03
「ごめんね、ベル。急に呼び立てて」
やんわりと微笑んだリヒト殿下のお顔色は、心配になるほど悪かった。
ベッドで上体を起こした彼の腕からは、点滴の管が伸びている。
案内されたお部屋は、以前通ったリヒト殿下のお部屋ではなく、白い部屋だった。
開いた窓がぬるい風を運び、薄手のカーテンを揺らす。
テーブルとソファ、そしてベッドの配置がクラリス精神病院の病室を彷彿させて、喉の奥が詰まった。
彼はこんなときだというのに、今日も何かの資料を読みふけっているのだから、しっかり休んでくださいと叫びたくなる。
ぐっと耐えて、別の言葉を投げかけた。
「リヒト殿下、お加減は」
「もう平気だよ。大袈裟にされてるだけ」
「……お顔が真っ青ですが」
「心配?」
「当然です」
くすりと吐息を漏らした彼が、「そっか」と呟く。
傍まで寄り、一言かけて額に触れた。……熱はないみたいだ。
今日、お城からの使いの人がやってきた。
リヒト殿下が僕を呼んでいるという内容だったのだけど、呼び出しの仕方がとても心臓に悪かった。
こうして応じているけれど、道中事情も教えてもらえない。
何かあったのだろうと想像は出来るのだけれど、それが何なのかわからず、やきもきしてしまう。
リヒト殿下のお姿を目の当たりにして、ようやく『相当なこと』が起きたのだと察した。
憔悴し切ったご様子は、とても痛々しい。
「……殿下、何があったのか、教えていただけませんか?」
「毒を盛られちゃった」
「ちゃった……て、そんな!?」
「失敗したなーって、反省しているよ」
肩を落としたリヒト殿下が、左手の書類を伏せる。
あまりにも普段通りな口振りに、思わず呆然としてしまった。
ショックのまま身を乗り出した僕へ、ベッドの空いている部分を叩き、殿下が目許を緩める。
座って。短い指示にへたりと従った。
毒を……って、それ、毒殺されかけたということで正答ですか?
誰がそんなひどいことを!? 本当にもう大丈夫なんですか!?
「ダンタリオン様からのお茶だって言われて、うっかり信じちゃったんだ。彼は必ず手紙を添えてくれるから、手紙を読んでから飲めばのよかったのにね」
ダンタリオン様は、昨年の収穫祭でお会いした、隣国の要人だ。
長い黒髪と、整った顔立ち、そしてはんなりとした仕草。
僕は彼のお名前を『ダンディライオン』と呼んでしまい、斬首を覚悟した思い出がある。
遠くを見詰め、リヒト殿下が微笑を浮かべる。
憂いのあるそれは、見ていてつらい。
「手紙なんて、届いてなかったんだ。それがわかっただけで、充分かな」
彼が目を伏せ、口許に淡く笑みを乗せる。
この世を捨てた感じ……! ようやく殿下に未来への希望を持ってもらったところだったのに、誰がその思いを踏み躙ったんだろう!?
闇討ちしなきゃ!! 月夜の晩ばかりだと思うなよ!!
「リヒト殿下がご無事で、何よりです……ッ」
「……ぼく、きみのことを泣かせてばかりだね。困ったな……泣かないで?」
殿下の指先が僕の目許を撫でたと同時に、ぼろぼろと涙が落ちた。
驚いて俯く。ひっ、漏れ出た嗚咽に困惑した。
だって、泣くまでの行程を踏んでいなかった。
予備動作なしに泣くのは、対処に困る。
それに、さっきまで胸を占めていたのは、純然たる殺意だ。
「し、つれ、しましたッ。ぐすっ、すぐ、止めま、す」
「ううん。……泣いてもらえるだけ、ぼくはきみの中にいるんだね」
よかった。微笑んだ殿下が涙を拭う。
丁寧に、優しく、満足気なお顔で。
その消え行きそうな表情やめてください! 殿下は無邪気ないたずらっこくらいが丁度いいんです!
「だ、だって、なくなってしまったら、も、会えない、んです!」
「うん、そうだね」
「会えないのは、いやです、いやです! 何のためにこんなにがんばってッ、いやです、なくな、いやです!!」
両手で顔を覆って、くぐもった声で叫ぶ。
支離滅裂だ。自分でもわかっている。
僕はお嬢さまの明るい未来のために、あれやこれやと必死になっている。
リズリット様の死亡が確定していると知ったとき、とても動揺した。
ヒルトンさんがウサギ男だと判明したときは、決して口外しないよう口を噤んだ。
それがいいことなのか、悪いことなのか、わからない。
坊っちゃんをひとりぼっちにしないように、お役目以上に手を出した。
クラウス様がお困りだったから、助けに行った。
リヒト殿下がおつらそうだったから、傍にいた。
毎日は僕へ愛着を与えて、失うことを恐ろしくさせる。あかいろはこわい。
これから先、まだ苦しい思いをしなければならないことを、僕は知っている。
その先は? がんばったら、みんなで幸せになれるのかな?
お願いです、いなくならないでください! きっと恐慌状態になっていたのだろう。
もしかすると、リヒト殿下はここにいなかったかも知れない。そう思うと恐ろしかった。
当然のようにそこにいる人と、もう二度と会うことができない。――あかいろがこわい。
不意に頭を抱き寄せられ、大袈裟なくらい肩が跳ねた。
「ごめんね。こわがらせちゃった」
「……ッ」
「ぼくも服毒ははじめてだったから、どんな顔をすればいいのか、わからなかったんだ」
おつらかったのはリヒト殿下なのに、僕があやされている。……こんなのおかしい。
けれどもぐずぐずとした心情が、中々落ち着いてくれない。
彼はずっとがんばっているのに、報われないなんて、あんまりだ。
「ありがとう、ベルがいてくれてよかった」
「他の方も、……こんな、反応、します……」
「だといいな。今、ね。……警戒してるから」
吐息を挟んだ彼が、優しく髪を梳く。
次に囁かれた声音は、衣擦れの音に掻き消えてしまいそうなほど、微かなものだった。
「ベル、ミュゼットに手紙を渡して。今のぼくを、きみにしか関心がないように見せておきたいんだ」
「どういう……?」
ことでしょうか。続けたかった言葉が遮られる。
「ごめんね。きみを危険に晒してしまう。でもここは危ないから、一番連携の取りやすいきみを使わせて」
「殿下、一体何を」
「陛下は、ぼくを用済みとみた」
「ッ!!」
囁かれた一言の、何と重いことだろう。
呼吸の詰まった僕の頭を撫で、リヒト殿下が自嘲する。やる瀬ない声音だった。
「……10年前の資料、ほとんど吹き飛ばしちゃった。ぼくも少しは役に立ちたかったのに、余計なことしたよ」
「リヒト様のせいでは……!」
「だからせめて、ミュゼットに、彼女の周りに気をつけて。回数をわけて出すから、アルバートにも見せて」
「……わかりました」
リヒト殿下が、伏せた資料から四つ折の紙を滑らせる。
僕のベストのポケットへ落とし、彼が抱擁を緩めた。
「涙は止まった?」
いつもの声量で、いつもの声音だった。
両手で僕の頬を包んだリヒト殿下が、やんわりと微笑む。
指の背で目許を撫でられ、体温が急上昇した。
僕この人の前で、どれだけ醜態を晒す気なんだろう!? すごく恥ずかしい!
「た、大変失礼いたしました……!!」
「いいよ。悲しくなったら、いつでもおいで。ぼくもきみに会いたいな」
「……ありがとう、ございます」
にこにこと零されるたらし的な発言を浴びながら、索敵を巡らせる。
……想像以上に近くから人の気配を察知し、ぞっとした。
リヒト殿下は監視されている。
この面会も、他の誰かに盗み聞きされている。
殿下は僕へ話しかけているようで、その人物へ印象を刷り込んでいるのだろう。
うっかり怯えた顔をしてしまったので、殿下が苦笑した。
……この監視体制の中でも平然と出来るのだから、リヒト殿下はさすが王子様だ。豪胆さが違う。
僕の頭を撫でた彼が、微笑みを深くした。
「明日もおいで。待ってるよ」
「……はい。……殿下、お大事に」
ひらひらと手を振るリヒト殿下へ頭を下げ、確認したい衝動を抑えて退室する。
扉を閉じ、俯き気味に廊下を歩いた。
心臓がうるさい。冷や汗が止まらない。急ぎ足にならないよう、注意する。
天井、ベッドの上、へばりつくように、誰かがいた。
……リヒト殿下の御身は、本当に大丈夫だろうか?
忍びの人じゃないんだから。茶化しても、薄ら寒い心地は癒えなかった。




