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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
卒業後の話
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僕たちの離れ離れの日々(1)

 ある金曜の夜、大学の友達との飲み会に顔を出したら、そこに佐藤さんもいた。


 と言っても、一緒に飲んでいたというわけじゃない。

 そもそも佐藤さんは既に勤めに出ている社会人、対する僕はしがない大学生という身分だ。僕ら二人の間柄はともかくとして、佐藤さんと僕の現在の環境には接点らしい接点が存在しない。彼女は電車通勤をしなければならず、僕は大学まで歩きか、自転車で通える距離だ。

 もっとも佐藤さんは今も実家で暮らしているから、こんな偶然も起こり得るものなのかもしれない。


 僕はバイトがあるので、飲み会には遅れて参加するつもりだった。

 バイトを終えてから駅前の居酒屋チェーン店に駆け込んだのは午後七時過ぎ、その時既に飲み会は始まっていて、『おそーい山口!』なんて皆に突っ込まれつつ平謝りで席に着いたら、小上がり席のすぐ隣の席に彼女がいた。

 佐藤さんが、大勢の大人たちと隣のテーブルを囲んでいた。

 どうしてすぐ彼女だってわかったかと言えば、それは佐藤さんが割と目立つ女の子だからに他ならない。あの見るからにとろそうな雰囲気、とにかくひたすらに人のよさそうな笑顔、いくつになっても一つ結びのままの髪、そして果てしなく垢抜けない私服姿。


 僕と同世代の他の女の子は、化粧もするし、服装だってどんどん垢抜けて可愛くなっていく。

 なのに佐藤さんは放っておくといつまで経っても野暮ったい。たまに一緒に買い物に行っては服を見立ててあげるようにしているんだけど、今日は平日、仕事帰りだからなのか、彼女が自分で選んだであろうグレーのパーカーワンピースを着ていた。

 地味だから目立つ、というのは一見矛盾しているように思える言葉かもしれない。でも僕からすれば大学で華やかな女の子たちを見慣れているからこそ、佐藤さんみたいな子は視界の隅にいるだけですぐにわかってしまう。今日もまるで直感のように、彼女の存在に気づいた。


 がやがやと騒がしい居酒屋では、隣のテーブルの会話さえ聞こえるようで聞こえない。

 佐藤さんと共に卓を囲む面々は中高年の女性が多く、彼女が働く弁当屋さんのパートさんなんだろう、とおぼろげに察した。男性の姿は一人だけだ。少しヤンキーっぽい短髪の若い男が佐藤さんの隣に座っていて、ジョッキでビールを飲んでいる。佐藤さんはちょこんと正座をして、どうやらオレンジジュースを飲んでいるみたいだった。

 そして僕が素早く佐藤さんを発見してここまでじっくり観察しているにもかかわらず、佐藤さんは僕に気づいていない。

 こちらを向く気配もない。

 熱心に焼き鳥を食べている。オレンジジュースで。なんて食べ合わせだ。


「――山口、山口」

 名前を呼ばれて、そこで僕はようやく我に返る。

 振り向くと幹事役の友人が苦笑いしながら僕を見ていた。

「遅れてきといてぼうっとしてんなよ。何飲む?」

「あー……悪い。じゃあ……」

 僕は答えながら、未練がましく横目で隣のテーブルを窺う。

 佐藤さんはたった今呼ばれた僕の名前にも気づいていない。居酒屋は騒がしいから聞こえなかったんだろう。

「オレンジジュースで」

 そして僕は、佐藤さんの真似をした。

 マジかよ、と幹事役には引かれたけど、そういう気分だったんだからしょうがない。


 大学の友達連中とはよく飲み会をする。

 大体は同じゼミとか、サークル繋がりとか、たまに友達の友達とか友達の先輩なんかが加わる感じ。いつも大人数になるし、初対面の相手が紛れ込んでいるのもしょっちゅうだ。

 そうなると飲み会に参加する目的も千差万別、ただ飲みに来ただけじゃないんだろうな、って子もちらほら見かける。僕含む大抵の人間は、大学生になったからって急に勤勉になったり真面目になったりってこともないわけだ。

「山口って高校どこ? え、東? 結構頭いいんだ、意外!」

 今、しきりに話しかけてくるのは僕の隣に座った女の子だ。

 さらさらした短い髪の女の子で、快活そうな笑顔がすごく可愛い。それでいてばっちり化粧をしているから睫毛がばっさばさだし、ネイルにもこだわっててカラフルな爪を見せてくれたりするのが、女の子らしくていいなあと思う。ギャップがある女の子というのは得てして可愛いものだった。

 佐藤さんにはギャップなんてないからな。いつも見たまんまだ。そりゃ、あののほほんとした態度だけが彼女の真髄ではないけど――。


 僕は会話の合間にも、ちらちらと隣のテーブルを盗み見ていた。

 佐藤さんはまだ焼き鳥を食べていて僕に気づく気配はまるでない。時々、真向かいに座るおばさんたちに何か勧められたようで、皿を手渡されては恐縮したように頭をぺこぺこ下げていた。

 高校を出てすぐ勤め始めた佐藤さんだったけど、どうやら職場では可愛がられているらしい。佐藤さんは悪い子ではないものの人に理解されにくいところがあるし、あの気の利かなさが仕事にも悪影響を及ぼしはしないかと密かに心配もしていたんだ。本人からは仕事の話はあまり聞けなかったから余計気になっていたけど、とりあえず一安心ってとこか。


「……ねえ、山口。聞いてる?」

 隣の子に呼び戻され、僕は慌てて愛想笑いを浮かべる。

「ああ、ごめん。ちょっとバイトで疲れててさ」

「えー。何おっさんみたいなこと言ってんの?」

 可愛い子に落胆されるのは申し訳ないものだけど、そもそもこっちは女の子と仲良くしたいって目的で飲み会に来たわけでもない。一応は彼女がいる身分だから出会いなんて必要ないんだ。

 でも友達の友達を呼び合う飲み会では、頭数が足りなければ駆り出されることだってある。まさに今夜がそうで、バイトの後で実際くたびれてるっていうのに付き合いで飲み会に来てる。飲み会が嫌いなわけでも、女の子と話すのが嫌なわけでもない。むしろ楽しいと思ってるけど、付き合いってめんどくさいよなあ、なんて思うこともたまにある。

 佐藤さんはどうなんだろう。今夜の、職場のものと思しき飲み会を、ちゃんと楽しめているんだろうか。

「ってか山口、なんで飲まないの? 健康志向?」

 隣に座る子が僕のオレンジジュースに目をつけてきた。

 僕はそれにも軽く笑って、

「何となく。気分の問題?」

 と答えておく。

 それからやはり何となく、隣のテーブルに目を向けてみる。


 佐藤さんは笑っていた。

 隣に座るヤンキー風の男と話をしているみたいだった。男の方は別に笑ってもいなかったが、佐藤さんは何やら楽しそうに笑っていた。

 ギャップもなければ裏表もない佐藤さんは、誰といる時でもいつも人のよさそうな笑顔を浮かべてみせる。僕といる時と何ら変わりのない笑顔が離れた位置に見えると、無性に胸の辺りがもやもやした。


 何か。

 何だかすごく、楽しそうじゃないか。

 佐藤さんが職場の人たちと上手くいってて、それはよかった、いいことだと思ってるのに、ああやって他の男と笑う姿を見ると途端に嫌な気分になる。あのヤンキーっぽいのが若い男だから、かもしれない。耳にいくつもピアスをつけたその男が何か喋る度、佐藤さんがころころ笑うのが見えて、僕の気分も急に冷え込んだ。

 佐藤さんと僕はお互いの環境について、あまり話をしない。離れ離れになってしまったことを意識したくなくて、僕はわざと聞かないようにしてきた。佐藤さんも愚痴を零すような性格じゃないから、僕によく話してくれるのは最近見てるテレビとか、はまってる漫画の話などだった。

 二人でいる時は楽しいし、幸せだし、それだけでいいやと思ってて――でも佐藤さんの職場のことを知らないと、こういう時、かえってもやもやする。

 あの男とは仲がいいんだろうか。職場でもよく話すんだろうか。そんなことばかり考えてしまう。


「ねー山口、お酒飲むんなら付き合ったげよっか?」

 隣に座る子が小首を傾げて僕の顔を覗き込む。

 可愛いなって思うけど、僕は、もうちょっと地味な女の子の方が好みなんだ。

 こちらの飲み会は午後五時スタートらしく、僕が到着した時には既にある程度お酒も入っていて、皆いい感じにできあがっていた。そろそろ二次会かという雰囲気でもあったから、僕も追加注文は控えめにしてきた。

「いや、僕はいい」

 曖昧に断りつつ、僕はポケットから携帯電話を取り出す。メール画面を素早く呼び出し、メッセージを打つ。

「え、何なに? 誰かに連絡でもすんの?」

 隣からは不満そうな声が聞こえてきたけど、ごめんと口では詫びつつも送信はやめなかった。

 送信先はもちろん佐藤さんだ。こちらの送信が終わると間を置かずに彼女のケータイが鳴ったようで、周囲にぺこぺこ頭を下げながら彼女がその画面を覗くのが見えた。

『隣のテーブル。さっきからいるんだけど、気づいてる?』

 僕が送った文面はこうだ。


 多分気づいてもいないんだろうなと思ったら、案の定ケータイを見つめる目が大きく見開かれた。

 次の瞬間弾かれたように顔を上げ、僕の方を向く。

 途端にあの人のよさそうな笑みが彼女の顔に浮かんで、それまでいろいろ言ってやりたいことがあったにもかかわらず――言われる前に気づいて欲しいなとか、オレンジジュースと焼き鳥はどうかと思うよとか、隣の男と随分楽しそうにしてるけど何だよとか、そういうのが全部吹っ飛んでしまった。

 ようやく僕に気づいた佐藤さんは、しかし僕のいるテーブルのいかにも大学生って集団に目をやると、途端に気後れしたような顔つきになった。こっちが直接声をかけられなかったように、佐藤さんもまたこちらには声をかけにくいようだ。

 小さく手を振ってくれた後、不器用そうな手つきでもたもたと文字を打ち始めた。


 相変わらず佐藤さんは打つのが遅く、五分後くらいにやっと届いた。

 僕のケータイが鳴ると隣の女の子はますます機嫌を損ねたらしく、

「あ、通知。誰から? 彼女から?」

 自棄気味に突っ込んできたから、僕もこれはぶっちゃけていいだろうと思い、正直に答えた。

「うん。彼女から」

 佐藤さんからのメッセージはこうだった。

『全然気づかなかったよーびっくりした。山口くんは大学のお友達と?』

 昔よりはいくらか読みやすくなった文章に、自然と笑みが浮かんでくる。

 もちろんすぐに返事を送った。

『そう。でもそろそろ帰りたい。佐藤さんのとこは何時で終わり?』

 また彼女のケータイが鳴る。

 佐藤さんがぺこぺこする。職場の人たちは気にしてないそぶりでそれを見守っているようだったが、そのメッセージがすぐ隣のテーブルから送られているとは思いもしないらしい。

『私のところはもう帰るよ』


 見れば、彼女のテーブルはぼちぼち後片づけを始めていた。

 こういう時のおばさんたちは頼もしく、見る間に皿をまとめ、グラスを集め、割り箸も揃えて置いていく。きれいになっていくテーブルの前で、佐藤さんが残りのオレンジジュースを飲み干そうと必死になっている。

 なら、僕もこれで帰ろう。

 そう思って返信した。

『送ってくから一緒に帰らない?』


 そして返事を聞く前に、僕はこちらの幹事役に声をかけた。

「ごめん。僕、そろそろ帰るよ」

 言いながら席を立つと、隣に座っていたあの可愛い子はわかりきっていたみたいに肩を竦め、幹事役は慌しくすっ飛んできた。

「山口もう帰んの? 付き合い悪くねえ? そりゃバイトの後に呼び出したのは悪かったって思ってるけどさあ。これからカラオケ行くんだけどそこまでは――」

 幹事役に追い縋られて、僕は来た時と同様に平謝りする。

「悪い。けど今日はもう無理」

「何でだよ。具合悪いの?」

「そうじゃなくて。彼女が来てんだ、この店に」

 振り返れば佐藤さんたちはもう店を出るところで、パーカーワンピースの彼女がちょうど僕の方を見ていた。

 にこっと笑った佐藤さんに僕が軽く手を上げると、幹事役も『彼女』が誰かわかったらしい。信じられないって顔をされた。

「あの子? マジで? 高校生だろあれ」

 奴の口ぶりはまるで、高校生なんてガキだろって言いたげだった。

 でも僕もこいつも佐藤さんだって、ほんのちょっと前までは実際に高校生だったんだ。

 そして、本当になってみてわかったけど、大学生と高校生なんて大差ない。会話の内容も、関心の向く事柄も。社会人は、そうでもないかもしれないけど。

「あの子。偶然いたんだよ、隣に」

 僕が認めると、幹事役は呆れ返った様子で僕を見る。

「聞いてたけど、山口の女の趣味が微妙って話、本当だったんだな」

 それはもう、高校時代から言われ慣れてる。

「いいだろ。ライバルなんていないに越したことないんだから」

 だから堂々と言い返してやった。

 幹事役はうんざりした顔で僕から飲み会代を徴収すると、お幸せに、と僕を送り出した。

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