番外編(酒は飲んでも飲まれるな)
昔のプロットから書き起こしました。
俺の名前は、ラジェ・リンドウ・ヤマブキ。
暗殺者の一家で育った。
血縁などないその家だったが、暗殺の才能があったから随分重宝されていた。
殆どの仕事が血生臭かった、ということしか覚えていない。
けれど、王子であるヴィル・アララギを殺そうとしたその日、運命の出会いが俺の人生を大きく変えた。
そう、なんてクサイ台詞なのかと思うかもしれないが、正にそうなのだ。
俺の元主以外には俺と彼女の馴れ初めをきちんと話したことはない。
…確認していないが、彼女も覚えていないのだろうと思う。
以前彼女が攫われ、無事助け出した帰り際、馬に乗る彼女にこの思いを吐露したとき過去の話については何も言ってこなかった。加えて、俺を意識しだしたのは俺が『王子』として彼女に接していた時だったようだから。
あれから、もう二年も経つのかと思うと不思議な気持ちがする。
特殊隊隊長だった自分が、二年後には辺境伯として事務仕事だ。
今歩いているこの家も、辺境伯たる自分のものなのだ。
自分が一か所に留まり、あげく家主になるなど、幼いころは考えたこともなかった。
一仕事終わったと肩を解しながら庭に面した廊下を歩く。
先ほど養父に書類の束を出し終わったばかりだ。相変わらず食えない養父はラジェにさまざま用事を押しつけてくる。家主は自分だが、まだまだその頂点は譲らぬということだろう。
のんびりと歩くが、体がやたらと重たい。
昨日は養父にしこたま酒を注がれた。あれはなんの酒だったのか。ラジェも初めて飲む酒だったが養父程の人脈があれば、自分の知らない酒も用意できるだろう。部屋に戻り泥のように眠ったはずだが、まだ体のアルコールが抜けきっていないようだ。
昔ならこんなことはなかったのにと一人愚痴っていると、目の端にふと薄紅色が見えた。
もしやと思って窓から庭を見れば、木の横から見慣れた色とスカートらしき布端が覗いている。
愛しい妻は、珍しく今日は髪を下しているようだ。
風がふわふわと薄紅色の髪を揺らし、ラジェを招いているようだった。
くすりと笑ったラジェは、二階の窓から木を伝って飛び降りる。
彼女に気付かれないよう、注意を払いながら歩んでいく。
足音を立てずに近付くのは慣れたものだ。
驚かしてやろうと、ばっ!とその顔を覗き込んだが。
「あ」
彼女はすやすやと寝息を立てて眠っていた。
いつもは猫のようにぱっちりと愛らしい薄紅色の瞳は伏せられて、薄く空いた唇の隙間から薄く吐息が漏れている。
あまりの美しさに息が詰まった。毎夜眠る姿は見ているものの、こうして日の下で見ればまた違う。
彼女の全身をなめまわすように見れば、膝元には本が積まれていた。
そのタイトルを見れば、ラジェの力になろうと勉学に励んでいることがすぐに見て取れた。
真面目な彼女の事だ。ここに来てからというもの連日忙しくしているラジェを追いかけるように学んでいたことは知っている。
疲れたのか、午後の麗らかな日差しに誘われて眠り込んでしまったのだろう。
なんと、愛しいのか。
「…ただ不用心なのは、いただけないね」
とはいいつつも、ここは辺境伯となったラジェの屋敷だ。
元特殊隊、現警備隊の者どもの詰所もこの近くにあるから、余程の事がない限り危険なことはないはずだ。ラジェが、そうしたのだから。
ここに来る彼女、フィアナのために全力をかけて。
すやすやと幼い顔をして眠る彼女に一つ笑いを零して、起こすのは忍びないが、キスの一つくらい許されるだろうと首筋の髪をそっと払った時だった。
目を疑った。
そこには、ほんのり赤く染まるまるで虫刺されのような、あれ。
しかしラジェは確信を持っていた。
これは、虫刺されじゃない。
いわゆる、そう。
キスマークだ。
ついたばかりだと思われるそれは、ラジェの覚えがないものだ。
妻は、証を残すことを酷く嫌う。
「…誰だ。俺の姫に…こんなことをしやがったのは…!!」
――――冷静さを見失えば、死ぬ。
そう体にたたき込まれてきたが、今度ばかりはそうもいかない。
一気に燃え上がった怒りに、ラジェは拳を振るわせる。
「フィアナ…」
そっと彼女の頬を撫で、ぐいとその首筋に口づける。
痕を消すように強く吸いつけば、フィアナが驚いて息を吸う音が聞こえた。
どうやら起こしてしまったようだ。ばたばたと手足を動かして逃げようとするが、全身を使って抑え込む。
「な、ななな、なにっ!!ラジェ?!」
驚いた彼女の声が聞こえるが、更に唇を寄せる。
途端、頬に鋭い痛みが走った。
「な、なにするの…!!」
妻にぶたれたらしい。
顔を真っ赤にした彼女は全身をわなわなとふるわせている。
寝起きの混乱と、恥ずかしさで口をぱくぱくと開閉して、いうべき言葉を探しているようだ。
その愛らしい姿を抱きしめたいと思い手を伸ばす。その痕は誰にやられたのだと尋ねるべくラジェが口を開いた時だった。
「ちょっと、主。こんなところでいちゃつかないでください」
ラジェの背後から庭の剪定をしていたらしいラジェの部下が現れ、彼女の羞恥心にとどめをさした。
彼女は体中を真っ赤に染めて「いやああああ!」と叫ぶと、本を置き去りに屋敷に走り去って行った。
残されたラジェは呆然とし、庭師の格好をした男は麦わら帽子をくいとあげて「あ、こりゃまずかったか?」とたらりと汗を流す。
「おい」
「はい?」
「今すぐ今見たものを忘れろ」
「…了解いたしました」
「すぐに忘れるのは難しいだろう?手伝ってやるからその頭をよこせ」
「あ、いえ。大丈夫です。今、忘れました」
「そうか」
ラジェはにっこりと笑うと、麦わら帽の下の厳めしい面を思い切り殴った。
「理不尽!!!」という隊員の声が庭に木霊した。
その数分後、ラジェの一斉号令により元特殊隊の面々が一堂に集っていた。
どの顔も厳つく、体は大きい。
これだけ人が集まれば熱気で蒸し蒸しとなりそうなものだが、ラジェから迸る激しい冷気に、男たちは顔を青くしていた。
「緊急任務だ」
にっこりと笑ったラジェに嫌な予感を覚えた部下たちは一様に顔を見合わせた。
彼らが知る限り、最近は至って平和。
緊急任務など覚えのない話である。しかし隊長のこの怒り様だ。気を引き締めねばと彼らは仁王立ちするラジェをみつめる。
「…なんでしょうか」
「俺の姫に、手を出した不届き者がいる」
そのラジェの言葉に、厳つい面々に衝撃が走った。
「ま、まさか…そんな猛者が?!」
「あのお方に手を出すなど」
「正気の沙汰とは思えんな」
「ああ、俺もそう思う。そいつは正気を失っている。俺に殺されるのがわかっていながら、そのような行動に及んだのだから。さぁ、出て来い。一思いに殺してやろう」
「その口調だと、俺らを疑っているように聞こえるんですがね」
「出てこい」
「いえ、だから」
「殺す」
「そんな猛者いませんって!」
ぎらぎらとした目で腰につるした剣を触るラジェに、部下たちはたらりと冷や汗を流す。
「わかるか、この俺の気持ちが。辺境伯の名を継ぐべく一年、今までとは桁違いの座学や実務に追われ、しかし彼女を思って乗り越えた。が、その先で待ち受けていた遠距離…。やっとだ。やっとだぞ。王子と姫が婚約して彼女がここにきて、この事態。信じられるか。殺さねば俺の気がおさまらんのだ」
静かに剣を抜き放つラジェに、部下たちは焦ったように立ち上がる。
「落ち着いてくださいって!!おい、ルチエはどこだ!俺らでは手がつけられんぞ」
「ルチエは買い出しに出かけていると聞いたぞ…」
「なんという不運!」
「隊長の奥方に手を出すバカはいません!」
「どうか気をお静めください―――!!」
「おれたちが信じられんのですか!」
「本当に隊長は疲れていらっしゃるのだなぁ…」
「呑気に言ってる場合か!みな、にげろ!」
ルチアが帰ってくるまで、と信じ、隊員たちはその場を駆けだす。
すらりと剣を抜いたラジェはどいつから捕まえるか、と目を配った。
さて、と一歩踏み出したところで愛しい妻の声が耳に届いた。
「なにしてるんです!」
「フィアナ…」
一度は庭から離れた彼女が、廊下からかけてきていた。
庭が騒がしいと思ったら、と呟く彼女はまだ羞恥心が抜けやらないのか、やや頬を染めて視線を彷徨わせた。
「なんの問題があったんです」
「いや、君に手を出した不埒ものをくびり殺そうとおもってたところ」
はい?と首を傾げたフィアナは、自らの首にぱっと手をやるとみるみるうちに赤面した。
「ラ 、ラジェ…あなた覚えてないんですか」
はて、とら首を傾げるラジェにフィアナの目つきが険難になっていく。
「みなさん揃いも揃って。ピクニックですか?」
ゆらゆらと怒りを漂わせるフィアナの後ろから、荷物を抱えたルチエが現れた。買い物から帰ってきてそのまま庭に来たようだ。遠くにかけていく隊員の姿を見て「新しい特訓ですか?」と首を傾げている。
「ルチエ…剣を貸して頂戴」
突然のフィアナからの申し出に、ルチエは目を瞬かせたが、すぐに荷物をおろし、膝を折って剣を恭しく差し上げた。
「どうぞ。奥様」
「ま、まて!ルチエ!」
「そこに御直りなさい、ラジェ」
「姫!落ち着いて!」
ぎらりと光る刀身に、ラジェが一歩下がる。
「勘違いでみなさんに迷惑をかけるなんて!」
これをしたのはあなたでしょ!と叫ぶフィアナに、ラジェが目を瞬かせる。
ルチエの横にこそこそと戻ってきた特殊隊の1人がささやく。
「どういうことだ…?」
「あぁ、昨日養父様が飲ませたお酒でラジェ様が酔っ払って、フィアナ様にいたずらしただけさ」
楽しいこと好きの養父が、ラジェを酔いつぶすためだけに強力な酒を取り寄せていた。
それを探してきたのは何を隠そうルチエである。
「ルチエ、さすがにあれはまずいのではないか?」
剣を振り回すフィアナから、苦笑いをしながらラジェが逃げ回っている。
怒りをそこそこ発散させたら剣を取り上げるつもりなのだろうが。
「大丈夫。刃はつぶしてあるからね。姫の力なら思い切り主をぶっても、痣くらいにしかならないさ」
「まぁ、これくらいは当然か」
「うん、身から出た錆さ」
あ、と呟いたルチエが口に手を当てて
「主、あまりフィアナ様に無理をさせないでくださいね!お子に触ります」
「え」
「ル、ルチエなんで知って…」
「筆頭執事たるもの、なんでも、察してますよ」
にかっと笑ったルチエの前で、ラジェがさっと剣をフィアナから取り上げると、そのまま彼女を抱き抱え、喜びをあらわにする。
主人のこんな姿を観れるとは、とルチエは目を細める。
ラジェが記憶が曖昧になる程酔えるのも、この屋敷が本当に彼の家になり、彼の身に迫る危険が遠ざかった証拠。
その幸せ溢れる光景がいつまでも続くためならば、自分はなんでもしよう。
大事な奥方から生まれる新しい生命を守ると、ルチエもまた、深く心に刻むのだった。




