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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
番外編その1
38/115

僕と映画と佐藤さん

 佐藤さんは垢抜けない子だ。

 今日は曲がりなりにもデートだっていうのに、野暮ったいベージュのワンピースを着て、中学生みたいな子供っぽいポシェットを提げて、ヒールの低いサンダルを履いている。もちろん化粧なんてものはしてない。僕が今日の服装はスカートがいいと言ったから、一応考慮はしてくれたんだろう。

 だけどもう一声。せめてもうちょっと大人っぽい格好がよかった。多少なりとも気合を入れてきた僕が隣に立つとめちゃくちゃ浮きそうだ。佐藤さんが浮いてるのはいつでも、どこでもそうだけど。

 でも別に、可愛くないってわけじゃないんだ。佐藤さんは。


 シネコンのロビーで佐藤さんは、ぼんやり突っ立ったままモニターに見入っている。

 流れているのは近日公開予定の映画の予告編だ。

 口を開けたままの表情で、時々目を瞠ったり、くすくす笑ったり、肩をびくりとさせたりと忙しい。高い位置にあるモニター内で作品が切り替わる度、ちらちらと光の色も変わって、その横顔とワンピースとを照らしていた。

 垢抜けなくて地味で野暮ったいけど、その表情が、きれいじゃないとは言わない。


 僕は買ってきたばかりのポップコーンを片手に、いつ声を掛けようかと迷っている。

 これから二人で映画を観る予定だった。だけど延々と流される予告編に夢中になる佐藤さんは、こうして見ても妙に幸せそうだった。きっと彼女なら予告編だけで満足できるんじゃないだろうか。だとしたら安上がりでいいな、全く。

 でもそろそろ上映時刻だ。シネコンは全席が指定だから慌てる必要はないけど、佐藤さんが一緒なら話は別。何かともたつく彼女の為には急いだ方がよさそうだ。


 僕は溜息をついてから、予告編に見入る彼女に声を掛けた。

「佐藤さん」

「あ、山口くん。お帰りなさい」

 こっちを向いた佐藤さんは、にっこりと笑った。

 笑う顔がちらちらとスクリーンの色に照らされる。ちょうどホラー映画の予告編が流れていて、緑色になっていた。

「予告編、面白かった?」

 僕が尋ねると佐藤さんははにかんで、

「うん、とっても! 全部面白そうで、すごく見応えがあったよ」

「……それはよかったね」

 やっぱり、安上がりだ。いかにも佐藤さんらしい。

「私、こういうとこ来るの初めてだから、何だかわくわくしちゃって」

 目を輝かせる佐藤さんが、辺りをきょろきょろと見回す。

 郊外に最近できたばかりのこのシネコンは、真新しいのと便利さもあって結構人気があるらしかった。ロビーに置かれたベンチもぎっしり埋まっていたし、売店にも長い列ができている。

 僕らが今日観る予定だったSF映画も空席が少なくて、結局一番後ろの列になってしまった。デートにしちゃ落ち着かないなと思うけど、まあ、最初のうちはこれでもいいか。

「普通の映画館なら子供の頃よく行ったけどね。こんなにきれいで、大きいところは初めて。観たい映画がいろいろ選べるなんて、いいね」

 佐藤さんがしみじみと言うから、僕も頷いて応じる。

「最近はこういうシネコンの方が多いかな。便利だし、きれいで雰囲気もいいし」

「うん、本当。何だかすごいところで、びっくりしちゃった」

 はしゃいだ様子の佐藤さんを見てほっとする。楽しそうにしてくれててよかった。連れてきた甲斐があった――映画を観終わるまではそうとも言い切れないけど、ともかく。

「そろそろ行こうか」

 放っておくとロビーから離れたがらなくなるかもしれない。あながち冗談とも言えない危惧を胸に、僕は佐藤さんを促した。

「もう中に入ってもいいの?」

 小首を傾げる佐藤さんは、いつものようにぼんやりしている。

「いいって、さっき放送入ってたよ。聞いてなかった?」

「そうだったんだ……私、予告編に夢中になってて、つい」

 確かにそんなふうだった。放っておいたら一日中予告編だけ観てるんじゃないだろうか。そっちの方がいいならそうするけど。

 僕は内心呆れつつも、上映ホールへと歩き出す。

 もちろん、彼女を置いていくつもりはない。

「佐藤さん、行こうよ」

 一度歩き出してから、声を掛けてあげることは忘れない。だって今日は、一応デートだ。彼女が至っていつも通りだろうと、混み合う映画館が落ち着かない雰囲気だろうと、僕も楽しむことは忘れたくない。

 佐藤さんはにっこりとして、後からちょこまかついてきた。


 上映ホール内では、既に派手なCMが始まっていた。シネコンのマスコットキャラクターが、大仰な動作で映画鑑賞のルールとマナーを解説している。照明はまだ落ちていない。

 チケットの表記通り最後列の席に座ると、佐藤さんもすぐ隣に腰を下ろす。教室にいる時と同じく、僕の右隣に座る。

 僕がポップコーンを差し出すと、彼女は嬉しそうに少しつまんで、それから言った。

「ありがとう。やっぱり映画観る時はポップコーンだよね」

「そうだね」

 その点に関しては異論なし。僕は頷く。

 佐藤さんはうきうきと続けた。

「子供の頃はお母さんによく連れてきて貰ってたんだ。映画館に来ると、お母さんは必ずポップコーンを買ってくれたの」

「へえ」

「だから映画の思い出って言ったら、一番に浮かんでくるのはポップコーンかな」

 思い出に真っ先に結びつくのがお菓子だってところも、いかにも佐藤さんらしい。

「ポップコーン以外にはないの? 映画館の思い出って」

「それ以外に? うーん……」

 僕が尋ねると佐藤さんはしばらく考え込んでから、

「そう言えばね、お母さんと観に来る時のことなんだけど」

 はにかみながら話し始めた。

「私、黙って映画観てないんだって、お母さんに注意されたことあって」

「どういうこと?」

 僕は尋ね返すと、佐藤さんは恥ずかしそうに首を竦めた。

「何かね、すぐ声に出ちゃうの。びっくりした時とか、はらはらする時とか、おかしくてしょうがない時とか。映画観ながら声上げちゃったりするから、お母さんがやめなさいって言ったの」

 そう言えばロビーで予告に見入っていた佐藤さんは、口を開けたままの表情で、時々目を瞠ったり、くすくす笑ったり、肩をびくりとさせていた。画面に夢中になっているのが一目でわかるほど、すっかり入り込んだ様子だった。そんな佐藤さんなら映画を黙って観ているなんてこともなさそうだ。

「まあ、周りに迷惑掛けないならいいんじゃないかな」

 僕は笑いを堪えながら、言ってあげた。

「幸い一番後ろの席だし、僕は気にしないよ。うるさくし過ぎなければね」

「うん……」

 だけど佐藤さんはどこか不安そうにして、その時、ふっと照明が落ちる。


 スクリーンでは他の映画の予告編が始まった。

 別のホールで上映されているもの、まだ公開前のものが、次々と賑やかに映し出されていく。目にも鮮やかで、佐藤さんには面白いのかもしれないけど、僕には退屈なだけだ。映画は始まるまでが長い。いつも思う。

「ね、山口くん」

 ふと、佐藤さんの声が耳元でした。

 予告編にまた夢中になるのかと思ったら、真剣な目で僕の方を見ている。

 暗がりにスクリーンからの光に照らされた佐藤さんの顔が、白く浮かび上がるように見えた。

「お願いがあるんだけど……」

 深刻そうに囁いてくる声に、どきっとしつつ尋ね返す。

「何? お願いって」

「あの、これ」

 そう言って佐藤さんが差し出してきたのは、左手だった。白い手だった。

「もしできたらでいいんだけど……手、握っててもいい?」

 ポップコーンを食べてなくてよかったと思った。食べていたら多分むせていた。

 息を呑んだ僕は、直後、平静を装いながら答える。

「な、なんで?」

 装い切れずに声が裏返る。だって、びっくりするじゃないか。何で佐藤さんがそんなこと――僕の先手を取るようなことを、自分から言い出すなんて。

「あのね、うちのお母さんがそうしてくれてたのを思い出したの」

 佐藤さんは僕より落ち着き払って、小声で言った。

「声を上げそうになったら、手をぎゅっと握ると声が出ずに済むよって教えてくれたの。びっくりした時でも、はらはらする時でも、笑いたくなった時も、お母さんの手を握って、声を出さないようにしてたの。だから今日は山口くんに、手を握ってて貰えたら嬉しいなって」

 どんなつもりで言ってるのかはわからない。佐藤さんのことだからあまり深く考えてないのかもしれない。それでも多少なりとも、僕を身近な存在だと思って頼んでくれたんならいいんだけどな。

「私、映画久し振りだから。静かにしてられるか自信がなくて……もしできたら、お願い」

 佐藤さんの切実な表情が、暗がりの中でほんのりと照らし出されている。

 彼女の目に今の僕の顔はどんなふうに映っているんだろう。動揺や下心が露わになってやしないだろうか。

 まあ、手間が省けたとも言えるか。それに悪い気はしないから。

「いいよ」

 僕はポップコーンのカップを、僕と佐藤さんの座席の間にあるスタンドに置いた。

 そして差し出された彼女の手に触れる。

 軽く握った佐藤さんの左手は、ひんやりと冷たかった。僕の手が熱いせいかもしれない。手のひらはなめらかで、思ったよりも柔らかい。

「ありがとう、山口くん」

 ほっとしたような声で、佐藤さんは言った。

「何か、どきどきするね」

 続いたその言葉の意味は、もちろん映画の内容についてなんだろう。僕が思うのは違う意味だけど、素直に頷いた。確かにどきどきする。


 話題のSF映画は思った以上に大迫力で、佐藤さんは声を上げないようにするのが一苦労だったようだ。その度に縋りつくようにぎゅっと握られて、僕は映画に集中できなくなっていた。

 しょうがないから僕は映画の間、何度かいたずらのように柔らかな手を握り返した。だけど佐藤さんは微動だにしない。ちょっと力を込めてみても、恋人同士みたいに指を絡めてみても、佐藤さんの注意がスクリーンから逸れることはなかった。

 二時間弱の映画の中身は、結局最後まで訳がわからなかった。

 覚えているのは佐藤さんの手の柔らかさと、その手にぎゅっと握られた時の胸の痛み、それから映画を見る佐藤さんの真剣な横顔だけだ。

 垢抜けない格好をしてきたいつも通りの佐藤さんは、映画館ではどこかいつもと違って見えた。


 上映が終わって館内に明かりが点くと、佐藤さんがこちらを向いた。

「映画、面白かったね」

「……そうだね」

 全く頭に入ってこなかったくせに僕は頷く。

 それから、繋いだままの手をどうしようかと目をやったら、先に手を離された。

「あ、ありがとう、山口くん」

 佐藤さんは今更のように恥ずかしそうな顔をして、

「ごめんね、結局ずっと手を借りてて……」

「別にいいけど。役に立てたならよかったよ」

「うん、もちろん。頼もしかったよ」

 これは、誉められたんだろうか。

 僕は釈然としない思いでスタンドに放置されたポップコーンを見やる。映画の間はずっと手を繋いでいたし、正直食べている余裕がなくてほとんど手をつけなかった。佐藤さんも食べていなかったけど、これは単に映画に夢中だっただけだろう。

「ポップコーン、余っちゃったな」

「あ、私食べるよ。ロビーで食べちゃおっか」

 佐藤さんがそう言ってくれたので、僕らはロビーに戻り、ベンチに腰かけて残りのポップコーンを片づけることにした。


 映画の後はどこかカフェでも入って一休み、などと密かに計画を立てていたのに、この分だとポップコーンだけでお腹いっぱいになりそうだ。おまけに映画を見てない時のポップコーンは減りが悪い。冷めているせいもあるかもしれない。

 そもそも計画というなら、佐藤さんに先手を取られた時点でぐだぐだだった。


「今日は楽しかったな。またどこか、遊びに行きたいね」

 佐藤さんなんてもう帰る気で、次回の話を始めている。そりゃこんなにお腹いっぱいなら、この後どこか寄っていくという雰囲気でもないだろうけど。

「じゃあまた誘うよ」

 僕はポップコーンを鷲掴みにした後、

「次は、映画以外がいいな」

 そう言ってから自棄食いみたいに口いっぱいに頬張った。

 佐藤さんと一緒の時は映画は駄目だ。僕のペースが乱されてしまうし、結局内容も覚えてない。覚えているのはただ、佐藤さんの手の感触だけだ。

 冷たくて、なめらかで、柔らかかった。

「映画以外か……どういうところに行くのがいいのかな」

 佐藤さんのその手がポップコーンを一粒だけつまんで口に運ぶ。

「私、デートって今日が初めてだから……山口くんの方が詳しいんじゃない?」

 返答に困る言葉の後、足をゆらゆら揺らしている。野暮ったいベージュのワンピース、その裾から伸びる足はやっぱり白くてなめらかだ。手とどっちが――なんて、そんなところに目がいく自分に僕は一人で慌てていた。

 今日はもう、僕の負けってことでいい。

 こんな垢抜けない格好の女の子にしてやられるなんて、悔しいけど。

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