91.砂浜の稽古
「はい、その調子ですよー」
「……」
イリスが無言のまま、水辺でばた足をする。
その手を引く形で、僕は彼女に泳ぎを教えていた。水が苦手なわけではなく、純粋にやってこなかっただけだ――今のペースならば、早い段階で泳げるようになるだろう。
ただ、イリスが気にするように時々浜辺を見る。
ちょっかいは出さなくなったが、アリアの存在がどうにも気になるらしい。
思えば、二人共親友であり、家族であり、そして競い合う間柄でもある。
イリスの性格からすれば、半ば弱点をさらけ出しているような今の状態は到底受け入れられるものではないのかもしれない。
かといって、アリアに「見るな」というのも違うだろう。こういうときは、利用するのが一番だ。
「今の状態を見られたくなかったら、集中して練習に励んでくださいね」
「! す、すみま――わぷっ」
僕の言葉にイリスが大きく反応してしまい、海水を飲んでしまったらしい。咳き込みながら、イリスが立ち上がる。
「えほっ、げほっ」
「大丈夫ですか? すみません、もっとちゃんと引いていれば」
「うぅ、はい……余所見した私の責任です……」
「イリス、頑張れ」
「わ、分かってるわよ! 今に見てなさい! すぐにあなたより泳げるようになって見せるんだから!」
「うん、ずっと見てる」
先ほどの感じだと、さすがにアリアクラスの泳ぎをマスターするには時間はかかる気がする。
何せ、彼女は高いところから飛び降りても、真っ直ぐ、綺麗な着水を見せた。
その後の泳ぎも無駄がなく、アリアらしい泳ぎだったと言える。
イリスも覚えるのは早いが、どちらかと言えば彼女の泳ぎは力強いものだ。……どちらも性格が出ていると言える。
「せっかくなので、少し休憩しましょうか。一度生徒達の様子を見てきますので」
「すみません、私ばかり……」
「いえいえ、見た限りでは皆さんとにかく遊びたいオーラ全快だったので。海に乗り気でないのはイリスさんくらいでしたからね」
「うっ……」
しゅんとした表情を見せるイリス。さすがにいじりすぎたか……そう思っていると、アリアがイリスのところまでやってくる。
「休憩なら遊ぼうよ」
「休憩の意味分かってないわね……? まあ、私は構わないけれど」
ちらりと、イリスが僕の方を見る。休憩と言った手前、遊んでもいいのかと気にしているのだろう。そんな細かいところまで気にするのは、それこそイリスくらいのものだ。
僕は肩をすくめて答える。
「危険はないようにお願いしますね」
「そ、そんなことしませんっ」
イリスがすぐに否定した。だが、アリアが持っているのは模擬剣――イリスにそれを手渡すと、
「海辺での稽古もいいよね」
「……確かにこういうところで練習する機会はないわね」
たった今、僕に答えたのは何だったのか。まあ、イリスにとって稽古はどこだろうと危険なものという認識はないのだろう。
嘆息しつつ、僕は一度生徒達の様子を見に戻る。
他の騎士達も監視に付いているため、浜辺ではいつも以上に平和な様相が広がっていた。
時折、海の近くでは柄の悪い男達がやってくることもあると聞くが、そんな姿は欠片も見られない。
近づく前に、騎士達が何らかの対応をしているのだろう。
あちらの方は問題なさそうだ――大きめの岩の上からそれを確認し、振り返る。
すると、すでに臨戦態勢に入ったイリスとアリアがお互いに武器を構えて向き合っていた。
「何か変な感じがするわね……」
「砂浜だから、いつもと感覚が違うんだよ――」
イリスの言葉と同時に、アリアが駆け出した。その動きに迷いはなく、砂をしっかりと踏み締めて駆ける。他方、わずかに反応の遅れたイリスは防御の姿勢に入った。
短剣を構えたアリアが、穿つような一撃を放つ。
「……っ!」
イリスがそれを受けて、後方に下がる。だが、慣れない砂浜で踏ん張りが効かないのか、バランスを崩した。アリアがそれを見逃さない。続く猛攻――やがて、イリスの防御は崩れてアリアの短剣がイリスに突き立てられる。
「はい、わたしの勝ち」
「ちょ、い、今のは反則……」
「戦いに反則なんてない――これはわたしの勝ち」
「ぐ、ぅ……わ、分かったわよ。飲み物買ってくればいいんでしょ!?」
「うん、一番美味しそうなの」
「そう言う曖昧な言い方なら一緒に来ればいいじゃない」
「罰ゲームにならないよ?」
……どうやら僕がいない間に、戦いに負けた方が飲み物を買いに行くことになっていたらしい。
アリアはこういう場での戦いにも慣れているような動きを見せていた――ありとあらゆる戦闘に備えて、色々と教え込まれていたのが分かる。他方、イリスは砂に足を取られて思うように動けていなかった。
一対一での、騎士同士の戦いの場――それが、イリスが最も強さを発揮するところなのだろう。
だが、彼女が目指すものはそのレベルにはない。
そういう意味では、泳ぎだけでなくここでもある程度、戦いには慣れるようにさせた方がいいのかもしれない。
(……まあ、それも《剣客衆》のことが片付いたら、かな)
水平線を見据えて、僕はそう考える。……まだ平穏なことばかりだが、僕のやるべきことはすでに決まっているのだから。






