シーン:王城
クラウスが引いた手綱に合わせて、馬の蹄が音を立てるのをやめる。
軽やかに御者台から降りた彼が馬車の扉を開け、中の人物へ向けて手を差し出した。
「ベル、歩けるか?」
「平気です。ありがとうございます、クラウス様」
彼の手を取ったベルナルドが、舗装された足場へ降りる。
その目に巻かれていた包帯はなく、青い目が薄らと開かれていた。
ベルナルドの後ろから降りたアルバートが、うかがうように従者を見遣る。
パンッ! 顔色の悪いベルナルドが、自身の両頬を叩いた。よし! 声が上がる。
「運転変わってくださって、ありがとうございました、クラウス様!」
「それは構わねーけどな。今のお前に馬任せるとか、行き先変わっちまうし」
「病院送り……」
ベルナルドの頭をくしゃくしゃと撫でたクラウスが、心配そうに微笑む。
ベルナルドは幻覚に悩まされている。
視界にちらつくマネキン人形が、瞼の裏に張りついて離れない。
瞬きの度に現実へ侵食するそれに、彼の精神は参っていた。
しかし、いつも通りの優雅な仕草を心掛け、ベルナルドが王城を手で示す。
にこり、浮かべられた笑みは少々無理が目立ったが、それでも不調を起こしているようには見えなかった。
「参りましょう、お嬢さまがお待ちです!」
「……あんま無茶すんなよ」
「お嬢さまの一大事に、日和ってなんかいられませんよ!」
さあ、参りましょう! ベルナルドに促され、アルバートとクラウスは王城へと足を向けた。
渋る警備にクラウスが話を通し、エリーゼの部屋を目指して廊下を突っ切る。
途中向けられる好奇の目や、ひそりとした噂話に、アルバートの眉間に皺が寄った。
「なるほどな。リヒトが嫌うわけだ」
「みんな腹の底を探ってるからな」
クラウスの苦笑に、アルバートがため息をつく。
これでは、収穫祭の実行委員である彼の養父も、さぞかし面倒を強いられていることだろう。
特にコード卿は王城に身を置いている分、相当な風当たりを受けている。
ベルナルドは心配そうに眉尻を下げた。
「旦那様はご無事でしょうか……」
「あの古狐がいるんだ。余程のことは起こらないだろう」
「ヒルトンさんのこと、古狐っていわないでくださいー!!」
コード家執事であり、裏のボスを独特な呼称で呼ばれ、ベルナルドの顔が青ざめる。
サッと周囲を確認するくらいには、彼の中に恐怖が宿っているらしい。
発言者であるアルバートは、しれっとしている。
「なあ。あれ、アーリアじゃねーか?」
「っ、アーリアさん!」
クラウスの問いかけに、即座に反応したベルナルドが駆ける。
エリーゼの部屋の前に佇むのは、アーリアとノアのふたりだった。
弟分へ無表情を向け、アーリアが口を開く。
察知した彼女の不機嫌さに、ベルナルドの喉奥が「ひえっ」悲鳴を上げた。
「ベルナルド、王女殿下と交渉しなさい」
「はいっ、直ちに!!」
普段よりワンオクターブ低い先輩の声音に、震え上がったベルナルドがすぐさま従う。
絶対的な力関係が証明された瞬間だった。
コツコツ、重厚な扉を数度叩き、声を震わせないよう彼は注意した。
「エリーゼ様、ベルナルドです。こちらを開けていただいてもよろしいでしょうか?」
数拍の間ののち、かちゃり、薄く開いた隙間から、じっとりとした赤目が覗いた。
「……他に誰がいるの?」
「坊っちゃんと、クラウス様です」
「そう、入って」
ふいと顔を背けたエリーゼに従い、ベルナルドらが室内へ招かれる。
部屋のソファにはミュゼットがおり、驚いたように石榴色の目を丸くしていた。
「ベル! アルに、クラウス様も!」
「お嬢さまっ、お加減は!?」
ミュゼットの元まで駆け寄ったベルナルドが、彼女の足元で膝をつく。
見上げる心配そうな顔に、彼女は笑みを返した。
緩く彼の手を取り、安心させるように微笑みかける。
「わたくしは大丈夫よ、ベル」
「よかった……」
ほっと表情を緩め、静かに頭を下げたベルナルドが立ち上がる。
ベッドに座るエリーゼは、むすりと唇を真一文字に結んでおり、石の小鳥を両手で握っていた。
「ねえクラウス。……あなたは信用できる人?」
ぼそりとした、ぶっきら棒な一言だった。
名指しされたクラウスが、普段通りへらりと肩を竦める。
「俺が謀反起こして、誰が得するんすか」
「遅れてきた反抗期かもしれないじゃない」
「ははっ。俺の反抗期は、とっくの昔にお袋に潰されましたよ」
クラウスの母親の趣味は、ブートキャンプである。
その統率力と訓練メニューは凄まじく、クラウスは幼少の頃からえぐめに教育されてきた。
事情を察したエリーゼが、納得の顔と哀れむ顔を絶妙に混ぜ合わせる。
細い指が、ベッドテーブルの引き出しを開けた。
「これを持っていって頂戴」
「中を拝見しても?」
「いいわ」
受け取った手紙を取り出し、クラウスが質素な便箋を開く。
しおれた赤い花と、薬包紙のはさまれたそれを、アルバートとベルナルドも覗き込んだ。
四つ折りの便箋に綴られた、右肩上がりの弾んだ文字に、クラウスが首を傾げる。
——どこかで見覚えがある。
困惑する彼の隣で、ヒュッ、ベルナルドの喉が音を立てた。
「——あな、たに……しゅ、くふくを……ッ」
「ベル!?」
ふらふらと後ずさったベルナルドが、呼吸を乱しながら頭を抱える。
慌てたクラウスが手首を掴むも、焦点の合っていない目は彼を映さない。
不規則に狭まる瞳孔は虚空をさ迷い、掠れた声はしきりにうわ言を呟いた。
「あか、あか、……まっか、あか……あかい……あか」
「ベル!? しっかりしろ! ベル!!」
「どうしたんだ!? おい!!」
アルバートが肩を掴んで揺するも、ベルナルドは反応しない。
ついにはへたりと崩れ落ちた姿に、ミュゼットは血相を変えた。
彼へ駆け寄り、必死に呼びかける。
「ベルっ、どうしたの、ベル! わたくしがわかる!?」
「あか、まっか、ばらばら、まっか、あか」
「ッ、これ、対立戦のときと、おんなじっすわ……」
「説明しなさい、クラウス!」
沈黙する小鳥を握りしめたエリーゼに促され、クラウスが苦渋に満ちた顔をする。
ミュゼットとアルバートの呼びかけに応えないベルナルドは、しきりに同じ言葉を口にしていた。
「裁定の間でベルが下層へ落ちたとき、こうやって『まっか』って繰り返してたんすよ」
「報告義務じゃない!」
「調査んときには話しましたよ! そんなことより、ベルっすわ!!」
かひゅっ、呼吸のおかしいベルナルドの口を、クラウスが袖でふさぐ。
嫌がるように顔を背けたベルナルドは、ぼろぼろ涙を零していた。
頭ごと肩口へ抱き寄せ、クラウスが彼の髪を撫でる。
「大丈夫だ、ベル。大丈夫だ。ゆっくり息を吐け」
ふぐっ、くぐもった音を立て、ベルナルドのうわ言が無理やりふさがれる。
両手で耳を押さえる姿は、幼い子どもが自衛するかのようで、呆然としていたアルバートは苦い顔で唇を噛んだ。
何度も繰り返されるクラウスの「大丈夫」の声と、くぐもった嗚咽。
背を撫でようと、服を引こうと、一切向けられないベルナルドの目に、ミュゼットは俯いた。
——彼女が呼べば、ベルナルドは必ず応えた。
はい、お嬢さま。やわらかな笑顔で、うれしそうな声音で。
その彼が、彼女の呼びかけに反応しない。
ベルナルドのことに関して、絶対の自信を持っていたミュゼットの胸中は、非常に荒れていた。
もしも感情が色で表現されれば、彼女の周囲も内部もどす黒い色で塗り潰されていただろう。
内情はいつでも複雑に折り重なり、多色がかき混ざることで、名状しがたい色へと変わり果てる。
キッと顔を上げたミュゼットは、「アーリアッ!!」鋭い声で侍女を呼びつけた。
「はっ、お嬢様」
「アーリア、手を! ベルの深層へ潜るわ!」
即座に入室し、整った礼をするアーリアへ、ミュゼットが左手を差し出す。
ぎょっとしたエリーゼが慌てて声を発した。
「あなた! 今日は王妃殿下の治癒の日でしょう!?」
「わたくしの一番は、ベルですわ!!」
「姉さん! 過去の閲覧は、まだ多用できないんじゃなかったのか!?」
「ベルの大変なときに、日和ってなんていられないわ!!」
困惑を喚起するアルバートを見ることなく、怒鳴るように叫んだミュゼットがベルナルドの背に手を添える。
いつもの無表情に表情をにじませたアーリアが、主人の白い手をかたく握った。
「10分っ、いいえ、15分! 15分後に引き上げてちょうだい!」
「ッ、かしこまりました」
——過去の閲覧に定められた制限時間は、本来10分。
それは術師であるミュゼットが未熟なためと、他者の深層にふれることで精神が崩壊する恐れがあるためだ。
瞼を下ろしたミュゼットの周囲が、左回りに陣を描き、円転する。
誰もが止める間もなく、彼女の意識はベルナルドの過去へ解けた。




