02
殺意は満点。不審者へ向かって暗器を振る。
空を切った小型のナイフに、舌打ちしたい心地を抑えた。
ウサギの被り物……にしては精巧なそれを被っていながら、男の動きには余裕がある。忌々しい。
生け捕りが基本だと教えられたが、遥かに実力差を感じた。
殺すつもりで挑まなければ、自分が殺されることを悟る。
一心不乱にナイフを振るが、相手は素手で容易く往なしていく。
蓄積していく焦燥感。
呼吸を乱しては駄目だ。
背も力も遠く届かない僕に出来ることは、相手の動きに合わせて一瞬の隙をつくこと。
お嬢さまを害するものを抹殺出来ない自身の実力に、苛立ちが募った。
鳩尾を蹴り込まれ、胃液が逆流しそうになる。
追い討ちのように飛んできた脚。
遠心力のかかったそれは勢いがあり、咄嗟に頭を守るように腕を立てた。
混ぜるように逆手に持ったナイフが、血液を伸ばす。
男が息を呑む音を漏らした。
引き戻された脚に、いつかソーサーを割った敷石を蹴る。
殺意を込めて懐に飛び込み、頚動脈を狙って腕を伸ばす。
弾かれたそれが、薄い皮膚に赤い線を描いた。
「ッ!?」
捻り上げられた手首がナイフを落とし、察知した危機感に、男の腹を蹴って飛び退る。
あっと思った頃には、左のナイフは男の手の内にあり、脳内で警鐘が鳴り響いた。
男が動いた。鋭い突きをナイフで弾いて軌道を逸らす。
たった一撃で痺れた腕に、奥歯を噛み締めた。
死なない限りは掠り傷。
立て続けの攻撃に防戦を余儀なくされ、呼吸が乱れてくる。
――君はまず体力をつけなさい。
脳裏をヒルトンさんの言葉が駆けた。全くその通りでございます。
弾かれたナイフが右手から離れ、澄んだ音とともに遠くへ飛ばされた。
「ッ、ぁっぐ」
左肩に走った激痛に悲鳴を噛み殺す。
引きつる呼吸を飲み込み、鎖骨の上から生えるナイフに、怪我の程度を計算した。
左手は完全に言うことを聞かず、刃物もそこそこ差し込まれているのか、抜くのは危ぶまれる。
ウサギ男は悠然とこちらを見下ろしていて、瞬時に後ろへ跳んで睨み返した。
控えのナイフを引き抜き、落ち着きのない呼吸を整える。
右はまだ使える。問題ない。
痛みと酸素でぐらぐら揺れる視界を敵に縫いとめ、駆け出した。
空振る切先はお粗末なもので、空を切る音が数度続く。
一刺しすら叶わない焦燥が生んだ隙から、弾かれた手がナイフを取り零す。
はっと顔を上げる。首を掴まれた。
絞まる気道に喘ぐ中、刺さったままだったナイフを引き抜かれた。
悲鳴が握り潰される。
溢れる血液を止めようと、首を絞める手を掻いていた右手で塞ぐ。
しかしどくどくと勢いの良いそれに、血の気が引いた。
ついには軽々と持ち上げられた身体が地面から爪先を離し、ますます苦しさが増す。
暴れる足も、引っ掻いた白手套も何一つ効果はなく、無機質なウサギの顔が真っ直ぐにこちらを映す。
薄れる意識の端で、ウサギ男が手にしていた血まみれのナイフを、芝生に捨てる景色が映った。
*
「ベルナルド!!」
駆けつけたヒルトンが血塗れの子どもを抱き起こす。
口許に耳を寄せ、首筋に指を当てた彼が、即座に彼を抱えて屋敷へ飛び込んだ。
「医者の手配を!!」叫んだ彼に、青褪めた使用人等が駆け回る。
「ベル……ベル、ベル……ッ」
顔色を青を通り越し、白くさせたミュゼットがヒルトンの服にしがみつく。
石榴色の目は絶え間なく涙を零し、小さな唇はうわ言のように少年の愛称を繰り返していた。
「ベル……治さなきゃ、元に、血が、」
「お嬢様、まずは寝台へ運んで参ります」
「わか、……ベル、血、いっぱい」
「義姉さん、落ち着いて」
震えるミュゼットをアルバートが引き止める。
彼の顔色も決して良くはなく震えていたが、それでも義姉の手を握り、「大丈夫」声をかけていた。
ヒルトンがベルナルドを部屋へ運ぶ。
彼が進んだ後には点々とした血痕が残され、アルバートに支えられたミュゼットがふらふらとそれを辿った。
寝台に寝かされたベルナルドから、血塗れた制服が剥ぎ取られる。
滴る血液に、少女が目を瞠った。
「湯とガーゼ、ありったけのタオルを!」号令を飛ばすヒルトンの隣に膝をつき、彼女がぱかりと開いた傷口に手を添えた。
「治って、お願い、なおって、なおって、もとに、」
「ッ、お嬢様……!」
癒しの術を行使する屋敷の娘に、ヒルトンが苦い顔をする。
虚ろな彼女は頻りに同じ言葉を繰り返し、止めても聞きそうもない様子に執事が小さく嘆息した。
「……おじょ、さま……」
「ッ、ベル!」
瞼を閉じたまま、微かな声でベルナルドが口を動かす。
夢現といったそれは覚束なく、しかしそれでも彼の意思を感じられる反応に、ミュゼットは顔を上げた。
「ごぶ、じ……ですか……?」
「わたくしは無事よ! ベルッ」
「……よか、」
痛みにしかめていた顔を僅かに和らげ、再びベルナルドの意識が沈殿する。
数度彼へ呼びかけた彼女が深く俯き、ありがとう、瞬きを忘れた目に涙を耐えたまま呟いた。
「ミスター! お医者様の到着です!」
「すぐにお通ししなさい!」
眼鏡をかけた医者と入れ違いに、部屋を追い出されたミュゼットとアルバートが、部屋の扉が見える廊下に座り込む。
忙しなく駆ける使用人の手には、時に湯が、時に布が、皆が慌てたように駆け回っていた。
使用人が部屋へ戻るようふたりを促すが、頑なに動かない。
代わりに持ち出された大き目のブランケットが、彼等の身体を包んだ。
帰ってきたアーリアが血相を変えてベルナルドのいる部屋へ飛び込み、無表情の下に全てを押し込んで部屋を出る。
ミュゼットとアルバートの元へ来た彼女が、震える声で主人に頭を下げた。
「申し訳ございません、お嬢様!」
年上の彼女の手を引いたミュゼットが、その身に抱き着き、声を殺して泣いた。
アーリアが小さい主人へ腕を回す。
ぼろぼろ零れる涙が、制服の肩口に吸い込まれた。
屋敷の夫人が、しばらく後に当主が部屋へ入る。
夫人は部屋に残ったまま、沈鬱な顔の当主が部屋を出た。
廊下の隅に固まる子どもたちの頭を撫で、彼が静かにミュゼットを抱き上げた。
――風邪を引いてはいけないよ。
日没までの時間が日に日に短くなる中、すっかり暗くなった廊下を彼等が進む。
――彼はもう大丈夫だよ。
その一言に、アルバートまで涙ぐんだ。
暖かな部屋で軽食が提供されるも、ふたりとも手をつけようとしない。
代わりにぽつぽつ話し出した娘の言葉を、父親が穏やかな相槌とともに耳を傾けた。
荒唐無稽な不審者に疑心を抱くも、現に使用人は負傷している。
第一に、彼等にそのような嘘をつく利点もない。
屋敷の使用人も、娘と息子の動転した様子を目の当たりにしている。
それ以前に、不審者を対処出来る人間がいなかった時点で問題だ。
当主サマビオンが長く息を吐く。
「恐ろしい思いをさせて、すまなかった」
「わたくし、守られることがこれほど嫌だと、知らなかった。ベルも、アルも、アーリアも、みんないなくなってはダメ。お父様も、お母様も」
「……ミュゼット」
「わたくし、全然強くなれてない。もっと、強くならなくては。守らなくては。……ちっともわかってなかった」
ベルナルドの血が張り付く両手を見下ろし、涙を流すまいと遠くを見詰めたミュゼットが背筋を伸ばした。
アルバートは固く閉じた手の甲をじっと見詰めている。
サマビオンが嘆息した。
沈痛な空気を割るように、控えめなノックの音が響く。
「お医者様がお帰りになるわ」
「!」
顔を覗かせた夫人の言葉に、皆が席を立つ。
駆け出したミュゼットを先頭に、彼等が玄関へ向かった。
群青に染まる空を背景に、医師が帽子を手に取る。
微笑んだ眼鏡の彼へ、一人娘が涙声で勢い良く頭を下げた。
アルバートが静かにそれにならう。当主が礼を述べた。
「絶対安静に」注意事項を述べた医師が帽子を被り、夜を迎えた街へ帰路に着く。
ベルナルドの部屋にはリズリットがおり、ベッドの傍らにあった椅子に座っていた。
入室したミュゼット等に気づいたのか、疲れたような顔で「よく寝てるよ」微笑んだ。
規則正しく上下する胸に、ミュゼットがへたり込む。
アルバートがベルナルドの眠るベッドに手をついた。
肩と首に巻かれた包帯と、頬に貼られたガーゼ。
見える位置の怪我を確認した彼が、額に乗る前髪を指の背で払い、堪らず「ばか」ぼそりと呟いた。




