一人暮らしには何かと不安もつきまとうけど、それも僕が一緒なら安心できる。こっちは炊事洗濯掃除と、最低限のことはできるわけだし――。

 でもしつこいようだけど僕はまだ学生だ。憧れはあるけど、さすがに考えられることではなかった。


 佐藤さんとは午前十一時に駅前で落ちあい、その足で不動産屋さんへ向かった。

「どんな部屋がいいのかなあ……」

 不動産屋さんに辿り着くなり、彼女は店頭に張り出された物件情報にかじりつく。一つ一つをつぶさに眺める横顔は、とても真剣だった。

 二十歳になった佐藤さんは、十九の頃とさしたる変化はないように見える。去年買ったオフショルダーのワンピースを着て、マスカラとリップだけという最低限の化粧をして、髪型はいつもの一つ結びだ。高校時代よりは大人になったけど、二十歳になったという劇的な変化は見受けられない。

 だけどそれでも、僕の隣にいる佐藤さんは、成人だ。

 まだ未成年の僕は、その横顔を感慨深く見つめていた。彼女が二十歳になる日、隣にいるのが僕で本当によかったと思う。

「三万円で探すとなると、結構厳しいね」

 僕の視線をよそに、佐藤さんは溜息をつき始める。

 彼女に倣って物件情報を眺めてみれば、確かに三万円前後の部屋はあまりいい条件のものがなかった。築年数が僕らの歳を超えているのは普通で、駅から三十分近く歩かされたり、市内でも寂れてる辺りに建ってたり、六畳一間だったり1Kだったり。

「いろいろ調べてきたんだけど、女の子の一人暮らしなら一階は防犯上よくないみたい」

 真面目な顔の佐藤さんが僕に囁く。

「あと畳のお部屋はきれいに使うの難しいとか、洗濯機が置けるかどうかは絶対確認した方がいいとか、アパートならどんな人が他に住んでるか確認した方がいいとかって聞いた」

「見るべきポイントって結構あるんだね」

 僕も当然ながらお部屋探しの経験なんてない。佐藤さんの説明まで実に興味深かった。

「一番は、通勤に便利なところがいいんだけどね」

 彼女が苦笑を浮かべて僕を見る。

「ほら、そういう口実で出ることになってるから……」

「確かに、実家の方が通いやすいんじゃ家出る意味ないもんな」

 そうなると、駅から遠すぎる物件はまずアウトだ。家から通う方が早いだろうと、家族からも一蹴されるに違いない。

 佐藤さんのお母さんとは一度しか会ったことがないから、どんな反応をするか、あまり想像もつかないけど。

「あと……」

 ちょっともじもじしながら、佐藤さんが言い添える。

「できるだけきれいなところがいいんだけど……贅沢かな」

「それもまあ、思うよね。普通は」

 ほんの一ヶ月前、遊園地に行った時のことを思い出す。

 怖がりなところもあるしな、佐藤さん。古すぎる物件に引っ越して、毎晩怖くて眠れないなんてことになったら目も当てられない。できるだけ新しくてきれいなところがいいだろう。

 となると、彼女の言う予算ではなかなかいい物件が見つからなかった。通勤に便利で、新しくてきれいで、最低限の広さも欲しい。治安のいい界隈じゃないと僕が不安になる。


 めぼしいものが見つからないまま、僕達は張り出されている物件情報をあらかた見終えてしまった。

「山口くん、別のお店も見てみていいかな?」

「いいよ、付き合うよ」

 こうなったらとことん探し回るまでだ。

 佐藤さんの誕生日、まずは不動産屋さんのはしごをすることにした。

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