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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
最後の秋の佐藤さん
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十一月の佐藤さん

 佐藤さんは僕の携帯電話を覗き込んで、言った。

「すごくよく撮れてるよ」

 それから僕を見て、遠慮がちに笑ってみせる。

「山口くんもちゃんと写ってるよ。……見たくない?」

「見たくない」

 僕は即答した。

 クラスの子に撮られた写真は、僕と佐藤さんが劇の格好のままで並んで写っているらしい。

 誰が自分のネズミ姿を見たいなんて思うだろうか。佐藤さんが写ってなければ速攻で消去するくらいなのに。


 僕は、佐藤さんだけが写ってる画像が欲しかったのに。

 それすら言わせてもらえぬまま即席撮影会は終わり、既にお互い着替えを済ませている。佐藤さんはすっかり化粧も落として、制服姿に戻ってしまった。頭の後ろでまとめた髪だけが貴婦人の名残を留めていた。隣に座っていると、うなじの解れ毛が気になる。

 もちろん僕も制服姿で、ひげのメイクも落としていた。今はわずかな自由時間を利用し、佐藤さんと二人で遅い昼食を取っている。文化祭もそろそろ終わりに近づいている頃、模擬店はどこも品薄で、冷めたたこ焼きと温いラムネをやっとの思いで手に入れた。

 人気のない非常階段は、二人きりでいるには都合のいい場所だった。休憩所として用意されている空き教室には生徒も来賓も大勢いる。僕は佐藤さんと二人きりがよかったから、わざわざ静かな場所を探して、ようやく見つけたのがここだった。

 最上段に並んで腰を下ろし、僕たちはラムネを飲んで、たこ焼きをつまんだ。

 喉はからから、お腹もぺこぺこだったから、温さも冷たさもまるで気にならなかった。


「素敵に写ってると思うんだけどな」

 佐藤さんはそう言いつつ、画面をちゃんと消してから僕に手渡してきた。おかげで例の画像は見ずに済んだ。

「本当に格好よかったんだよ、ネズミ役」

「……気持ちはうれしいんだけどさ」

 誉め言葉自体はやっぱり、どうしたってうれしくない。

 僕は携帯電話をポケットにしまった。それから佐藤さんに目を向ける。

 化粧を落としてドレスを脱いだ佐藤さんは、いつもと同じ姿に見える。髪型だけがまだ貴婦人のままだけど――これも明日には、色気のないひとつ結びに戻るんだろう。

 寂しいような、ほっとするような、複雑な気分だった。

「佐藤さんこそ、その髪型も似合うよ」

 今更みたいに僕は誉める。落ち着いてしまった気持ちは、熱のこもらない言葉になって零れた。

 それでも佐藤さんは喜ぶんだろうけど、僕はもう少し違う言い方がしたかった。今となっては口にできないような、素直な気持ちを告げたかった、本当は。

 非常階段はしんとしていて、小さな声でもよく響く。こういう場所で素直になるのは難しいのかもしれない。

「ありがとう。でも、私一人じゃできない髪型だから」

 ほつれかけた髪に触れながら佐藤さんは笑う。

「教えてもらったらいいんじゃないかな。たまにそういうのもいいと思う」

「うん、そうだね。卒業までに覚えたいな」

 彼女がさりげなく、その言葉を口にする。

 僕は非常階段の肌寒さと、窓から射し込む陽の色を気にし始める。


 文化祭ももうすぐ終わり、十一月も終わってしまう。先に待っているのは十二月と一月と二月。三月はほとんどないようなものだ。

 僕らが参加するまともな学校行事も、この文化祭で最後となる。

 次の学校行事は――卒業式。それが終わると本当に、何もなくなる。

 佐藤さんと同じクラスにいられるのもあと少しだ。

 佐藤さんの隣には、一体いつまでいられるだろう。冬休みが近い。年明け以降の登校日は何日もない。僕には大学入試が控えている。残された時間は本当にわずかだ。


「最後の文化祭、だね」

 僕の内心を読んだみたいに、ぽつりと彼女はそう言った。

 視線を向けると、ラムネのビンを握り締めた姿が映る。

「最後だけど……すごく、楽しかった。私ね、びっくりするくらい楽しかったの。今年の文化祭は、三年間で一番思い出に残った文化祭だと思う」

 隣に座る彼女を見下ろし、僕もそっと息をつく。それから告げた。

「僕も、いろいろな意味で忘れられない文化祭になりそうだ。この歳になってネズミ役なんてやらされるとは思わなかった」

「うん。私も忘れられないと思う」

 顔を上げた佐藤さんが頷く。

「山口くんの変身を手伝えたのもうれしかったな。白馬の頭、上手く渡せてよかった」

 本番中の出来事を思い出す。馬の被り物を渡してくれたのは佐藤さんだった。転がり込んだ先に彼女がいて、声を掛けてもらって、僕もうれしかった。

「舞台袖にいたのが、佐藤さんで驚いたよ」

「大道具の子が忙しくて、本番直前にお願いされてたの。自分の出番より緊張したけど、山口くんがちゃんと受け取ってくれたから、失敗しなくて済んだんだ」

 彼女も笑顔でいるのを見て、ちゃんと受け取れてよかったと思う。お互いに、いい思い出になった。

 大道具の子が忙しかったっていうのは明らかに嘘だけど。

 今となっては悪い気もしない。僕と佐藤さんのことをある意味で誤解してくれているから、外堀を埋めるとはこのことだろう。

「山口くんがいたからだよ」

 ふと、僕の思考に彼女の声が割り込んでくる。

 隣に座る佐藤さんが僕を見ていた。優しい、穏やかな笑顔だった。

「最後の文化祭が楽しかったのは、山口くんのおかげ。本当にありがとう」

「え……いや、別に何にもしてないよ」

 僕は慌てた。

 事実、佐藤さんに対して何かしてあげた記憶もなかったし、何かあったとしても記憶に残らないくらいだ、どうせ大したことじゃないだろう。佐藤さんはどうでもいいようなことにでも感謝したがる性格だから、感謝される方は困る。どう反応していいのかわからなくて慌てたくなる。

 同じように僕が言ったって、佐藤さんはきっと慌てたりしないのにな。

「ね、山口くん」

 動じる僕をよそに、彼女はいつもどおりの調子で続けた。

 その時、ほんの少しためらうそぶりを見せたような気もしたけど、気のせいだったのかもしれない。

「ひとつお願いがあるの。聞いてくれる?」

 思わせぶりな問いかけと、真っすぐな眼差し。

 もう化粧は落としているにもかかわらず、見つめられるとたちまち僕の声が上擦った。

「な、内容によるけど……」

 それで佐藤さんは笑顔のまま、さらに続けた。

「あのね。さっきの、写真のことなんだけど」

「写真?」

 って、何だっけ。

 ああそうだ、さっき撮ってもらった写真だ。僕と佐藤さんが並んで写ってるあれ。あれのことだろうか。

「あの写真、よかったら、私の携帯にも転送してくれないかな」

「え……い、いいけど」

 佐藤さんが欲しがるとは思わなかった。少なからず驚いた僕を見て、彼女がはにかむ。

「記念になるでしょ?」

「まあ、ね。そりゃあ、なるかもしれない」

 ぎくしゃく顎を引いてから、言い添えてみる。

「だけどあれ、僕も写ってるからさ。あんな格好だし……佐藤さんひとりで撮ってもらった方がよかったかもな」

 どう見ても全身タイツのネズミは余計だろう。そう思っていた僕に、だけど佐藤さんはかぶりを振る。

「ううん。山口くんが写ってるのがよかったの」

「――え?」

「本当言うと、山口くんひとりの写真が欲しかったんだ。自分の写真を見るのは、お芝居の格好しててもやっぱり恥ずかしいから」

 どうってことないみたいな口調で、ごく自然に、佐藤さんは言った。

 その自然な言葉が僕の頭の中から、何もかもを根こそぎかっさらっていった。

 後に残るものはなく、真っ白になる。忙しない心臓の音が、妙な期待を掻き立てる。


 今の言葉、どういう意味なんだろう。深読みしてもいいのか?

 いや、でも、佐藤さんのことだし。別に深い意味もないのかもしれない。でも思わせぶりだ。思わせぶりにも程がある。他の女の子なら告白のタイミングで言いそうな台詞だ。だけど相手が佐藤さんだから、どう反応していいのかわからない。

 佐藤さんは鈍いし、おまけに気が利かない。だからこんな二人きりの時に、僕の気持ちを知った上で、ああいう台詞が言えるんだ。きっと、そうだ。

 気の利かなさだけなら、今の僕も大して変わらないんだろうけど――。


 ろくに声も立てられなくなった僕は、黙って携帯電話を開いた。

 保存してあった例の画像、仏頂面のネズミときれいな貴婦人の写真を、佐藤さんの携帯電話に転送する。その作業も淡々とこなした。

「送っておいたよ」

 全部終わってから告げると、隣で佐藤さんが笑った。

「本当にありがとう。宝物にするからね」

 深読みしたい。だけど、できない。つくづく佐藤さんは思わせぶりだ。

 それからは何も聞けなくて、何も言えなくなって、僕はひたすら黙っていた。自由時間が終わってしまうまでずっと、ろくに口も利かなかった。


 十一月の佐藤さんも、十一月の僕も、相変わらずだった。


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