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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
番外編その1
40/115

佐藤さんの手と、僕の手と(2)

 生徒玄関を照らす陽も陰り始めた頃、ようやく佐藤さんは現れた。


 疲れた様子の彼女は、相変わらずのろのろとした足取りでやって来た。

 だけど靴箱に背を預けていた僕を見て、立ち止まる。驚いたように声を上げた。

「山口くん! どうしたの、こんな時間まで」

「待ってたんだ」

 僕は素直に告げた。そして佐藤さんを更に驚かせた。

「そんな、どうして? 山口くんはバス通じゃない。待っててくれたのはうれしいけど、こんなに遅くまで残ってるなんて……」

「だって、誕生日だから」

 言葉を遮り、僕は言う。

「今日、佐藤さんの誕生日じゃないか。プレゼント渡そうと思って、待ってたんだ」


 教室で渡せたらよかったんだけど、それは出来なかった。

 放課後まで待って、一緒に帰ろうと声を掛けて、どこか寄り道でもした先で渡そうと思った。ちゃんと、素直な言葉を添えて。この間の映画館での失敗を、挽回するつもりで。

 だけどその計画はあっさりと破綻した。高田先生が悪いわけじゃなく、佐藤さんのせいでもない。誰かのせいにするようなことじゃない。

 僕は待っていた。もう誰も居残っていないだろう校舎に、日が長いはずの夏の夕暮れの終わり頃まで、黙って待っていられた。それだけの気持ちが僕にはある。


 佐藤さんが僕の方へ、靴箱の前まで近付いてきた。

 靴音を止めて瞬きをする。赤みの残る目元に、睫毛の影が忙しなく動く。

「私の誕生日、知ってたんだ」

 びっくりしたような声で言われたから、思わず笑ってしまった。

「知ってるも何も、IDに入ってるだろ。佐藤さんの誕生日」

「え? あ、そっか。そうだったよね」

 腑に落ちた様子で、佐藤さんも笑う。

「でも、知っててくれたなんてうれしいな。ありがとう、山口くん」

 今日で、佐藤さんは十八歳だ。ちっともそんな感じはしないけど。

 僕は鞄を開け、用意してきたプレゼントを取り出す。

 手のひらに乗る大きさの、ピンク色の紙袋だ。

「これ、プレゼント。大したものじゃないけど」

 そう告げると、佐藤さんは急いでかぶりを振って、

「そんな、気を遣わなくてもいいのに」

 と言い出したから、その手に紙袋を押し付けてやった。

「もう買っちゃったから遅いよ。返品しに行くのも面倒だし、貰っておいて」

 触れた佐藤さんの手は、今も冷たい。指先がすぐにぎゅっと握られて、紙袋を受け取ってくれた。

 僕は内心ほっとして、手を離す。

 佐藤さんの顔に笑みはない。笑い方を忘れたみたいに呆然としている。唇がぎこちなく動いて、躊躇いがちな声が聞こえた。

「ありがとう、山口くん」

「うん。おめでとう、佐藤さん」

 僕は頷いた。

「ありがとう……」

 その言葉を繰り返した佐藤さんは、次の瞬間あ、と声を上げた。

「ごめんね。待っててくれたのに、すっかり遅くなっちゃって」

「いいよ」

 本当はよくないけど、僕は答えた。次はこんなことないようにして欲しいけど、難しいかな。僕は、どのくらい待たされても待っていられるだろうけど。

「プリント、ちゃんと出来た?」

「うん、何とか。間違えてるところもあったけど、そんなに怒られなかった」

 佐藤さんの頑張りは実を結んだんだろうか。それとも、先生も早く帰りたかったんだろうか。どちらでもいいけど、今は彼女を称えたい気分だ。頑張ることはそれだけでも貴い。

「あ、山口くん。開けてみてもいいかな」

 まだ上履きのままの佐藤さんは、すっかり誕生日プレゼントに気を取られているようだった。

「いいよ。それ、もう佐藤さんのものだしね」

「ありがとう」

 すぐに佐藤さんは紙袋を開けて、不器用な手つきで中身を取り出した。残照を受けて光るビニールの中には、折り畳まれたリボンが入っている。

 桜に近いピンク色の、つやつやした布地のリボンだった。

「これ……私に?」

 取り出した手が動きを止めて、佐藤さんは瞬きも止めてしまう。

「さっきからそう言ってるよ」

「山口くんが選んでくれたの?」

「まあね」

 柄にもない買い物をしたと自分でも思う。

 もっと実用的な、文房具とかの方がいいのかなとも考えた。だけど佐藤さんの子どもっぽい趣味には合わせられないし、そのくらいなら、女の子が喜びそうな普遍的なものを選んだ方がいい。

 リボンの色は直感で選んだ。

 そう言えば前に、彼女の髪に触れたことがあったな、なんて思いながら。

「ありがとう……何だかきれい過ぎて、もったいないくらい」

 佐藤さんが言うから、僕は首を竦めた。

「もったいないなんて言わないで、どんどん使ってくれる方がうれしいな」

「あ、そうだね」

 ふっと笑った佐藤さんが、次の瞬間、俯いた。

 冷たいはずの手が、ビニールに包まれたリボンを握る。潰れないように、優しく包む。


 生徒玄関に沈黙が落ちる。

 夕日が少しずつ、光を失くしていく。誰の気配もなく、ここには僕らだけがいる。

 僕は次の言葉を探していた。告げようと思っていたことがあったのに、それが見つからない。

 佐藤さんも同じく、言葉を探しているように見えた。


 やがて、佐藤さんが顔を上げた。

「私……」

 かすれた、どことなく疲れた声に聞こえた。

 一つ結びの髪が解れ始めている。ちゃんと結い直してあのリボンで束ねたら、もっと可愛く見えるだろうか。

「さっきまで、ちょっとだけ落ち込んでたの」

 独り言みたいに言ってから、少し笑う。

 その後に続いた言葉は、思いのほか明るさを取り戻していた。

「数学は全然わからないことだらけで、どこを勉強していいのかすらわからなくって、私ってどうしようもないなあとか、本当に皆と卒業出来なかったらどうしようとか、先生にもこんな遅くまで残って貰っちゃって悪いことしたなとか、いろいろ考えてて」

 一息でそこまで言うと、佐藤さんは苦しげに息継ぎをした。

 そして、

「でも」

 と言った。

「でも、山口くんのお蔭で、落ち込んでた気持ちがどこかに行っちゃった」

 僕は驚きに声を上げそうになった。慌てて言葉を引っ込めると、喉の奥が鳴る。

 佐藤さんが笑んで、更に続けた。

「山口くんって、やっぱりすごいよね。私、教室に残っている間もずっと落ち込んでたの。何だか先生に申し訳なくて、どうしようもないのが辛くて、プリントも上手く捗らなかったのに、教室で山口くんが声を掛けてくれたら、すうっと気持ちが楽になったんだ」

 口元は笑っている。だけど彼女の瞳は赤く、潤んで見えた。

「今も、そう。山口くんのお蔭で、いいお誕生日になったよ。私、本当に、うれしい……」

 リボンを握る手が震えている。

 白くて、滑らかな手。

「この間もそうだったの。映画を観に行った時」

 僕が、あの手の冷たさを知った日のことだ。僕は佐藤さんと初めて手を繋いだ。隣で緊張する僕をよそに、佐藤さんは特別動じた様子も、意識している様子もなかったように見えた。

 だけど、佐藤さんは言う。

「山口くんに手を握って貰った時、すごく安心したの。びっくりするくらい、ほっとしたの。山口くんの手、頼もしいなって。いろんなことを何でも簡単にやってくれる手が私の手を取ってくれてる、それだけで本当に安心出来て、やっぱりすごい手なんだって思ったの」

「そんなこと、ないよ」

 否定する僕の声は無様にかすれた。

 でも、本当にそうだ。すごいなんてことはなく、僕の手はただの手だ。何か奇跡が起こせる訳でもない。

「ううん。あるよ」

 なのに彼女は言い張った。

「山口くんの手は、特別。きっとすごく大きなことを掴み取れる手だと思う」

 そうだろうか。僕の手は、欲しいものにさえなかなか伸ばせない、触れられない手なのに。あのリボンも、佐藤さんの手も、或いは彼女そのものにも。

 それとも、本当に何でも叶えられる手なんだろうか。

 僕の手には、僕が知らない力が備わっているんだろうか。

 佐藤さんの言うとおりだとしたら――。

「私……私の手は」

 ふと、佐藤さんが呟いた。

「私の手でも……何か、掴み取れるのかな。時々不安になるの。私の手は、一体何の為にあるんだろうって」

 彼女の視線が足元に落ちる。

「もしかしたら私の手、何も、掴めないのかもしれないな……」

 その足元に雫が落ちた。すぐに消えて、見えなくなる。

 佐藤さんは声を立てない。静かに肩を震わせている。俯き加減の白い頬に、涙が流れ落ちている。


 僕の手は、すぐに動いた。

 彼女の頬に、触れてみた。

 涙はもう既に冷たく、触れるとひんやりしていた。指の腹で拭うようにして、そっと頬を包み込む。思っていたよりもずっと滑らかだった。

「掴めるよ」

 僕は、上手く言葉を口に出来ない。

 佐藤さんが望む言葉は知らない。だけど、たとえ気休めにしかならないとしても、これだけは嘘もなく告げられると思った。あまりスマートな言い方ではないのかもしれないけど。

「僕の手でよければ、いつでも掴んでくれていいから。僕の手が特別だって言うなら、きっと、佐藤さんの為になれると思うんだ」

 佐藤さんが本当に掴みたいものも、僕は知らない。

 でも、そこに行き着くまでの助けにはなれると思う。僕は佐藤さんの為になりたかった。佐藤さんが僕を必要としてくれるなら、本当に何でも出来るだろう。

 涙をいっぱい溜めた目が、じっと僕を見る。

 頬に添えた僕の手には、冷たい手が触れていた。縋るように触れて、その後で握られる。

「ありがとう」

 唇をぎこちなく動かして、佐藤さんは言った。

「私、ごめんね、泣いたりして……でもうれしかったの」

 彼女が濡れた睫毛を伏せると、僕の指や手の甲を、温かな涙が伝い落ちた。

「山口くんがいてくれたら、私、頑張れると思う。もう少し頑張ろうと思う」


 僕はようやく、佐藤さんの為になれることを見つけられたように思う。

 佐藤さんは僕の手を掴んでくれた。必要としてくれた。それで辛い気持ちが少しでも紛れて、頑張れると思ってくれるなら、幸せなことだ。

「山口くんの手、温かいね」

 吐息に紛れるような微かな声が、すぐ目の前で聞こえる。

「ありがとう、私に、掴ませてくれて」

 そう言った佐藤さんの手が、ゆっくりと熱を帯びてくる。ずっと繋いでいたいと思う。

「こちらこそありがとう」

 僕は告げて、少し笑った。佐藤さんにまた一つ、大切なことを教えて貰った。

 僕の手は本当に特別なんだろう。佐藤さんの為なら何でも出来る手だ。

 今も、佐藤さんを笑わせることが出来た。まだ涙の浮かぶ瞳でも、頬に雫の跡が残っていても、ちゃんと笑って貰えた。


 帰りのバスが来るまでの間、僕と佐藤さんは少しだけ話をした。

 日はすっかり暮れていて、空には金星が光り始めていた。外にもほとんど人気はなく、学校前の通りは静かだった。遠くで水銀灯の明かりが瞬いている。

「山口くん、今度、勉強を教えてくれない?」

 泣いた後の顔で、佐藤さんは言った。

「私、頑張る。頑張って、山口くんと一緒に卒業したいもの」

「いいよ。わからないことがあれば、何でも聞いてくれていいから」

 頷いた僕は佐藤さんの笑顔を見て、同じように笑う。

 涙の跡は切ないけど、こうして二人でいる時間は途轍もなく幸せだった。


 明日にはいつも通りの佐藤さんと会えると思う。

 地味でとろくて気が利かなくて、特別美人じゃないけれど、頑張り屋で前向きな佐藤さんに。

 それから、ピンクのリボンがとてもよく似合う佐藤さんに、必ず会える。

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