ヒロインの選択
寮の自室の扉を叩かれ、アルバートは顔を上げた。
机に広げた、書きかけの手紙を裏へ返し、椅子を引く。
ドアノブを捻ると、そこには桃髪の男子生徒がいた。
「なあ、ご主人の兄ちゃん。今ちょっといいかい?」
独特な呼び方をする人物など、アルバートの知り合いの中で、ひとりしかいない。
気軽な仕草で片手を上げたエンドウの登場に、少年が怪訝そうな顔をした。
「……今更なんだが、お前、どっちの寮を使っているんだ?」
「男子寮」
「……そうか」
解せない。そんな顔でまじまじとエンドウを見詰める。
こんなにも男らしくおっさんしているエンドウだが、性別は女性だ。
こいつ、風呂とかどうしているんだ? アルバートの中で疑問が巻き起こった。
「まあまあ、おっさんの寮生事情は置いとけよ。聞いてもらいてぇことがあるんだ」
「わかった」
扉を開け、アルバートがエンドウを部屋へ招く。
失礼するぜ。けらりと笑う客人は、どこからどう見ても男子生徒にしか見えなかった。
「茶を淹れるのが面倒だ。水でいいか?」
「いや、構ぃやしねえぜ。長居する気はねぇからな」
ひらひら手を振ったエンドウが、ポケットに手を突っ込み口角を上げる。
ここにベルナルドがいれば、忠実な従者が即座にお茶を準備しただろう。
しかし、アルバートの従者は城や寮や屋敷と慌しく行動しているため、主人の傍にいる時間が少なかった。
最も、大部分はアルバート自身が、ベルナルドの世話を断っているのだが。
用件を待つアルバートへ、エンドウが口火を切る。
「コールダーの領主さんをとっちめたら、あの従者の兄ちゃんたちは助かるのかい?」
「情でも湧いたか?」
書き物机に凭れたアルバートが、半眼で腕を組む。
苦く笑ったエンドウが緩く首を振った。
「俺はお前さんと違って、誰のことも恨んでねぇからなあ」
「私情を抜いて話せば、フロラスタ家が権威を失えば、無駄金である従者は解雇されるだろう」
「そうかい」
淡々とした声音に苦い顔をし、エンドウが首の後ろを掻く。
小さく嘆息した彼女が、やんわりと尋ねた。
「他に、あの兄ちゃんらを助けられる方法は、ねぇのかい?」
「お前は、欲に狂った人間を相手にしたことはあるか?」
アルバートの問い掛けに、エンドウが肩を竦める。
彼女の記憶には残っていても、エンドウとしてそのような体験をしたことがない。
先の通り、彼女は誰のことも恨んでいない。
だからこそ、理解出来ない部分が多かった。
「ローゼリアは嫉妬に狂っている。リヒト殿下を奪い、ベルナルドを隷属させ、コード家を潰し、義姉さんの精神を追い詰めたとしても、満足することはないだろう。人間の欲は深い」
「おっかねぇなあ」
眉尻を下げるエンドウを一瞥し、アルバートが視線を落とす。
ため息が零された。
「僕は元々コード家の人間ではない。養子だ。実母が死んだあとに引き取られた先で、虐待に遭った」
突然の告白に、エンドウが若葉色の目を見開く。
対するアルバートは、淡々と続きの言葉を語った。
「対立戦で反映された、スープと女は、このときのものだ。始めはスープに洗剤を混ぜたものを飲まされた。僕が吐いたから、叩かれた」
「……っ」
「次第に行為はエスカレートしていった。専用の叩く棒があったな。何度も蹴られ、踏まれた。よく生きていたと思う。
全員がそうとは言わないが、人間は残虐な生きものだ。非道な出来事も、日常と化してしまえば慣れる」
「……今も、つらいかい?」
ひそりと囁いたエンドウに、俯いていたアルバートが顔を上げる。
繊細な顔立ちが小首を傾げる仕草に合わせて、薄茶色の髪を頬にかけた。
「今でも考える。僕が手を汚さなくとも、助かる術があったんじゃないかと」
嘆息したアルバートが、机から腰を浮かせた。
かつかつ靴音を鳴らした彼が、水差しからグラスへ透明の液体を注ぐ。
ふたつ注いだ片方を手に持った。
「僕が受けたものは虐待だ。そして僕が行ったことは傷害。しかし僕は罪に問われなかった。責任能力がなかったこともそうだが、何より事実が露見することの方が都合が悪かったのだろう。僕の受けた苦痛は、なかったことにされた」
半眼がエンドウへグラスを差し出す。
受け取った彼女が、神妙な顔でそれを煽った。
「僕は実際に自身の手を汚して、事を仕損じているんだ。あいつらに相応の罰が下ることはなかった。それどころか、僕が『問題児』とされた」
屈辱だ。小さな声でアルバートが吐き捨てる。
彼がグラスの中身を嗅ぐ。
水のにおいを認知してから、ようやくグラスに口がつけられた。
「家などの隔絶されたコミュニティで、いくら騒ごうとバケツの汚水を掻き混ぜているのと同じだ。意味がない。何より大人はずるい。こちらが知らないことをいいことに、規則の網目を縫って事を起こす。
だったらあいつらを逃さないよう、専門家を用いればいい。社会的に殺してやる。出口のない恐怖を思い知れ」
「恨みは深いな……」
「されたことを返しているだけだ」
舌打ちしたアルバートがグラスを卓上へ戻す。
エンドウが苦く笑った。
少年へと伸ばされた手が、中途半端に止められる。
力なくその手が落とされた。
……アルバートは、他者から触れられることを苦手としている。
「……つらかったな」
「今は平気だ。だが、だからこそ、僕は僕の平穏が崩れることを嫌っている。喧嘩なら高値で買う。二度と歯向かえないよう、叩きのめしてやる」
「おっかねぇ」
エンドウが空になったグラスをテーブルに置いた。
何ごとか考え込む仕草を取ったアルバートが、黄橙色の目を彼女へ向ける。
「お前は穏便を望んでいるのだろうが、既に石は転がり落ちている。元々あった汚れをつつくだけだ。お前が気に病むことではない」
「……わりぃな、慰めさせてよ。俺の方が年上だってのに」
今度はしっかりと伸ばされた彼女の手が、身を引いたアルバートの腕によって遮られる。
けらら、エンドウが笑った。アルバートが渋面を浮かべる。
「……撫でさせてやる代わりに、ひとつ、頼みを聞いてほしい」
「なんだい? おっさんにできることなら、何でも聞いてやるぜ」
頼もしく口角を持ち上げたエンドウから、少年が視線を逸らせる。
重たく睫毛を伏せた彼が、真っ直ぐに彼女を見詰めた。
「断ってもらって構わない。僕の婚約者として、名前を貸してほしい」
「んん!?」
エンドウが噎せた。盛大に噎せた。
げほげほと咳き込む彼女へ、無表情のアルバートが新たに汲んだ水を差し出す。
震える手がそれを受け取った。ごくごく、水が流し込まれる。
「お、おう? どうしたってぇんだ……」
「お前の結婚観を聞いていなかったな」
「んん!? 話せってことかい!?」
無言で腕を組むアルバートに促され、エンドウが天井を見上げる。
彼女は遠い目をしていた。
「……本体がどうなるかで、話は変わるがな。少なくともおっさん自身はこんなだからな。お嬢さん方にきゃあきゃあ言われてる現状で、まあ満足さ」
「そうか」
セクハラはこえぇからなあ。茶化すエンドウを置いて、アルバートがひとり思案する。
彼がエンドウへ視線を戻した。
「あくまで提案だ。僕は公爵家の後継として養子となったが、生憎誰かと添い遂げる気はない。しかし子どもは用意しなければならない。養子を取りたいが、そのためには夫婦という条件が邪魔をする。そこで形式上、婚約の形を取りたい」
「あーっと、つまり、なんだ?」
「書類上籍を入れることになるが、夫婦として活動することはない。お前の生活に関与する気もない。勝手にしてくれ。ただ、養子を取るために協力してほしい」
「……お前さん、俺じゃなかったら、引っ叩かれてたぜ?」
呆れ顔でため息をついたエンドウが、やれやれと肩を竦める。
アルバートは無表情のままだった。
「期間は、最低でも養子を取るまでだ。それ以降、関係を解消してもいい。卒業後にお前が実家へ帰ろうと、いい人を見つけて添い遂げようと、ハーレムを形成しようと、僕は一切干渉しない。
もちろん、お前を貴族の面倒事に巻き込むつもりもない。これまで通りの生活を続けてもらって構わない」
「お前さんの口から、ハーレムたぁねぇ……」
嘆息したエンドウが、目許を笑みの形に細める。
ずいと近づけられた顔に、アルバートが反射的に一歩下がった。
「で? 協力の見返りはなんだい?」
「金銭面の援助」
「なんつってな。金を巻き上げる趣味なんざねぇよ。それよか、あの従者の兄ちゃんらを助けてやってくれ」
「……条件をのむのか?」
「おう。俺の名前だけ、貸してやるよ」
「……ありがとう」
エンドウの返答に、ようやくアルバートがやわりと表情を緩めた。
「……これでやっと、あいつの気苦労をひとつ減らせる……」
ぽつりとした声だった。
けれどもアルバートの表情は嬉しげで、とても満ち足りた顔をしている。
咄嗟に該当人物を察したエンドウが苦笑し、彼の頭をわしわし撫でた。
少年の肩が過剰に跳ねる。
眉間に皺を寄せたアルバートが、耐える仕草を取った。エンドウがけらけら笑う。
「ただし、あの兄ちゃんらを助けることが前提だぜ?」
「わかっている」
「俺もできるこたぁ、協力するぜ」
解放された瞬間に、手櫛で髪を梳いたアルバートが首肯する。
安堵に息をついたエンドウが、片手を上げた。
「俺にも、その養子とやらと会わせてくれや。『友人』として相手してやらあ」
ドアノブを掴んだエンドウへ、短く「ああ」応答したアルバートが彼女を見送った。




