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04

「リヒト殿下、こちらでよろしいでしょうか?」

「うん。ありがとう、ベル」


 執務机に置いた3冊の書籍に、リヒト殿下がにこりと笑みを浮かべた。

 再び書類へ向き直る。


 カーテンの外はとっぷりと日も暮れ、室内灯の明かりが、時折不規則に歪んだ。


 伸ばす影が形を変えるそれは、術式で固定された光らしい。

 リヒト殿下は、「星が入ってるんだ」と言っていた。

 本当なのか冗談なのかはわからないけれど、くるくる動き回るそれは、僕にはちかちかして見える。


 紙面を滑る万年筆が、断続的に引っ掻く音を立てる。

 秒針の刻む小気味良い音と、微かな呼吸音。

 机上を擦る衣擦れの音は静かで、癖のように辺りの気配を探った。


 ……変わらず、警備兵のおじさんのものがひとつ。

 階下の音は、遠い。


 公務内容に触れてはいけないので、心持ち離れた位置から、ぼんやりと本棚に並んだ背表紙を眺める。

 机の方から、微かな笑い声が耳に届いた。


「退屈?」

「……え? いえ。そんなことは」


 簡素に問われた言葉に、数拍遅れて否定の声を上げる。

 揺らめく明かりを弾いた金糸が、楽しげに吐息を震わせた。


「ベルは宿題終わった?」

「はい。こちらへ上がる前に」

「そっか、えらいね」


 柔らかく目許を緩めたリヒト殿下が、万年筆を遊ばせながら頬杖をつく。

 身を乗り出すようなそれが、本棚を指差した。


「良かったら、適当に本でも読んでてよ。そこのソファ使って」

「いえ、そんな! 勤務中ですので!」

「今回は、『友達にお手伝いを依頼している』形を取っているから、職務としての拘束力は低いかな。ベルも時間は有意義に使って。学生の時間は短いよ」

「……殿下、中々年寄りくさいことを言いますね」

「……うーん、一日一日が一瞬過ぎるからかなあ……」


 リヒト殿下が苦笑を浮かべる。

 頬杖を下ろした彼が、書籍を開いた。


 長い睫毛が影を描き、整った顔立ちが彼を『王子様』なのだと再認識させた。

 しみじみしてしまう。

 ……殿下って、王子殿下なんだ……。


 お許しが出たため、本棚に近付き、背表紙を目で追う。


 どれも難しそうな内容で、これって一使用人が読んでいいものなのかな? との疑問が顔を出した。

 いや、さすがに機密文書や、禁帯出の類はないだろう。……ないよね?


 ……あの人王子様だし、この階層王族専用だし、何より公務の資料だよ?


 あれれ、危険じゃない?

 間諜の疑惑が上がったら、真っ先に僕が疑われるよ?

 ここの本読んで、本当に大丈夫?

 お嬢さま方にご迷惑をおかけしない?


「……どうしたの?」


 だらだら冷や汗を流す僕に気付いたのか、前髪を払いながら、リヒト殿下が顔を上げる。

 ぎこちなくそちらを向き、恐る恐る疑問を投げかけた。


「……殿下、ここの本に、機密に関わるようなものとか、ありませんよね……?」

「………………?」

「そんな可愛らしく首を傾げないでください! この場合って、外患罪に抵触しますか!? 情報漏えいとか横領罪とか、どの辺のお世話になるのでしょう!?」

「大丈夫だよ。そんなえぐいのはないはずだし」


 けらけら、おかしそうに笑う王子様に、この人王子様でなかったら、一発鳩尾に決めたのに……! との暴力的な思いが顔を出す。


 未だ声を笑わせたまま、リヒト殿下が席を立った。

 僕の隣に立った彼は大体同じ目線の高さで、考え込むように本棚を眺めている。


「そうだなー。この辺の本は大丈夫だよ。普通に図書館とかにもあるものだし」

「……本当ですか?」

「今度一緒に行って、確認してみる?」


 室内灯が照らす碧眼が、にんまり笑みの形を描く。


 これで禁帯出のところにあったら、怒りますからね! と申し上げ、適当に一冊引き抜いた。


 表紙を飾る黒い題字が、鈍く明かりを反射する。

『対立調書』視界が拾った文字に、呼吸が僅かに詰まった。


「……ベルは『対立』のこと、知ってるんだ」


 小さく囁かれた言葉は断定的で、思わず視線を発言主へ向ける。

 顎に手を添えるリヒト殿下は静かなお顔をしており、微笑も何もない表情に狼狽えた。


「知っていては、いけないこと、だったのでしょうか……?」

「ううん。ベルって、偏ってるけど博識だよね」


 にっこり、口許だけで笑みを浮かべたリヒト殿下が、執務机へ戻られる。

 流れるように「お茶が欲しいな」とのご要望が飛び、慌てて従った。


「来年くるよ、『対立』」

「……は、」

「ノースに天文台があることは知ってる? 凶星が確認されたんだ。順当に行けば、来年当たるね」


 下げようとした茶器が、震える。

 カチャリと音を立てたそれを一瞥し、リヒト殿下が綺麗な笑みを見せた。

 動揺から犯した失態を感知され、苦渋に唇を噛む。


「……殿下、もしかして僕を、試されましたか?」

「面白そうとは思ったけど、予想以上だったかな。ベルってわかりやすいね」


 にこにこ、殿下が笑う。

 彼が机に広げた、記入途中の書類を摘んだ。

 僕へ向けてかざされたそれに、思わず息を呑む。


「今、ぼくがかかり切りな仕事も、それ関係だよ」

「…………」

「知らない人にとっては無意味な資料も、知ってる人にとっては重要な意味を持つ。あの辺りの本が図書館にあることは、本当だよ。専門書としてね」

「……殿下、詐欺師に転職されては如何ですか?」

「ひどいなー。ちょっとしたいたずらだよ」


 机上に書類を戻し、部屋主が無邪気な笑みを見せる。

 かっこよさに傾向していたそれは可愛さを強調させ、言葉通りのいたずらが成功した子どもの顔をしていた。


 胸に溜まった重圧を、吐息とともに押し出す。


「……何故、僕に話されたのですか?」

「うーん……、驚く顔が見たかったって言ったら、怒る?」

「そんな理由で、機密情報喋っちゃダメでしょう!!」

「そうだね。……ふふっ」


 突然笑い出した殿下に、息巻いていたいた口を閉じ、胡乱な目を向ける。

 僕は怒っているというのに、彼の顔は楽しそうで、嬉しそうだった。


 不審から、じと目で見詰めてしまう。

 こちらを見上げたリヒト殿下が、唇に人差し指を当てた。


「ベル、内緒だよ。ミスターにも、ミュゼットにもアルバートにも、言っちゃダメ。きみとぼくだけの秘密だよ」

「それって、口外したら罰せられるって意味じゃないですかあ……」

「うん。だから秘密にしててね」


 渋々頷くと、よくできましたとばかりに頭を撫でられた。

 にこにこにこにこ、殿下が笑っている。


 く、くそう、よくも罠に嵌めてくれましたね……!

 そんな嬉しそうにしたって、僕怒ってるんですからね!

 好奇心は猫の子を殺すんですよ!

 知らなくていいことって、大事なんですよ!


 いや、でも、情報を先取り出来ることは、利点かも知れない。

 ここには『対立』に関する資料がある。

 ヒルトンさんの民俗学書と合わせて、『対立』について調べよう。

 この機会を活かそう。


 ……く、くそう! やっぱり理不尽だ!!

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