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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
卒業後の話
66/115

私と山口くんの新年の抱負

「私の白馬の王子様って、山口くんだと思うんだ」

 ざわめく人混みの中でふと、はぐれるよ、って肘を掴んでもらって。

 それが嬉しかったから私が打ち明けると、山口くんはぎょっとしたようだった。

「はっ!?」

 声を上げて聞き返してきたから、もう一度言ってみる。

「だからね、私の白馬の王子様って、山口くんだよねって」

「いやそれは聞こえたけど、急に何? って言うか、何で?」

「ほら、さっき肘を掴んでくれたよね。それで思ったの」

 初詣に向かう人の列は、それほど広くない参道を埋め尽くすほど長く続いている。

 私もなるべく人にぶつからないように、そして山口くんから離れないように気をつけていたつもりだけど、油断するとすぐに誰かと肩がぶつかったり、誰かに足を踏まれたりする。

 避けようとすると人混みに埋もれそうになって、その度に山口くんに連れ戻されていた。


「それは佐藤さんがぼうっとしてるからだろ」

 山口くんは呆れたように言う。

「周りの人たちだってこっちのこと構ってる余裕ないんだし、気を抜いてると迷子になるよ」

 それからモッズコートのファーに、顔を埋めるみたいに俯いた。ぶつぶつと、でも私に聞こえる声で続ける。

「大体、そのくらいで王子様呼ばわりとか、佐藤さんは大げさだ」

「そうかなあ。私、嬉しかったよ」

 ぼうっとしているつもりはなかったけど、こんなに人が大勢いると身動きさえ上手く取れなかったりする。私がとろい、というのも自覚はしてるけど。

 だから山口くんの隣にいると安心できた。

 はぐれないように気遣ってくれて、本当に、嬉しかった。

「それに今年は午年だもん」

 人波はゆっくりなスピードで少しずつ、少しずつ前に進んでいく。山口くんと肩を並べるようにして一歩だけ前に出ながら私は言った。

「だから白馬の王子様っていうの、ぴったりだと思ったんだ」

「……佐藤さんの言うことは時々、突拍子もないよね」

 山口くんが溜息をつく。

 白い息がぱあっと冷たい空気の中に広がり、すぐに溶けた。

「僕は王子様じゃなくてネズミだっただろ」

 それから肩を竦めて、懐かしい話題を出してくれた。

 高校時代の文化祭で、C組の皆とやった劇の話。あの時山口くんは王子様じゃなく、魔法をかけられるハツカネズミの役だったんだ。

「でも、山口くんには王子様だって似合うと思うよ」

 私はそう思う。

 もし山口くんが王子様に選ばれてても、きっと格好よく務め上げたんじゃないかなって。ハツカネズミになったのはくじ引きの結果だったから、似合うかどうかなんて二の次だったけど――山口くんはネズミの役だって一生懸命、演じていた。それもやっぱり、格好よかった。

 もっとも、山口くんは王子様になりたいわけでもないみたいだ。

 またしても俯いてから、呻くように言ってきた。

「もう高校生じゃないんだからさ……。そういうのはどうかと僕は思うよ」

「え? 子供っぽかった?」

「うん、ものすごく。僕らの歳で『王子様』とかリアルで言うの、どうかな」

 聞き返した私に力いっぱい頷いてみせた後、山口くんは空を見上げる。

 新年早々、雲一つなく晴れ上がった真っ青な空は、何だか目に眩しかった。

「確かに佐藤さんはそういう子供っぽい発想しても、違和感ないけどさ……」

 山口くんの言葉に、私の口元には思わず照れ笑いが浮かんだ。


 そう、私も山口くんもとっくに高校生ではない。

 ないんだけど、私と来たら誰と会っても『変わってないね!』って言われる。一応は勤めに出てる社会人なんだし、大人っぽくなった方がいいのかなと自分でも思うんだけど、背伸びをするにはまだちょっと気恥ずかしくもあったりして。私なんかには似合わないかな、って思っちゃう。

 大学生の山口くんは服装も高校時代より一層おしゃれになったし、ますます格好よくなったと思う。東高校の黒い学生服を着ていた頃よりもずっと大人っぽくて、ともすれば私より年上の人にさえ見えてしまう。

 でも山口くんを王子様と呼びたいのは、今みたいに大人っぽくなったからじゃない。

 私はずっと前から、それこそ山口くんを好きになるよりも前から、山口くんのことをすごく理想的な人だって思ってた。勉強もスポーツも何でもできて、お友達も多くて、クラスメイトの私にも優しく接してくれて。何をするにもとろくて不器用で上手くできない私とは、別世界の人だって思うくらいだった。


 だけどその時、

「……あ」

 不意に思い出したことがあって、私はつい声を上げてしまった。

 山口くんが不思議そうにこっちを見る。

「今度は何? また変なこと思いついた?」

「う、ううん。何でもないよ」

 慌てて首を横に振る。

 思い出したのは別に変なことじゃない。むしろ大切なことだ。


『別世界の人間じゃないよ。ちゃんと、隣にいるだろ?』

 昔、まだ私たちが東高校に通っていた頃。

 空港から帰る電車の中で隣に座った山口くんが、私にそう言ってくれた。


 私はその時までずっと山口くんを特別な、私とは何もかもが違う人だと思っていたから、その言葉を貰った時は本当にすごくびっくりした。

 いや、びっくりしたのはそれよりも前に貰っていた、別の告白の方だったかもしれないけど――確実にそっちの方だけど、でも、後に続いた言葉だって本当に意外だった。

 そしてそれは事実だった。山口くんは確かに何でもできるすごい人だったけど、別の世界に住んでいるなんてことはなかった。私と同じように小さなことで悩んだり迷ったりするし、時には些細な失敗だってするし、言おうと思ったことをなかなか口に出せなかったりするような人だった。

 というより、人は誰でも皆そうなんだって、私は山口くんから教えてもらったような気がする。

 私が特別駄目な人間だなんて、劣等感を持つ必要はないんだって。


 当時交わした会話を思い出しながら、そうだったなあ、と私はしみじみする。

 山口くんを『王子様』なんて呼ぶのはよくないよね。

 だって、そう、山口くんが言ったように、リアルじゃないんだもの。

 何でもできて、すごく格好よくなって、私にとても優しい山口くんは、それでも別世界の人じゃない。私と同じ人間だし、今は、私の隣にいてくれる。

「じゃあ、訂正するね」

 参拝客の列が進んでようやっと拝殿が見えてきたタイミングで、私はそっと切り出した。

 山口くんがこっちを見て瞬きをする。

「訂正?」

「うん。山口くんは王子様じゃなくて――」

 私はそれに代わる、より山口くんにぴったりの単語を探そうとした。

 だけど頭のよくない私は語彙だって貧弱だし、それらしい言葉がなかなか思い浮かんでこない。それで結局、あまりにも平凡な言い回しだと思いつつもこう言うしかなかった。

「すごく、格好いい人だよね!」

「はあ!?」

 山口くんはまたしてもぎょっとした様子で声を上げた。面食らった様子で眉間に皺を寄せている。

「な、何、急に……」

「だって、王子様っていうのは適当じゃないって思ったから」

「いや、でも、だからってそんな言い方しなくてもいいだろ」

 少し焦っているんだろうか、目が泳いでる。心なしか頬が赤いのも、寒空の下にいるからというだけじゃないはずだった。

 私だって多分、同じだ。こういうストレートな言い方をするのは何だか恥ずかしい。

「変かなあ」

 私が照れながら尋ねると、山口くんは間髪いれずに頷いた。

「変だよ」

「そっか……。何か、上手く言えたらいいなって思ったんだけど、山口くんのこと」

 微妙な反応を貰って私がへこみかけた時。

 私の肩、正確には二の腕の上の方を山口くんがぐっと掴んだ。そのまま力を込めて抱き寄せられて、私の胸が山口くんにぶつかる。どきっとして顔を上げた時、山口くんは私ではなく、人混みの向こうを見ていた。

「ほら、言ってる端からこれだ。よそ見してると流されちゃうって」

「あ……ご、ごめん」

 慌てて私が謝ると、山口くんは改めて私を見下ろしてから、なぜかしまったという顔をした。すぐに目を逸らしながら言われた。

「いや、僕も別に……別にって言うか、気にしなくていいけど」

「ううん、気をつけるよ。ごめんね、お正月だから浮かれてたのかも」

 確かに私、浮かれてる。

 迷惑かけて謝ってるのに、心配かけちゃったなって思ってるのに、なぜだか口元が緩んでしまう。笑いたいって言うか、嬉しくて、つい笑っちゃうって言うか。

 私が場違いに笑っていたせいか、山口くんはむっとしたような顔で私から離れた。

 でもその後で、軽く手を握ってきた。

「もう、繋いじゃった方が安全だと思うからさ」

 もごもごと歯切れの良くない声で山口くんは言う。こっちを見ていない横顔は笑ってなくて、気まずそうだった。

「だから、まあ、子供っぽいとも思うんだけど、繋いどこうかなって」

「……うん」

 私が頷けば、山口くんは気まずげにしながらも軽く笑った。

「僕もこの方が安心できるし。佐藤さんがどっか行っちゃう心配もないしさ」

 繋いだ手は少し冷たかったけど、そのうち温かくなった。

 そして私は、こうして手を繋いでくれる山口くんが、やっぱり格好いいなと思う。


 ……でも、ちょっと違うなあ。

 違うって言うか、格好いい、っていうだけじゃ足りない気がする。


 押し合い圧し合いの混雑を抜け、ようやく参拝を終えた後、私たちは人波に飲まれないよう急いで参道を抜けた。

「人が多いと疲れるな」

 山口くんはそう零した後、お参りの間は一旦離していた私の手を改めて握ってきた。

 私が黙って顔を上げると、当然だって言いたげな顔をする。

「はぐれたら困るから」

 私も手を繋ぐのは嫌じゃなかった。むしろ嬉しかったから、黙って頷いた。

 すると山口くんも黙って一度顎を引いてから、歩き出しながら何気ない調子で口を開く。

「あのさ。別に、嫌だったわけじゃないから」

「何のこと?」

 聞き返すと、少しの間言葉が途切れて、

「えっと、つまり、王子様呼ばわり……みたいなの」

 すごく言いにくそうにしながらも山口くんは続けた。まるで笑うのをぐっと我慢しているような、作ったようなしかめっつらで。

「やっぱ正直、子供っぽいとは思うけど。佐藤さんがそう思ってくれてるなら」

「もちろん、思ってるよ」

 私は、今度は言葉に出して頷く。

「……でも、人前で口走るのはどうかと思うな。何か、バカップルって感じだし」

 山口くんは更にそう続けてから、咎めるように私を見た。

「だからさ、次言う時は、僕ら二人しかいない時にして欲しいな」

「そっか……じゃあ、周りに誰もいない時ってこと?」

「そうそう。二人きりの時じゃないと、こっちも反応しづらいって言うか……」

 言われてみれば確かに、空気の読めない発言だったかもしれない。傍から見たらすごく子供っぽい会話だったりしたかな、さっきの。

 私が内心慌てていると、山口くんもなぜか慌てたように言い添えてきた。

「あ、別に、変な意味で言ったんじゃないから」

「うん。変な意味だとは思ってないよ」

「それはそれでまた複雑なんだけど……まあ、いいか」

 山口くんは私の手をきゅっと握ると、白い息を空に向けて吐きながら呟いた。

「いちいち動揺しないようになんないとな。佐藤さん、本当、突拍子もないから」

 かもしれないなあ、って私も思う。

 もうちょっと、思ったことを上手く言えるようになれたらいいのにな。山口くんをびっくりさせないように。でも、山口くんにちゃんと、伝わるように。

 手を繋ぎ合って隣に並んで、私は山口くんを見つめている。格好いいなあって思うし、隣にいてすごく安心できるし、大好きだ。


 今のところは嫌じゃないって言ってもらったから――山口くんは私の、すぐ隣にいる王子様です。

 だけどもっと違う言葉で、子供っぽくない言葉で、そういう気持ちを伝えられるようになりたいって思う。

 それが私の、新年の抱負です。

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