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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
最後の秋の佐藤さん
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化粧をしない佐藤さん

 土曜日の午後はきれいな秋晴れだった。

 思ったより風は冷たく、上着を出しておいてよかったと思う。月が替われば一気に寒くなるはずだ。

 葉を落とす街路樹を横目に見つつ、僕は駅までの道を歩いていた。


 文化祭でこそいい思い出は作れそうにない僕だけど、悪いことばかりでもないらしい。

 衣装を買いに行くという口実の下、佐藤さんと休日に会う約束を取りつけていたからだ。

 何せこっちは受験生の身だし、佐藤さんも就職活動中とあって、学校以外で会うのは久し振りだった。そのせいか少し緊張しているみたいだ。風に吹かれるたび前髪が気になり、立ち止まって直したくなる。

 近頃は劇についての憂鬱が頭を占めて、受験勉強もあまりはかどっていない。だから佐藤さんに会いたかった。もっとたくさん会ってもいいくらいだけど、あいにくと僕らはまだただのクラスメイトという間柄だ。お互いに進路の懸かった時期というのもあって、理由でもない限り誘いにくいのが現状だった。

 その点、今回は彼女からの誘いだ。

 それはもう、うれしかった。


 佐藤さんと会う時、待ち合わせ場所はいつも駅前と決めている。

 歩いてくる彼女とバスに乗ってくる僕、所要時間が釣り合うのがちょうど駅前周辺だった。

 僕が駅前の広場に到着した時、佐藤さんは既にそこにいた。黒のカーディガンとデニムジーンズ、それに白いマフラーという、失礼ながらあまり色気のない服装だった。髪型もいつもと同じひとつ結びだ。

 衝動的に駆け寄る前に、ちらと時計を確かめる。

 午後一時十五分。待ち合わせの約束をしたのは一時半だったから、お互いに早く来ていたということになる。

「佐藤さん」

 僕は歩み寄り、声を掛けた。

 彼女ははっと顔を上げる。こちらを見て、安心したように笑ってくれた。

「あ、山口くん! 早いんだね」

「佐藤さんこそ、けっこう早く来てた?」

 冷たい秋風のせいか、佐藤さんは頬も耳も赤くなっていた。彼女はマフラーに顔をうずめるように頷く。

「うん。一時前にはもう着いてたの」

「そんなに?」

 僕はぎょっとした。

 そうなると相当待たせていたことになる。待つのはよくても待たせるのは申し訳ない。慌てて詫びた。

「ごめん、僕ももう少し早く来ればよかった」

「え、いいよ。私が勝手に来ただけだもん。気にしないで」

「連絡してくれてもよかったのに、早く来いって」

「そんなこと言えないよ。山口くんはちゃんと、時間守ってくれたんだし」

 佐藤さんがかぶりを振る。

 その後で駅舎の方を見て、続けた。

「駅に用事があって、それで早目に来てたんだ。本当に気にしなくていいからね」

 それで僕は、彼女が赤くなった手で握っている小さな冊子に気がつく。

「時刻表、もらってきたの?」

「うん」

 佐藤さんは、なんでもないことみたいに答えた。

「春から私、勤めに出るから。一足先に通勤ルートを見てきたの」

 思わず息を呑む。

「……あ、そう、なんだ」

 佐藤さんが進学せず、卒業後の進路に就職を選んだことは知っていた。進学しないのはうちのクラスでは彼女ただ一人だ。僕らが受験勉強に追われている間、彼女は就職活動に勤(|いそ)しんでいたことも教えてもらっていた。就活に関しては彼女の方が先輩だから、僕が大学生になったらいろいろアドバイスをもらう約束もしていたほどだ。

 知っていたのに、思った以上に驚いている僕がいた。

 本当に社会人になるんだって、そんなことを今更みたいに思った。

 じゃあ就職先は決まったのか。おめでとうくらいとっさに言えてもいいものなのに、どうしてか言葉が出てこない。

 佐藤さんは、硬直する僕に告げてくる。

「まだ先生にしか話してないんだけど、就職先決まったんだ」

「へ、へえ」

「って言っても、親戚の勤めてるところなんだけどね。お弁当屋さんの事務のお仕事なの。ちょっと遠いから電車に乗って行かなくちゃいけないんだ。だから今のうちに慣れておきたいなって」

 そう語る佐藤さんは、気のせいかいつもより大人びて見えた。

 いつもと同じ、垢抜けない格好をしているのに。髪だって色気のないひとつ結びのままで、化粧だってろくにしてないのに――表情がいきいきと明るく、瞳もきらきら輝いていて、今の僕には眩しく見えた。


 ごくりと喉が鳴る。

 どうしてだろう。佐藤さんの表情とは裏腹に、僕は漠然とした不安を覚えた。

 不安というより寂しさかもしれない。彼女が僕より先に進路を決めて、僕はまだ入試を控えた身だから焦っているんだろうか。でも、それとはまた違うような気もする。

 いや、そんなことはどうでもいい。それより先に言うべきことがある。


「ええと、その、おめでとう」

 かなり遅れて、僕はお祝いを口にした。

 ぎこちない口調になっていたと、自分でも思う。

「ありがとう」

 佐藤さんの方は至って自然に笑っていた。

「まだ実感湧かないんだけどね。春から働くようになるんだなあって思ったら、上手くできるかなとか、ちゃんと続けられるかなとか、不安がいっぱい浮かんできて」

「大丈夫だよ、佐藤さんなら」

 僕は彼女を励ましたかった。

「今から通勤ルートを調べておくくらい真面目なんだから、きっと上手くいくよ。長続きだってすると思う」

 真面目さだけなら確かだ。不器用だし気は利かないし、他の部分では心配も大いにあるけど、でも佐藤さんにはいいところだってたくさんある。

 だから大丈夫だ。

 そう思いたかった。根拠はないけどどうしても、信じたかった。

「山口くんに言われると自信ついちゃうな」

 彼女は明るい声で言い、それから時計を見た。笑顔で僕を促してくる。

「あ、長話しちゃってごめん。そろそろお店行こうか?」

「うん」

 僕は頷いた。

 そして駅前の商店街目指して、肩を並べて歩き出す。 


 商店街のアーケード下を隣り合って歩きつつ、僕は時々彼女の横顔を盗み見た。

 男子と出かけているっていうのに、化粧ひとつしていない。せいぜいリップクリームを塗っているくらいだ。ひとつ結びの髪に工夫は感じられないし、服装だって野暮ったい。隣にいるのは、僕のよく知っている佐藤さんだった。

 だけど、春からは化粧をするようになるのかもしれない。

 自分でお金を稼ぐようになったら、少しくらいは垢抜けた格好をするようになるのかもしれない。その唇に色がついたり、今とは違う髪型をするのかもしれない。スーツを着ることだってあるんだろう。そうして僕よりずっと大人になってしまうのかもしれない――。

 僕らがクラスメイトでいられるのも三月までだ。

 四月からはそれぞれ別の進路になって、隣にいる機会も少なくなってしまう。会えない時間が増えても、佐藤さんには笑っていて欲しいと思う。楽しい社会人生活を送って欲しいと思う。

 ただ、あまり変わらないでいて欲しい、とも願ってしまう。


 漠然とした寂しさが胸を過ぎり、僕は店に着くまで何も言えなかった。


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