僕の彼女は佐藤さん(2)
八月ともなるとどこの服屋でも夏物処分セールを始めている。
僕は値引き札を提げた夏服を次から次へと見て回り、佐藤さんに似合う服を探した。
「こういうの、どうかな」
僕が白いワンピースをハンガーごと持ち上げると、佐藤さんは目を丸くしてその服を見た。
「これ? 何かちょっと大人っぽいね」
フリルをたっぷり使ったそのワンピースは、夏らしく膝上ぎりぎりのミニ丈だった。着ると肩が覗くようなオフショルダーで、ずり落ちないように細い肩紐を結んで着るようにできている。
「佐藤さんに似合うと思うよ、こういうのも」
是非彼女が着たところを見てみたい。僕はそう思ってこの服を勧めたんだけど、佐藤さんの反応は芳しくなかった。服には手を伸ばさず、尻込みするみたいに苦笑している。
「あの、思ったより肩とか出るみたいだし、露出が多いかなって……」
「夏だからこんなもんじゃない?」
「それと、丈も短いような……私、脚細くないし……」
「佐藤さんなら大丈夫だよ」
体育の時間なんかによく見てたけどそこまで太いとか思ったことないよ――という本音は口にしなかったものの、僕は佐藤さんが大人っぽい格好をするところを見てみたいと常々思っていた。きっと似合うだろうし、見違えると思う。あの東高校の文化祭で、劇をやったときだってそうだったじゃないか。
だからこのワンピースを勧めたのであって、別に佐藤さんにミニワンピを着せたいとか肩出しって色っぽいから佐藤さんにも是非とかそういったやましい気持ちは、ちょっとくらいしかない。
どっちにしろ普通にやましいかもしれない。
「こういう服を着た佐藤さんを見てみたいんだ」
僕が正直に告げると、佐藤さんは目をぱちぱちさせてから恥ずかしそうに俯いた。
「え……でも、似合うかな? 私、ヒナちゃんみたいに大人っぽくないし」
確かに佐藤さんは大人っぽくない。と言うかぶっちゃけ子供っぽい。
でも女の子は着る物一つで雰囲気変わるものだというし、実際それを、佐藤さん自身も実証しているはずだ。高校三年の秋、文化祭の時に僕もそれを目の当たりにしていた。あの時の佐藤さんは、本当に――。
「絶対似合うよ。それに大人っぽくなれると思う」
駄目押しのように言っても、佐藤さんはまだためらっている。僕の趣味で選んでいいと言った割に随分迷うんだな、と僕は吹き出しそうになる。笑ったら悪いから我慢したけど。
「試しに着てみてよ。変だと思ったら、僕に見せないで脱いじゃっていいから」
そこまで提案してようやく、彼女はおずおずと頷いた。
「うん、それでもいいなら……」
もちろん、一旦着た以上は確実に見せて貰うつもりでいる。じゃないともったいない。こんな服を着た佐藤さんが見られる機会なんてそうそうないんだから。
そして見せてもらったらめちゃくちゃに誉めて、もう言いすぎじゃないかってくらいに誉めて、今度のデート辺りで着てきてもらえるように仕向けるつもりだ。
作戦は完璧。こうして少しずつ、佐藤さんを可愛くしていこう。
まごつく彼女を試着室へ連れて行き、中へ入らせてカーテンを閉める。
「じゃあ少し待っててね、山口くん」
「いいよ」
僕は頷き、試着室の真向かいの壁に寄りかかった。少しと言ったけど何かととろい佐藤さんのことだ。きっとかなり待たされるだろう。
それならのんびり待つしかないか。僕は暇でも潰そうと、ポケットからケータイを取り出した。
とそこで、佐藤さんが入った試着室から大きな姿身一枚を隔てた隣の試着室前に、鳴海先輩が立っているのに気づいた。
先輩は僕と同じように壁に寄りかかり、腕組みをして立っていた。見れば先輩の真正面の試着室もカーテンがしっかり閉じられており、恐らく柄沢さんも試着中なんだろうと推測できた。先輩はそれを待っているらしく、黙ってじっと宙を睨んでいる。
いや、『睨んでいる』とは言ったものの、その横顔は思ったより穏やかだった。目つきがきついから睨んでいるように見えるだけで、待たされて手持ち無沙汰で苛立っているそぶりはなかった。こうして見ると本当に落ち着いた雰囲気の人だ。モノトーンの服装がその静けさに拍車をかけて、まるで背の高い影が壁に張りついているように見えた。
僕がついしげしげと見てしまったせいか、鳴海先輩もこちらを向いた。僕の視線に怪訝そうな顔をしたから、何となく会釈をして、とりあえず話しかけてみる。
「先輩も、着替え待ちですか?」
「ああ」
鳴海先輩が頷く。相変わらずにこりともしない。
僕は初対面の相手にいつもそうするように愛想笑いを浮かべた。
「女の子の着替えって長いですよね。結構待たされそう」
試着室の中にいる佐藤さん達には聞こえないよう、声を落として言ってみる。
先輩はやっぱり笑わず、冷静な視線を閉じたカーテンに向けた。
「俺は慣れてる。慣れた方が早い」
「あ……そうなんですか」
「ああ」
簡潔な返事の後、沈黙が落ちる。
鳴海先輩は衣擦れの音がする試着室を見つめ、僕はそんな先輩を横目に見ながら思う。
会話続かなさすぎ。
まあ普通に考えても彼女の元クラスメイトなんて微妙な縁の相手と、楽しくお喋りしようって気にはならないかもしれない。僕だって先輩と楽しくお喋りしたいとか思ってたわけじゃない。しかしそれにしたってもうちょい言いようがあるんじゃないだろうか。やっぱり噂通り、結構面倒な先輩なのかもしれない。
でも、聞いてた噂とはちょっと違った。今の会話も弾まなかっただけで棘はなかったし――聞きようによれば先輩からのありがたいアドバイスみたいに聞こえなくもない。校内で喧嘩を売り歩いては理詰めで相手を言い負かした、なんて悪い評判が嘘のようだ。噂なんていい加減なものだと言えばそうなんだろうけど。
先輩は確かに待ち慣れているようで、全く微動だにせず壁にもたれている。この五分くらいの間に一度として腕時計を見たり、苛立ったように溜息をついたリすることはなかった。佐藤さんの言う通り大人って感じのする人だ。そういえば二個上だから、もう成人してるんだっけ。
「……何だ?」
またしても怪訝そうな先輩が、今度は声に出して、僕の視線の意味を尋ねてきた。
まさか『噂で聞いてたのと雰囲気が違ったんで驚いてたんです』とも言えず、僕は慌てた。
「あ、いえ別に――」
ちょうどその時、鳴海先輩の真正面で試着室のカーテンがわずかに開いた。カーテンの上部にだけ隙間を作り、身体は見えないようにしながら柄沢さんが顔を出す。
「先輩、着終わったので見てもらえますか?」
「わかった」
鳴海先輩は僕を一瞥してから試着室へと歩み寄る。
僕はそちらを見ないように、自分の目の前にある試着室に視線を戻した。佐藤さんはまだ出てくる気配もなく、時々肘でもぶつけているのかカーテンが揺れるのが地味に気になる。
そんな僕の耳に、鳴海先輩と柄沢さんの会話が聞こえてくる。
「この水着はどうなんだ。さすがにやめた方がいい」
「どうしてですか? 先輩の好みじゃないですか?」
「いや、好みかどうかという話ではない。これを着て人前を歩くのか?」
「人前って、海では皆こうですよ。恥ずかしがるほどのことじゃないです」
何やら揉めているようだ。落ち着き払った柄沢さんの声とは対照的に、試着室に首を突っ込んだ格好の鳴海先輩は随分慌てていた。
「いいからこれはやめろ。俺も何だか目のやり場に困る」
「別に見てもいいですよ、先輩なら」
「何を……、そういう問題じゃないと言っているんだ」
鳴海先輩が一瞬言葉に詰まったのが、僕にもわかった。
「私もどうせなら、先輩に気に入ってもらえるような水着にしたいんです」
「気に入ったとは言ってない」
「じゃあ気に入りませんか?」
「そうとも言ってない。いいから着替えろ、いつまでそうやって肌を晒している気だ」
鳴海先輩、彼女の水着姿くらいで慌てすぎじゃないか。僕はおかしいのを堪える為に唇を噛み締めなければならなかった。
噂なんて結構当てにならないものなのかもしれない。少なくとも今の慌てている鳴海先輩に、かつて東高校で流れていたような噂の片鱗は全く見当たらない。言い負かすどころか柄沢さんに押されているくらいだ。
だからまあ、噂してた連中も話盛ってるとこあったのかな、なんて僕は思う。
人間、直に会って接してみないとわからないものだ。そんなの当たり前のことなんだけど、なぜだか僕らはすぐにそのことを忘れてしまって、人の話を鵜呑みにしては他人にレッテルを貼りたがる。
佐藤さんのことだって、そんなふうに接していくうちに好きになったんだ。隣にいなければわからないことがたくさんあった。時間をかけて、ゆっくり好きになっていった。
「山口くん、山口くん」
ふと気がつくと、正面の試着室のカーテンが開いていて、佐藤さんが僕を呼んでいた。
僕はようやくかと顔を上げ、そして着替えを済ませた佐藤さんを見た。
佐藤さんは白いオフショルダーのワンピースを着ていた。肩口にぎりぎりかかるような大きな胸開きの服のおかげで、丸みを帯びた肩やくっきりしたきれいな鎖骨がはっきりと見えた。女の子の鎖骨は男のものと趣が違っていて、こうして見ると佐藤さんはすごく華奢なんだと思う。剥き出しの肩に結んだ細いストラップが妙に頼りなげでどきどきする。佐藤さんは丈が短いのが気になるようで、ちょっと内股になってもじもじしていた。スカートの裾から覗くすべすべの膝と白いふくらはぎが妙に目に眩しい。
「や、やっぱり……ちょっと恥ずかしいかな。どう?」
こわごわと佐藤さんが尋ねてくる。
僕は思わず息を呑み、急に激しくなった動悸に声さえ上手く出せなくなった。
「え、いや、あの」
めちゃくちゃに誉めるんじゃなかったのか。どうにか自分を正気づかせて、答えた。
「か……可愛いよ。すごく」
「本当?」
ぱっと佐藤さんが赤くなる。
でも多分、僕の顔もそれなりに赤くなっていただろうし、さっきの鳴海先輩のことが言えないくらい慌てて見えていただろうと思う。
「嘘じゃないよ。何て言うか……ものすごく可愛い。よく似合ってて、本当に可愛い」
可愛いの他に言うことはないのか。この誉め言葉は佐藤さんのことが言えないくらい酷くないか。僕は内心で自分に突っ込んだ。
もっとも佐藤さんには、それが嘘のない、素直な言葉に聞こえたみたいだ。
「ありがとう、山口くん」
恥ずかしそうにしながらそう言って、それから自分の姿を見下ろし、心から嬉しげに笑った。
「じゃあこの服、買っちゃおうかな……」
佐藤さんは試着をしたワンピースを買った。
そして柄沢さんも、結局試着した水着を買ったらしい。ほぼ同時にレジに並んで、店も一緒に出た。
「じゃあまたね、二人とも。今度C組の皆で集まりたいね」
そう言い残して、柄沢さんは鳴海先輩と共に店の前から歩き出す。彼女は手に服屋の紙袋を提げていたけど、すぐに鳴海先輩が手を差し出した。
「雛子」
先輩が静かな声で名前を呼ぶと、柄沢さんは心得ているみたいに紙袋を先輩に手渡した。そして先輩が袋を提げ、もう片方の手は柄沢さんと繋いで、道の向こうへ遠ざかっていく。
鳴海先輩って、全然普通の人だよな。
噂って本当に当てにならないな。僕は改めて実感しつつ、隣の佐藤さんに目を向ける。
佐藤さんも二人を見送ってから僕の方を見て、ふふっと笑った。
「素敵なカップルだよね、あの二人。ドラマに出てくる恋人同士みたい」
「そうだね」
僕は頷いてから、ずっと気になっていたことを佐藤さんに尋ねた。
「佐藤さんは、鳴海先輩のこと知ってたの?」
すると彼女は瞬きをして、
「会ったのは初めてだよ。話には聞いてたけど」
「そっか。……僕も、噂は聞いてたんだけどさ」
あれだけ噂との相違を実感した後で、先輩の悪評を蒸し返すのはためらわれた。でも佐藤さんは、意外にも笑って続けた。
「私も。噂も聞いてたし、でもヒナちゃんからも話聞いてたから、一度会ってみたいって思ってたの」
どうやら佐藤さんは、鳴海先輩の悪い噂を知っていたらしい。
その上であんなふうに挨拶をしたのか。
「会って、話して、ヒナちゃんの言うことの方が本当だって確かめたかったんだ」
佐藤さんはそう言うと、屈託のない表情で笑った。
「そしたらやっぱり素敵な人だったね、鳴海先輩。ヒナちゃんの言う通りだったよ」
もし鳴海先輩が噂通りの怖い人だったらどうするつもりだったんだろう――なんて、佐藤さんは考えもしなかったのかもしれない。
言葉に嘘のない佐藤さんは、同じように誰かの素直な言葉を信じるんだろう。無責任に流れてくる噂じゃなくて、きっと心を込めて語られた言葉の方を信じたんだろう。直に話せばわかるって、僕よりも早く気づいていたに違いない。
僕は佐藤さんの、そういうところが好きなんだ。
「……この服、次に会う時に着てこようかな」
佐藤さんがふとそう言って、自分で提げた紙袋を見下ろす。
それから僕を見上げて、はにかむ表情を浮かべる。
「そしたら私も――私達も、素敵なカップルになれるかな?」
予想外の問いかけに心臓が跳ねた。
佐藤さんがそんなことを言うとは思わなかったし、上目遣いの眼差しが妙に大人っぽく見えた。買った服を着ないで、紺色のTシャツとデニムスカートに戻った佐藤さんなのに、今の表情には何だかすごく、どきっとした。
でもそこまで言ってもらったんだから、僕も素敵なカップルに倣って何か大人っぽいことでもしようと思い、深呼吸をしてから告げた。
「なろうよ。僕と……み、みゆきちゃんとで」
どもった。無様にどもった。
おまけに声が震えてた。
と言うか、『みゆきちゃん』って言い慣れなくて照れるしすごくどぎまぎする。でも『みゆき』なんて呼び捨てにするのは乱暴に思えたし、ずっと『佐藤さん』って呼んできたから違和感がある。かといって『みゆきさん』はないよな。同い年なんだし。
いやそれ以前にちっとも自然に呼べてない時点で駄目だけど!
佐藤さんはきょとんとしてから、気遣うように微笑んだ。
「えっと、無理して名前で呼んでくれなくてもいいよ」
「む、無理なんてしてない!」
そりゃ自然じゃなくて超ぎこちなかっただろうけど佐藤さんはこんな時まで素直すぎる。
「すぐに慣れるよ。ずっと呼び続けてればそのうちに」
「でも何か、山口くん辛そうだし。それに私も慣れないし……」
佐藤さんはそこで一旦言葉を止め、躊躇するみたいに息をついてから、
「私も、その時は、あ……篤史くんって、呼びたいから」
彼女は僕よりはどもらなかった。
だけど声が震えてた。やっぱり少し、ぎこちなかった。慣れてない感じが可愛くてだけど妙にくすぐったくてぞわぞわして、僕が笑うと佐藤さんも少し笑った。
「自然に呼べるようになるまで、もうちょっとだけ山口くんって呼んでてもいい?」
「わかった。じゃあ僕も、自然に呼べるようになっておく」
「うん」
佐藤さんはほっとした様子で頷く。
それから僕らも店を離れ、八月の炎天下を歩き始める。
「佐藤さん」
「何? 山口くん」
「暑いけど、手、繋いでいい?」
「……うん。いいよ」
手を繋いで、僕らなりのペースで歩いていく。
僕の彼女は今のところ、『佐藤さん』だ。
いつかは名前で呼びたいけど、慣れないうちは背伸びはしないでおく。そりゃ素敵なカップルには憧れるしなりたいと思うけど、他人を真似たところで格好ついてないんじゃ意味ないから。
時間をかけて、彼女のことをゆっくり好きになっていったように――いつか自然に名前で呼び合えるようになろうと、僕らはお互いに思っている。




