表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/224

02

 殺意は満点。不審者へ向かって暗器を振る。

 空を切った小型のナイフに、舌打ちしたい心地を抑えた。


 ウサギの被り物……にしては精巧なそれを被っていながら、男の動きには余裕がある。忌々しい。


 生け捕りが基本だと教えられたが、遥かに実力差を感じた。

 殺すつもりで挑まなければ、自分が殺されることを悟る。


 一心不乱にナイフを振るが、相手は素手で容易く往なしていく。

 蓄積していく焦燥感。

 呼吸を乱しては駄目だ。

 背も力も遠く届かない僕に出来ることは、相手の動きに合わせて一瞬の隙をつくこと。

 お嬢さまを害するものを抹殺出来ない自身の実力に、苛立ちが募った。


 鳩尾を蹴り込まれ、胃液が逆流しそうになる。

 追い討ちのように飛んできた脚。

 遠心力のかかったそれは勢いがあり、咄嗟に頭を守るように腕を立てた。


 混ぜるように逆手に持ったナイフが、血液を伸ばす。

 男が息を呑む音を漏らした。

 引き戻された脚に、いつかソーサーを割った敷石を蹴る。


 殺意を込めて懐に飛び込み、頚動脈を狙って腕を伸ばす。

 弾かれたそれが、薄い皮膚に赤い線を描いた。


「ッ!?」


 捻り上げられた手首がナイフを落とし、察知した危機感に、男の腹を蹴って飛び退る。

 あっと思った頃には、左のナイフは男の手の内にあり、脳内で警鐘が鳴り響いた。


 男が動いた。鋭い突きをナイフで弾いて軌道を逸らす。

 たった一撃で痺れた腕に、奥歯を噛み締めた。


 死なない限りは掠り傷。

 立て続けの攻撃に防戦を余儀なくされ、呼吸が乱れてくる。

 ――君はまず体力をつけなさい。

 脳裏をヒルトンさんの言葉が駆けた。全くその通りでございます。


 弾かれたナイフが右手から離れ、澄んだ音とともに遠くへ飛ばされた。


「ッ、ぁっぐ」


 左肩に走った激痛に悲鳴を噛み殺す。

 引きつる呼吸を飲み込み、鎖骨の上から生えるナイフに、怪我の程度を計算した。

 左手は完全に言うことを聞かず、刃物もそこそこ差し込まれているのか、抜くのは危ぶまれる。


 ウサギ男は悠然とこちらを見下ろしていて、瞬時に後ろへ跳んで睨み返した。


 控えのナイフを引き抜き、落ち着きのない呼吸を整える。


 右はまだ使える。問題ない。

 痛みと酸素でぐらぐら揺れる視界を敵に縫いとめ、駆け出した。

 空振る切先はお粗末なもので、空を切る音が数度続く。

 一刺しすら叶わない焦燥が生んだ隙から、弾かれた手がナイフを取り零す。


 はっと顔を上げる。首を掴まれた。

 絞まる気道に喘ぐ中、刺さったままだったナイフを引き抜かれた。

 悲鳴が握り潰される。


 溢れる血液を止めようと、首を絞める手を掻いていた右手で塞ぐ。

 しかしどくどくと勢いの良いそれに、血の気が引いた。

 ついには軽々と持ち上げられた身体が地面から爪先を離し、ますます苦しさが増す。

 暴れる足も、引っ掻いた白手套も何一つ効果はなく、無機質なウサギの顔が真っ直ぐにこちらを映す。


 薄れる意識の端で、ウサギ男が手にしていた血まみれのナイフを、芝生に捨てる景色が映った。





「ベルナルド!!」


 駆けつけたヒルトンが血塗れの子どもを抱き起こす。

 口許に耳を寄せ、首筋に指を当てた彼が、即座に彼を抱えて屋敷へ飛び込んだ。

「医者の手配を!!」叫んだ彼に、青褪めた使用人等が駆け回る。


「ベル……ベル、ベル……ッ」


 顔色を青を通り越し、白くさせたミュゼットがヒルトンの服にしがみつく。

 石榴色の目は絶え間なく涙を零し、小さな唇はうわ言のように少年の愛称を繰り返していた。


「ベル……治さなきゃ、元に、血が、」

「お嬢様、まずは寝台へ運んで参ります」

「わか、……ベル、血、いっぱい」

「義姉さん、落ち着いて」


 震えるミュゼットをアルバートが引き止める。

 彼の顔色も決して良くはなく震えていたが、それでも義姉の手を握り、「大丈夫」声をかけていた。


 ヒルトンがベルナルドを部屋へ運ぶ。

 彼が進んだ後には点々とした血痕が残され、アルバートに支えられたミュゼットがふらふらとそれを辿った。


 寝台に寝かされたベルナルドから、血塗れた制服が剥ぎ取られる。

 滴る血液に、少女が目を瞠った。

「湯とガーゼ、ありったけのタオルを!」号令を飛ばすヒルトンの隣に膝をつき、彼女がぱかりと開いた傷口に手を添えた。


「治って、お願い、なおって、なおって、もとに、」

「ッ、お嬢様……!」


 癒しの術を行使する屋敷の娘に、ヒルトンが苦い顔をする。

 虚ろな彼女は頻りに同じ言葉を繰り返し、止めても聞きそうもない様子に執事が小さく嘆息した。


「……おじょ、さま……」

「ッ、ベル!」


 瞼を閉じたまま、微かな声でベルナルドが口を動かす。

 夢現といったそれは覚束なく、しかしそれでも彼の意思を感じられる反応に、ミュゼットは顔を上げた。


「ごぶ、じ……ですか……?」

「わたくしは無事よ! ベルッ」

「……よか、」


 痛みにしかめていた顔を僅かに和らげ、再びベルナルドの意識が沈殿する。

 数度彼へ呼びかけた彼女が深く俯き、ありがとう、瞬きを忘れた目に涙を耐えたまま呟いた。


「ミスター! お医者様の到着です!」

「すぐにお通ししなさい!」


 眼鏡をかけた医者と入れ違いに、部屋を追い出されたミュゼットとアルバートが、部屋の扉が見える廊下に座り込む。


 忙しなく駆ける使用人の手には、時に湯が、時に布が、皆が慌てたように駆け回っていた。

 使用人が部屋へ戻るようふたりを促すが、頑なに動かない。

 代わりに持ち出された大き目のブランケットが、彼等の身体を包んだ。



 帰ってきたアーリアが血相を変えてベルナルドのいる部屋へ飛び込み、無表情の下に全てを押し込んで部屋を出る。

 ミュゼットとアルバートの元へ来た彼女が、震える声で主人に頭を下げた。


「申し訳ございません、お嬢様!」


 年上の彼女の手を引いたミュゼットが、その身に抱き着き、声を殺して泣いた。

 アーリアが小さい主人へ腕を回す。

 ぼろぼろ零れる涙が、制服の肩口に吸い込まれた。



 屋敷の夫人が、しばらく後に当主が部屋へ入る。

 夫人は部屋に残ったまま、沈鬱な顔の当主が部屋を出た。


 廊下の隅に固まる子どもたちの頭を撫で、彼が静かにミュゼットを抱き上げた。

 ――風邪を引いてはいけないよ。

 日没までの時間が日に日に短くなる中、すっかり暗くなった廊下を彼等が進む。


 ――彼はもう大丈夫だよ。

 その一言に、アルバートまで涙ぐんだ。


 暖かな部屋で軽食が提供されるも、ふたりとも手をつけようとしない。

 代わりにぽつぽつ話し出した娘の言葉を、父親が穏やかな相槌とともに耳を傾けた。


 荒唐無稽な不審者に疑心を抱くも、現に使用人は負傷している。

 第一に、彼等にそのような嘘をつく利点もない。

 屋敷の使用人も、娘と息子の動転した様子を目の当たりにしている。


 それ以前に、不審者を対処出来る人間がいなかった時点で問題だ。

 当主サマビオンが長く息を吐く。


「恐ろしい思いをさせて、すまなかった」

「わたくし、守られることがこれほど嫌だと、知らなかった。ベルも、アルも、アーリアも、みんないなくなってはダメ。お父様も、お母様も」

「……ミュゼット」

「わたくし、全然強くなれてない。もっと、強くならなくては。守らなくては。……ちっともわかってなかった」


 ベルナルドの血が張り付く両手を見下ろし、涙を流すまいと遠くを見詰めたミュゼットが背筋を伸ばした。

 アルバートは固く閉じた手の甲をじっと見詰めている。

 サマビオンが嘆息した。

 沈痛な空気を割るように、控えめなノックの音が響く。


「お医者様がお帰りになるわ」

「!」


 顔を覗かせた夫人の言葉に、皆が席を立つ。

 駆け出したミュゼットを先頭に、彼等が玄関へ向かった。


 群青に染まる空を背景に、医師が帽子を手に取る。

 微笑んだ眼鏡の彼へ、一人娘が涙声で勢い良く頭を下げた。

 アルバートが静かにそれにならう。当主が礼を述べた。


「絶対安静に」注意事項を述べた医師が帽子を被り、夜を迎えた街へ帰路に着く。



 ベルナルドの部屋にはリズリットがおり、ベッドの傍らにあった椅子に座っていた。

 入室したミュゼット等に気づいたのか、疲れたような顔で「よく寝てるよ」微笑んだ。

 規則正しく上下する胸に、ミュゼットがへたり込む。


 アルバートがベルナルドの眠るベッドに手をついた。

 肩と首に巻かれた包帯と、頬に貼られたガーゼ。

 見える位置の怪我を確認した彼が、額に乗る前髪を指の背で払い、堪らず「ばか」ぼそりと呟いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ