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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
番外編その1
39/115

佐藤さんの手と、僕の手と(1)

 教室に残っているのは佐藤さんだけだ。

 静まり返った放課後遅く、教室の床に佐藤さんの影が伸びている。彼女は最後列、窓側から二番目のあの席で、数学のプリントと向き合っている。

 ペンを持つ手は止まりがちで、消しゴムの出番の方が多いようだった。真剣で、難しげな顔をして、じっとプリントに見入っている。なかなか問題が解けないらしく、時々苦しそうに溜息をついていた。

 廊下から教室内を覗いている、僕に気付く様子はない。


 困ったものだ、と僕は思う。

 先日の数学の授業で行われた、抜き打ちの小テストの結果が、佐藤さんだけは大変良くなかったらしい。昼休みのうちに数学の高田先生に呼び出されていた。

 そして放課後、こうして残されては数学のプリントと格闘する羽目になっている。佐藤さんの勉強が出来ないのは今に始まったことではないけど、何も今日に限って残されなくたっていいのに。


 僕は手持ち無沙汰な思いで、放課後の廊下に突っ立っている。

 佐藤さんの邪魔はしたくないから、時々教室を覗くだけにしている。

 だけどこの分じゃ、何時まで待てばいいのかわからない。佐藤さんの横顔だけは真剣だ。窓からはオレンジの夕陽が射し込んでいて、こちら側は影になって見えている。陰った表情の真面目さは、悲痛なくらいにさえ見えていた。彼女の足元から伸びてくる影は、もうすぐ廊下まで届きそうだ。

 そろそろ待ちくたびれた。

 邪魔をするつもりはなかったけど、手を貸してやる必要はあるかもしれない。


 佐藤さんのペンが止まった瞬間を見計らって、声を掛けてみた。

「……佐藤さん」

 ぱっと、佐藤さんが顔を上げた。

 その拍子に彼女の手から、ペンがぽろりと落ちたから、彼女は慌てて立ち上がる。途端に椅子が、けたたましい音を立てて倒れた。

「拾うよ」

 見かねて僕は教室に飛び込み、彼女よりも先にペンを拾った。

 見慣れた柄の、キャラクターもののシャープペンシル。

「ご、ごめん」

 佐藤さんは慌てふためきながら倒れた椅子を直した。その後で、申し訳なさそうに僕からペンを受け取る。指先が一瞬触れた。

「ありがとう山口くん、拾ってくれて」

「いや、僕が驚かせたんだろ。こっちこそ急に声を掛けて、ごめん」

 僕が告げると、佐藤さんはかぶりを振った。

「ううん。まだ残っている人がいるなんて思わなかったから……びっくりしただけなの。私こそ、騒がしくしてごめんね」

「謝られても困るよ」

 手には、触れた指先の感覚が残っている。もう夏場だっていうのに、ひんやりと冷たい指だった。

 前に、映画館で彼女の手を握った時と、全く同じように冷たかった。

「調子、どう?」

 僕は、机の上のプリント用紙を見下ろしながら尋ねた。

 半分は埋まっているようだ。残り半分は応用問題ばかりだから、余計に時間が掛かるだろうけど。

「うん……そこそこかな」

 佐藤さんは答えて、ちらと複雑そうな顔をしてみせた。

「私が終わらないと、私も、先生も帰れないから、急がないといけないんだけど。でもなかなか進まなくって」

 僕もそうだ。佐藤さんを待っているから、このプリントが終わらないと帰れない。

 だけどそれは告げずに、僕は違うことを言ってみる。

「わからないところ、教えてあげようか」

 数学は僕も、それほど得意な方じゃない。ただ、佐藤さんよりはずっとましだ。何でもそうだけど、彼女に教えられるくらいには出来る。

 瞬きをしてから、佐藤さんは微かに笑った。

「うれしいんだけど、たくさんあるから……」

「それでもいいよ。教えてあげるよ」

「ううん。気持ちだけでいいの」

 急に早口になった彼女は、ふと視線を廊下へ向けた。

 慎重に巡らせた後で僕に目を戻し、声を潜める。

「高田先生に見つかったら怒られちゃうよ、山口くんも」

 数学の先生の名前は、震える声で告げられた。

「そんなのは――」

 気にしないと言い掛けて、僕は口を噤む。


 生活指導の高田先生は、校内の教師の中でも最も高圧的で、生徒から恐れられている。僕もあまり好きではないし、どちらかと言うと関わりたくない部類の相手だった。

 それにもし見つかったりとしたら、その時先生に怒られるのは、僕よりも佐藤さんの方だ。


 僕が言葉に詰まると、彼女は椅子に腰を下ろして力なく笑った。

「さっきも、ちょっと怒られちゃったんだ。やる気がないから酷い点を取ったんだろうって。だから、これは私が頑張らないと駄目なの」

 口元は笑っている。

 だけど彼女の目は、心なしか赤らんでいるように見えた。夕方の、太陽光線の色合いのせいではないと思った。

「このままだと皆と一緒に卒業出来ないぞって、言われたから」

 佐藤さんの口調は穏やかだ。

 そんな風に言われただけじゃないくせに、正直には教えてくれない。本当はもっと違うように言われたはずだ、あの生活指導が相手なら。

 でも、佐藤さんはそうは言わない。

「頑張らないといけないから……大丈夫。心配掛けてごめんね」

 自分に言い聞かせるみたいに言って、佐藤さんは一つ頷いた。表情は明るく見えていた。

「そっか」

 僕はようやく声を出した。食い下がる気にはなれなくて、結局、踵を返す。

「じゃあ頑張って、佐藤さん」

「うん、ありがとう」

 軽く手を挙げたら、笑い返してくれた。そのことだけが救いだった。

 待ってるから、とは言えなかった。

 でも、待つつもりでいた。今の会話が理由じゃなくて、僕はずっと前から決めていたんだ。今日は佐藤さんと一緒に帰りたかった。


 佐藤さんは勉強が苦手だ。

 成績が全てじゃない、なんていうのはきれいごとだろう。佐藤さんは頑張っているのに何もかもが振るわないから、佐藤さんが怠けているのだと捉える人も、いるらしい。現に、僕も一時はそう思っていた。でもそうじゃなくて、佐藤さんはあれでも精一杯、懸命に頑張っているんだ。

 それでも時々、いらいらさせられることがある。今回の抜き打ちテストにしたって僕は、最近やっていなかったからそろそろ来るなと予感していた。少し前からテストに備えていた身としては、佐藤さんの無策ぶりが何となく腹立たしかった。もうちょっと準備くらいしておけば、先生にも怒られずに済むのに。何なら一言教えてやればよかったな。

 彼女の為になりたい。

 何が出来るのかは知らないし、どうすればいいのかもわからないけど、佐藤さんの為になれることがあればいいと思っている。

 佐藤さんは僕にあまりものを頼んだりはしないから、その思いを上手く伝えることも出来ていないけど。


 僕は、佐藤さんからたくさんのことを学んだ。

 メールの文面を考えている間は、つまり相手のことを考えている時間でもあるのだということ。

 休み時間にちょっとつまむお菓子は、とても美味しいのだということ。

 想いを言葉にするのは、それだけですごく難しいのだということ。

 でも、誰かの振る舞いに心を揺り動かされて、素直に感じたことを言葉にするのに、おかしなことも、躊躇う必要もないんだということ。

 それから――そうして言葉に出来る瞬間は、幸せで、心地よいものなんだということ。

 時間は掛かってしまったけど、僕も言葉にして伝えることも出来た。

 全部、彼女のお蔭だ。


 だから今日はその感謝を、形にして伝えようと思っていた。

 出鼻はすっかり挫かれたけど、僕はずっと、佐藤さんを待つつもりでいる。

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