番外編:粉雪をまぶす
るんるんとカレンダーを指差し数える。
しっかり日付を確認してから、逸る思いでお嬢さまの元へ向かった。
捻挫は治ったので、後は三角巾だけだ。
自力で歩ける喜びを噛み締めながら、休息中のお嬢さまへ一礼する。
「お嬢さま、今年もこの時期がやって参りました」
「ありがとう、ベル。支度はもう整っている?」
「勿論です!」
ぱっと顔を上げたお嬢さまが、華やいだ表情でお顔を緩ませられた。
読みかけの頁に青い栞紐を通し、長袖のワンピースを翻される。
今日もお嬢さまが尊い。
清楚な白いワンピースは胸元にピンタックが寄せられ、質素な造りだからこそ、お嬢さまの可憐さが引き立った。
膝下で揺れる、銀糸で刺繍された裾がレースを透けさせる。
ハーフアップで纏められた御髪には、本日のアーリアさんセレクトのベロアのリボンが蝶を描いて留まっていた。
流石アーリアさん。本日のお嬢さまは、新雪に舞い降りた春の妖精のようです。心で拝んだ。
お嬢さまの歩幅に合わせて、準備を整えた調理場へご案内する。
窓が白く煙り、雪が張り付くこの時期、お嬢さまはシュトレンをお作りになられる。
どうやらお嬢さまはそのお菓子がお好きなようで、料理長さんに聞けば、作り方も混ぜて焼くだけの様子。
ならば手作りにしましょう! と提案されたのはいつの日だったか。
少なくとも、僕がまだ碌に丁寧語を話せていない頃から、お作りになられている。
因みに発音の覚束ない僕が、「しゅとーれん?」と現代日本に流行る言い方をすると、可笑しそうに微笑んだお嬢さまに「シュトレンよ」と優しく訂正されたのは良い思い出だ。慈母神だ。
さて、ご案内した調理場にて、お嬢さまがワンピースのお袖を捲られる。
その後ろでアーリアさんがお嬢さまの御髪を纏め、エプロンのリボンを結んでいた。
お嬢さま、可憐が乗算されて計算が追いつきません!
今日もお嬢さまが素敵です!
「さあ、ベル! 作りましょう!」
「はい!」
ふんわり微笑んだお嬢さまに促され、弾む心地で応答する。
といっても、未だ片腕の使えない僕は専ら見ているだけになるのだが。
こんなにお嬢さまとご一緒出来るなんて、明日僕死ぬのかな?
ボウルに材料を混ぜ合わせ、お嬢さまが生地を捏ねられる。
弾力のあるそれは混ざるにつれて硬さを増し、むむっと眉を寄せられたお嬢さまが、力いっぱい底へ生地を押し付けられた。
「交代しましょうか?」
「ええ、よろしくね」
表情を緩めたお嬢さまと場所を代わり、こねこね、毎年戦っている相手を転がしていく。
お嬢さまはボウルを押さえてくださり、ありがたい手助けに、えへへと微笑み返した。
「ありがとうございます、お嬢さま」
「やっぱり、ベルの方が力が強いのね」
「これでも男の子ですから」
内心得意気に主張する。
みんな僕のことを、小さい子どもという認識で扱ってくれるけれど、僕だって成長している。
背だってすくすく伸びているところだ。
お嬢さまが生地を纏められ、打ち粉の敷いてある台へ移動させる。
場所を変えて捏ねられている間に、事前にラム酒に浸したレーズン他ドライフルーツをお持ちした。
ちなみにオレンジピールが入っていると、アーリアさんが心持ち嬉しそうにする。
なので、少しばかり多目に入れている。
クルミを持ってきたアーリアさんが、はたと僕の企みに気づいた。
あっ、しまった。
ぺち、軽く頭を小突かれる。……目敏い。
根気良く生地と具を混ぜ合わせ、一次発酵を待つ。
丁度良くお茶を淹れてくれたアーリアさんは、本当に出来る侍女だ。
僕も見習いたい。給仕したい。
お嬢さまに目いっぱいお仕えしたい。
手を洗ったお嬢さまが椅子に座られ、僕たちにも椅子を勧めてくださる。
お言葉に甘え、三人で脇机を囲んだ。
「そういえば、お嬢さまはいつ頃からシュトレンをお作りなんですか?」
温かな紅茶を口にしながら、何気なく抱いた疑問を投げ掛ける。
石榴色の目を瞬かせたお嬢さまが、ちらりとアーリアさんと目配せされた。
「……いつだったかしら。忘れてしまったわ」
くすくす、楽しげに笑んだお嬢さまが、優雅な仕草でカップを傾けられた。
それは明らかにご存知のご様子!
何で教えてくださらないんですか、お嬢さま!
*
「ねえ、ベルはシュトレン、すき?」
わたくしの問い掛けに、きょとんと瞬いたベルが、喜びを噛み締めた顔で「はい」と答える。
その返答に内心安堵し、「わたくしもすき」微笑み返した。
元を辿れば、ベルがシュトレンを好んでいるから、手作りするようになったのだけれど。
本人はとうに忘れてしまっているようだ。
それでも今も彼が好んでいるのなら、これからも作り続けようと思う。
アーリアの紅茶を口に含み、ひとり回想する。
あれはわたくしが、初めてお茶会へ招待されたときのことだった。
今でも覚えている。
お母様から「お友達を作るのよ」と優しく諭されたが、当時のわたくしは引っ込み思案の人見知りで、とんでもなく内気だった。
辛うじて挨拶は出来たが、ガチガチに緊張してしまい、主催の令嬢に気を遣わせてしまったことをとても恥ずかしく思った。
けれども親切にしてもらえ、徐々にお話も出来るようになって行き、ほっと気の抜けたところで一度お手洗いへ席を立った。
その帰り道で、わたくしは人の二面性を知った。
「公爵家のお嬢さまって、根暗な方なのね」
「服も地味でしたし」
「でも仲良くしておきませんと」
けらけら笑っている女の子の声は、先程までご一緒していた令嬢たちのものだった。
ふっ、と力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
震えて縮こまるわたくしに、気づいたアーリアが駆けつける。
主催に具合が悪いと告げ、逃げるようにその場を後にした。
初めてのお茶会を失敗させた。
それは公爵令嬢というわたくしの立場にとって都合の悪い話で、このまま屋敷へ帰ることも気まずい。
どうしてこんな家柄に生まれたのだろう?
何度も思った鬱憤を心の中で繰り返す。
アーリアに駄々を捏ねて、気晴らしにと街路を歩かせてもらうことにした。
王子様の生誕祭と、収穫祭を混ぜ合わせた街並みはとても賑やかなのに、わたくしの心は全く晴れない。
寧ろ浮かれる周囲と相反するように、心が重たくなってくる。
何度も何度も脳裏に回る、令嬢たちの笑い声。
嫌気の差すそれに気がささくれていた。
ベルを見つけたのは、本当に偶然だった。
わたくしに似つかわしくない華やかな街路から目を背けて、薄暗い路地ばかり見詰めていたからこそ、出会うことが出来た。
ベルはすぐにわたくしに懐いてくれた。とても嬉しかった。
お友達が欲しかったわたくしにとって、またとない相手だった。
ベルは優しくて、わたくしの悪口なんて一言も言わない。
いつも「おじょうさま、おじょうさま」と、わたくしの後をついてくる。
にこにこ笑う彼が、可愛くて堪らなかった。
スラムで生きてきたベルは、マナーも、文字の読み書きも、算術も、何も知らない。
無邪気に無知に「これはなに?」と尋ねる彼へ、わたくしの持っている知識を披露することが、心地好かった。
今まで苦手だったお勉強も、ベルに教えるためと思えば苦ではなくなった。
ベルの前ではわたくしは、ちょっとだけお姉さんになれた。
ベルのお手本であるように、背筋を伸ばして歩けるようになった。
公爵家のお嬢さまに、少しだけ近付けた。
わたくしの真似をして、覚束ない仕草で首を傾げるベルは、わたくしの大切な宝物になった。
アルキメデスのように抱えられないことが難点だ。
それでも、ベルには困った癖があった。
食べものを少量しかとらず、残りを溜め込もうとするところだ。
彼のこれまでの生活を思えば仕方ない部分も大きいが、中々食べようとしない点では困り果てた。
理由を聞けば「明日食べれるかわからない」
「逃げにくくなる」
「蹴られたときに苦しいから」
「他の子にわけなきゃ」と答える。
もうそのような心配は必要ないのだと、何度言い聞かせても彼には届かなかった。
ベルが他の子よりも身体が小さかったのは、絶対これのせいだとわたくしは思っている。
ベルの部屋は隠し物がないか、毎日徹底的に掃除されていた。
時々ネズミが出ては、使用人が悲鳴を上げていた。
ミスターやメイド長に何度叱られようと、改められない。
叱られる度、ベルは悲しそうな顔で俯いていた。
その顔は見る度つらく、わたくしは彼をこの屋敷に閉じ込めている錯覚を感じていた。
そんな日々が重なったある日、お父様に「ベルナルドはこの屋敷より、もっと小さな家にいる方が落ち着くかも知れない」と打ち明けられた。
泣いて泣いて、駄々を捏ねた。
決してベルには見せられない姿だった。
わたくしの半生、最大の駄々だったと言っても過言ではない。
わたくしたちは節制しているが、裕福だ。
劇的な環境の変化に対応出来ず、幼いベルに心労を与えている。
そう諭されても、今更ベルのいない生活になんて戻れなかった。
それはそれは泣きじゃくり、お父様を途方に暮れさせた。
その日はおやつにシュトレンが出された。
徐々にマナーと言葉遣いを覚えてきたベルが、「これはなんですか?」わたくしに問い掛ける。
「これはシュトレンよ」
「しゅとーれん?」
小首を傾げたベルが、大きな目を瞬かせて発音を間違える。
訂正してから、昔お母様に教えてもらったシュトレンの説明を、ふんわりとした記憶から引っ張り出した。
「冬は寒くて食べものが実らないから、こうして乾燥させたものを作って、毎日少しずつ食べて、春を待つのよ」
「そうなんですか!」
ぱっと輝いた顔はこれまでにない理解を示した色で、きっと彼の中の価値観と合致したのだろう。
わたくしとしては覚束ない説明だったけれど、ベルが喜んでくれたからいいや。
お皿を差し出して、笑みを向ける。
「ベルもわたくしと一緒に、春を待ちましょう?」
「うん!」
一番小さな切れ端を摘んだベルが、粉雪を貼り付けたような砂糖の層に歯を立てる。
瞬間、ふわり、ベルの青い瞳が感動に輝いたのがわかった。
「これ、すごくおいしいっ……です!」
「本当!?」
こくこく頷くベルが、あっという間に切れ端を食べ終わる。
そわそわとお皿を見詰める彼にもうひとつ勧めると、明るくなった表情がしかし、即座に萎んだ。
「春、まてなくなっちゃう……」
「大丈夫よ! 後で一緒につくりましょう?」
「……つくったら、春、まてる?」
「ええ!」
正直シュトレンの作り方なんて知らなかったけれど、ベルが何かを「おいしい」「もっと欲しい」と示したことは、初めてのことだ。
わたくしは是が非でも、残りのお菓子を彼に食べさせたかった。
そっと手を伸ばしたベルが、シュトレンに齧りつく。
おいしさに緩む頬に、こちらまで幸せな気分になれた。
料理長にレシピを聞き、初めてシュトレンを作ったときは、ふたりで粉だらけになって笑った。
アーリアと料理長は慌てていたけれど、ふたりの小さな手で一生懸命捏ねた生地は、とびきりおいしいお菓子になった。
勿論アーリアにもお裾分けした。
余り表情を変えない彼女の笑顔は、とても可愛らしかった。
それからベルは徐々に食事らしい食事が出来るようになり、部屋に食べものを隠すこともしなくなった。
彼の中で認識が変わったらしい。
隠さなくなったことをミスターに褒められ、照れたように微笑んでいた。
お父様からも、「これなら他所の家に預けなくても大丈夫だろう」と言ってもらえたときは、嬉しすぎてお父様に抱き着いて泣いた。
これからもずっとベルと一緒にいられることが、堪らなく嬉しかった。
残りの工程を済ませて、扉の向こうで焼かれる生地に心を弾ませる。
既に粉砂糖を用意しているベルは、あのときよりも成長した顔で微笑んでいた。
ベルは忘れてしまったようだけれど、わたくしはこれから先もずっと覚えている。
わたくしのベルが、屋敷に馴染む切っ掛けとなったお菓子だ。
カレンダーを指折り数えて、楽しみにしている姿が見れるまでは、毎年作り続けようと思う。
何ともない顔でオレンジピールを増やして、アーリアを喜ばせよう。
何より、ベルの好物を手作りしよう。
わたくしは、彼のふにゃりと笑った顔がすきだ。




