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その二十五(影の決断)


 ジノが言った言葉がフィアナの頭の中をぐるぐるとまわる。

 

『王子』が『ラジェ』で…『ラジェ』は『影武者』ではなく『暗殺者』?

 

 

 

「何?どういうことなの…?!」

 

 

 困惑するフィアナをよそに、灰色のマントを翻しジノは腰から剣を抜き取った。刀身が暗い森の中で鈍く光り、ジノの歪んだ笑みを映しだす。

 その様子にも王子は冷静だった。自身の腰の剣はまだ抜かずに、王子は痛ましげにフィアナを見て、眉を顰めた。

 

 

「姫…私は、あなたに言わなければならないことがたくさんあるんだ」

「お前が言わなくとも、俺が言ってやる!」

 

 ジノが目を血走らせながらフィアナを振りむいた。

 

 

「こいつはな、幼少のころから人を殺しまくってきた。今もコイツは根っからの殺し屋さ!」

 

「…もう私は違う」

 

 唖然とするフィアナの前でジノは叫び、王子は目を静かに伏せた。

 

 

「私は、彼女と会って…変わったんだ。もう、人は殺していない」

 

 その言葉がジノの琴線に触れたようだった。ジノの身体がぶるぶると震え、蟀谷こめかみには青筋が浮き、目が真っ赤に充血していく。

 

 

「あの後リンドウの家をぐちゃぐちゃにしやがったお前が何を言いやがる!!」

 

 

 ジノは喉を枯らしながら叫び、剣を構えて王子に向かって走り出した。

 

「俺にとっては…俺にとってはあんな家でも全てだったんだっ!!」

「お前…まさか…!」

 

 王子はジノの言葉に驚いたように叫んだが、すぐに目を鋭く光らせ、腰から短剣を放った。

 ジノは走りながら剣で短剣を弾き、確実に距離を詰める。王子はちっと舌打ちをすると、横に走りながらもう一度ナイフを投げつけた。

 なんなくナイフを避けたジノが、雄叫びをあげながら王子に切りかかる。それを紙一重で避けた王子の頬から血が迸った。

 

「王子っ!!」

 

 フィアナは思わず叫んだが、王子は冷静だった。

 血が噴き出たことを気にしていないかのような顔で、一度下げた足を踏み込むと、腰の剣を抜きそのまま切りつける。

 ジノの灰色のマントの前側が破れたが、その身体には傷一つついていないようだ。

 

「ふん。天賦の才能なんて言われてたが、すっかり腕がなまったようだな」

 

 にやりと笑うジノはそういって自分の頬をとんとんと叩いた。

 王子の頬を流れる血を指していることがわかり、ぴくりと王子の眉が動く。

 しかし何を話すでもなく、静かに剣を構えなおすその姿は悠然としていた。

 何かが、おかしい――――――ジノがそう思ったとき、後ろで草を踏む音がした。

 

 ジノが振り向こうとその首を捩った瞬間、目の前の王子が鋭く切りかかりながら叫んだ。

 

 

「走れ!姫!!!」

 

 

 その言葉に全てを察したジノは、目を吊り上げながらその剣を受けた。

 ギィン!と金属が奏でる不協和音が二人の間に響いた。

 ぎりぎりと歯を食いしばりながら、憎々しげにジノは叫ぶ。

 

 

「き、さまっ!さっきの短剣は紐を切る為の…!!」

「用があるのは、私だけだろう!」

 

 

 今度は、本気を出させてもらう!そう叫んだ王子の声を背に、フィアナは走った。

 走りながら目を凝らせば、少し先が下り坂になっていることに気付いた。

 この坂を下りれば、彼らの視界からは隠れることができる――。

 そう思って必死にフィアナは走った。

 

「この野郎!!」

 

 

 そう叫んだジノの声がフィアナの背中を叩いた途端、血が逆流するような痛みが脇腹を貫いた。直後にドスッという音がして地面に突き刺さったのは、ジノの短剣だった。

 フィアナの体はぐらりと傾いて、地を掴み損ねた足がずるりと泥に取られた。まずい、と思った時には既に坂を体が転がり落ちていた。

 

 

 

「っきゃあああぁ!!」

 

「姫―――――っ!!」

 

 

 体中が地面にたたきつけられる。

 必死で足掻いた手が草を掴んだが、地面を抉っただけでフィアナの体を引き留めてはくれなかった。

 体が、坂を滑り落ちていく。

 

 

 王子の叫ぶ声と、金属のぶつかる音が遠ざかっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぽつりぽつりと雨が降る。

 

 

 頬を打つ冷たいものに、フィアナはそっと目を開けた。

 

 

「…う」

 

 

 

 ぼんやりとした視界に、草の絡みついた自分の手が見えた。

 何度か目を瞬かせると、視界がはっきりしてくる。

 

 どうやら地面に横たわっているらしい。葉と土の匂い、そして口の中からは鉄の味がした。

 

 

 ―――――そうか、坂を転げ落ちたのね。

 

 

 あの時、王子が投げたナイフは正確にフィアナを縛る縄を断ち切った。

 王子は目線すら寄越さなかったけれど、あれは狙って投げたものだったのだろう。

 必死に縄を解き、解毒薬で自由になった体で駆けた。

 

 一瞬の戸惑いは、王子の「走れ!」という声にかき消された。

 

 

 そして、急な痛みに足を取られて―――。

 

 

 

 眉を顰めながら起き上ろうと地面に手をつけると、ずきりと脇腹が傷んだ。

 見れば、じんわりと血がドレスに滲んでいた。

 しかしコルセットのおかげか、出血の割に傷は浅いようだった。

 坂を転げ落ちたせいで体中に細かい傷はあるが、どうやら全てかすり傷で済んでいるようだ。

 打撲した肩や膝には痣ができるだろうし、そこらかしこにある傷はじくじくと痛むが、このくらいの痛みなら、耐えられる。

 

 

「…こんなところで訓練が役に立つなんて…」

 

 

 毒と同じように、痛みにも多少は耐性がある。

 姫を守り、国を守るための術が、どうやら自分を救っているようだとフィアナは息を吐いた。

 このままここにいても仕方がないと、息も切れ切れになりながら、フィアナは立ち上がった。

 

 途端に体中が痛んだが、ぐっと歯を食いしばると痛みの感覚が遠ざかって行った。

「はぁ」と息を吐くと、足を引きずるようにトボトボと歩きだす。

 直ぐ先にあったここいらでも一際大きな木の幹の傍で、フィアナはへたりと座り込んだ。

 

 

 雨脚は強くなって、フィアナは頭の先から足までぐっしょりと濡れそぼっていた。

 シャアラ姫に借りたドレスは埃と泥とで茶色に変わり、片足は靴が脱げてその素足を晒していた。今のフィアナには美しく着飾った姿の面影はない。

 フィアナは足を引き寄せ、小さく縮こまった。

 

 

 

 折角助けを呼べるチャンスだったのに―――。

 

 

 

 フィアナは胸元を握りしめ、先程転がり落ちただろう坂を見つめた。

 途中途中に木が突き出ている。その木々にぶつからなかったのが奇跡だし、とてもじゃないがボロボロのフィアナの身体でこの坂を登りきるのは無理に思えた。

 木を使えば身軽な者ならできる芸当かもしれないが、痛む脇腹やこの擦り切れた掌では、木を掴んで体重を支えるなどできそうもない。

 

 どの道自分が戻ったところで、役には立たないだろう。

 

 だからといって助けをどこに求めればいいのかも思いつかなかった。

 馬に乗れれば先程の男の馬を奪って、まだ希望を求めれたかもしれないが、自分は馬にも乗れない。

 

 

「なんて、役立たず…」

 

 

 頭の中がぐるぐるする。

 

 

 今どうしたらいいかも、ジノの言葉も、いろんな言葉が頭をごちゃごちゃにかき混ぜる。

 もう気を失ってしまいたいくらいだったのに、冷たい雨が現実を押し付けてくる。

 

 …今頃は国に帰っているはずだったのに。

 

 

「姫は…無事かしら」

 

 あの湖の畔でシャアラを逃がした時の、涙でぐちゃぐちゃになった顔が思い出される。

 アパネは賢い馬だ。きっとシャアラを乗せて逃げ切ってくれたと信じたい。

 

 

 ただ、シャアラを逃がした代償にフィアナは捕まり、今はこんな状態だ。

 

 

「私で…よかった」

 

 フィアナはぽつりと呟いた。

 

 ――――こんな目にあったのが影武者の私で、本当に良かった。

 

 そう思ったのに、ぽろぽろと涙が零れてきた。

 雨ではなく、目から零れ頬を伝うものを必死で拭うが、止まらない。

 

 

「な、なんで…」

 

 

 目を見開き声を漏らせば、思わず嗚咽が零れた。

 

「うぅ…ぐすっ」

 

 今更、手足が震える。

 体を抱きしめても、震えは止まらなかった。

 

 

 ――――私、怖かったんだ。それに凄く、嬉しかったんだ。

 

 

「王子が…来てくれたことに…私、喜んでる…!!」

 

 

 ――――私は姫じゃないから、誰も助けになんて来ない。

 

 その考えに嘘はなかった。このまま死ぬんだと思っていた。

 王子が助けにきてくれたあの場面が、瞼の裏に鮮明に蘇る。途端に胸に広がるのは、喜びだった。

 

 その時、ジノと名乗ったあの男の言葉が耳の中で木霊こだました。

 

 ―――――『王子』じゃあないな。こいつは、天賦の才能を持つと言われた『暗殺者』だよ。

 

 今は、このことに対して明確な答えをフィアナは持たない。

 情報も足りな過ぎる。

 ただ、これだけははっきりしていた。

 

 

「私は…彼がどうしようもなく好きなんだわ」

 

 

 こんな時になってやっと自覚した。心を寄せるなんて、そんな言葉じゃ済まないくらい、情けないくらい彼に傍にいてほしい、助けに来てほしいなんて心のどこかで思っていたのだ。

 シャアラに辛くあたってしまったのも、そのためだ。

 自分でなんとかできる、耐えられる、侍女フィアナでいられる…そんな押さえなんてきかないくらい、気付いたら好きになっていた。


 彼が港町で言ってくれた言葉。

 

 ―――――隣で、ただ微笑みあえるような存在ひとといられれば、それで。

 

 あの言葉が、彼の笑顔が、自分に与えてくれた全ての思い出が、光り出す。

 

 彼がどんな人だったとしても、確かに彼といた時間は幸福だった。

 それだけは、フィアナの中で間違えようもない事実だった。

 

 けれどその彼は今、灰色の男、ジノ・リンドウと殺し合いをしている。

 

 もしかすると、彼が死んでしまうかもしれない。

 

 

 

 ―――――――かげむしゃを助けたせいで。

 

 

 

 そう思い当った瞬間、今までの幸せな気持ちは胡散して、感じたことのない恐怖が体中を駆け巡った。

 

「あ…あ…」

 

 見つめた手が、ぶるぶると震えている。

 泥と血にまみれた、手だった。

 

 今まで見てきたいろんな彼の顔が頭を駆け廻り、憎しみに塗れたジノの片眼が頭の中で高笑いしながらそれを汚していく。

 

 

 彼が、死んでしまったらどうしよう。

 

 

 私のせいで。

 私を助けたせいで。

 

 自覚したばかりの感情が、恐怖と入り混じって心を引き裂こうとする。

 

 

 息ができない。

 

 

 こんな時はどうしたらいいの。

 

 役立たずな私は、どうしたらいいの。

 

 どうしたら正解なの。

 

 わからない。

 

 わからない。

 

 

 今までは全て、姫様を基準に考えてきた。

 

 だけど、今は、何を基準にしたらいい?

 

 

 

「ひ…めさま…!」

 

 

 

 

 

 

 

 唐突に、脳裏によみがえったのは、今まで最も長い時間を過ごし、敬愛し、信じ、自分の命すらも、捧げてきた人。

 まるで本当にそこにいるかのように、フィアナには雨の中で立つ彼女が見えていた。

 自分と同じ薄紅色の髪の彼女は、いつもの乗馬ドレスではなく、フィアナがこの国に来た時押し付けられたドレスを着ていた。

 彼女は、ふんわりと笑った。

 

 

 ――――――フィアナは、強いよね

 

 そんな、私なんて、強くないです。今だって怖くて堪らなくて、どうしていいかわからないんです。

 

 ――――――フィアナは泣いたりしたこともない

 

 何度も、何度も泣いていますよ。あなたの見えないところで。必死に隠しているんです。だって、影武者ひめさまだから。フィアナの感情なんてみせてはいけないから。

 

 

 そうフィアナが呟くと、彼女は悲しそうに笑った。

 

 

 ――――――「フィアナは自分の幸せを求めていないわよね。誰が、貴女の幸せを求めるの?」…私がそういったのを、覚えているかしら

 

 

 賊に捕まる前、シャアラがフィアナに尋ねた問いだった。その問いの答えを、フィアナはまだ返していない。

 

 

 ―――――私、フィアナに幸せになってほしい。後悔しないでほしい。だって、私の影武者だから。誰よりも、私の傍にいてくれたから。誰よりも幸せになってほしいの。

 

 

 ……でも私は誰より、『貴女ひめさま』に幸せになってほしくて…。

 

 

 ―――――フィアナ、私は自分の幸せくらい、自分で掴めるよ。その術はあなたが今まで見せてくれたから、大丈夫。

 

 

 フィアナは押し黙った。

 もう、フィアナが庇い続けるだけの『姫様シャアラ』ではなくなったのだ。

 その顔に浮かぶ笑みはもう大人の『姫君』のそれだった。

 

 

 

「…嘘じゃないんです、姫様」

 

 

 

 誰よりも、姫様、シャアラ様に、幸せになってほしかった。

 

 

 だからその為に、初めて会った時に、貴女シャアラひめに捧げたこの「命」だったけど。

 

 

 

 だけど。

 

 

 

 ごめんなさい。

 

 

 

 

 姫様のための命だけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 他の人の為に使っても、いいですか?

 

 

 

 

 

 

 ―――――――――――うん、フィアナの人生だもの。フィアナが、したいようにしなくっちゃ。

 

 

 

 

 

 そういって、シャアラ姫がにっこりと笑った。

 そしてその姿は雨の中に掻き消えた。



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