02
こうやって空中庭園でぼんやりするのも久しぶりだ。
日差しが描く陰影は濃くて、通り抜ける風が心地好い。うんと伸びをした。
今朝リヒト殿下をお見送りして、坊っちゃんへお世話させてくださいと嘆願した。
お嫌そうなお顔をされただけで、僕の要望は通らなかったけど。
悲しい。殿下のいない一週間を、どうやって過ごそう……。
……あれ、おかしいな? 僕の主人は坊っちゃんのはずなのに。
こんなに役立たずじゃ、いつか冗談抜きで解雇されてしまう。
……どうしよう、つらい。
「先輩、お願いごと決めましたか?」
ベンチの隣に腰を下ろしたノエル様が、ぱたぱたと顔を扇ぎながら尋ねる。
はて、瞬いた。
「お願いごと、ですか」
「王様がひとつだけ叶えてくれるやつです」
「ああ……忘れていました」
「のん気ですね」
ノエル様の言葉に、そういえばそんなご褒美があったことを思い出す。
対立戦参加者には、国王陛下直々に、ひとつだけお願いごとを叶えてもらえる権利が発生する。
……でも、あの威圧感の塊である陛下の前で、希望なんて言えるのかな?
緊張で内臓が引きつりそう……。
そしてナチュラルにノエル様はここにいるけれど、僕たちの授業も再開されている。
授業の遅れ云々に関しては、貴族層は元々家庭教師を雇って勉強しているため、そこまで痛手にはならないそうだ。
どちらかといえば、社交の意味合いが強いらしい。
けれどもだからといって、堂々とさぼっていいわけではない。
ノエル様、ちゃんと進級できるのかな……?
「ノエル様は、お願いごと決まりましたか?」
「お金を要求します」
「……堅実的ですね」
「世の中、何をするにも金なので」
ぼそりと呟いた彼が、こちらを向く。
「先輩、コード領って、どんなところですか?」
「コード領ですか? ええと、長閑ですね。雰囲気としては、ここ空中庭園と似ています。辺境で土地が広くて、茶園があって。今の時期なら、丁度茶摘で賑わっていますよ」
唐突に振られた話題は不思議だったが、領地のことなら大体のことは答えられる。
にこにこと説明すると、ノエル様は小さく「へぇ」と相槌を打たれた。
「それで先輩、いつもここにいるんですか?」
「そうかも知れません。学園の入学に備えて長らく帰還していないので、ここにいると気持ちが落ち着きます」
「……先輩は、卒業したら、領地へ戻るんですか?」
「坊っちゃんの卒業までは王都にいます。僕は坊っちゃんの従者なので!」
「……そうですか」
その坊っちゃんは、全くお世話をさせてくれないけど!! 悲しい!!
ふいと正面へ顔を戻したノエル様が、嘆息する。
……どうしたのだろう? コード領に興味があるようだけど、何かネガティブな印象でもあるのかな?
えっ、そんな、悪印象を抱かせるような揉めごとなんて、なかったはずだけど!?
「コード領はいいところですよ!!」
「先輩の平和ボケした感じを見ていたら、嫌でもわかりますよ」
「平和ボケ……」
地味にショックなのだけど……? ノエル様……?
膝の間で指を組んだノエル様は、何かに思い悩んでいる様子だった。
何度か唇を開閉させ、掠れた声が落ちる。
「……家に帰れる気がしないんです。疎遠にされましたし、家族を見て平静でいられる自信もありません」
ぽつりと零されたお声は平坦で、彼は遠くを見ていた。
対立戦後の病室で聞いたお話に、はたと口を噤む。
彼が対立に投影したものは、母親と反省室だった。
あのときノエル様は、『捨てられた』と激しく泣きじゃくっていた。
とても痛々しかったことを覚えている。
「なので、逃げてしまおうと思いました。在学中は我慢します。これまで耐えられたんです。耐えられます。俺の名前を使って、コードくん家に擦り寄られるのも、卒業するまで我慢します」
こちらを向いたノエル様が、僕の肩を掴んだ。
圧の掛かったそれは、あたたかな体温をしている。
なのに震えていた。
彼はこれまで、両親に認めてもらうために足掻いてきた。
それを捨てる覚悟とは、どれほどのものだろう?
望んだ愛情が得られないものだと悟ることは、きっととても苦しい。
「だから、逃げて、ひとりで生きていけるように、資金と手段を得なくちゃいけないんです。
先輩、俺、何が出来るんでしょう? 何が必要なのか、全然わからないんです。いっぱい考えたのに、……わからないんです」
縋るような声だった。
不安そうに緑の目を揺らして、幼顔を歪ませている。
ノエル様の選択は重たくて、うっかりすると僕の方が泣きそうだ。
そっと手を伸ばして、彼の髪に触れる。
驚いたように丸くなった目が、即座に俯けられた。
……振り払われなくてよかった……!
「大丈夫です、ノエル様。……おつらいのに、よくご決断されました」
「ッ、そういうの、いいです。省いてください。俺は、手っ取り早く手段について聞きたいんです」
何てインスタントなご要望なんだ。
僕から手を離したノエル様が、ますます俯く。
……僕、頭を撫でたままだけど、そこはいいのかな?
……嫌だったら全力で振り払われるか。
「生憎と僕も他の職種については知識が乏しいのですが……」
「使えませんね」
「ぼ、僕の養父! でしたら、知見も広いので、何か答えを教えてくれると思います!」
「……先輩って、ファザコンですか?」
「違います!! どちらかというと、彼は上司です!!」
ノエル様からの指摘に、頬が熱くなる。
決して! 僕はファザコンではない!! むしろより重度なのが、お嬢さまコンプレックスと坊っちゃんコンプレックスだ!! そこは譲れない!!
「先輩の上司? ……じゃあ、執事ですか。その人とは話せますか?」
「紹介については可能です。日程については、ご相談ください」
「お願いし……ッ!?」
ずずん、足許が揺れた。
軽度の振動だったけれど、慌てて立ち上がって階下の様子を窺う。
地震だろうか?
……お嬢さまのお傍には、アーリアさんが控えている。
急いで坊っちゃんの元へ向かおう。
何もないことが一番だけど、警戒するに越したことはない。
「今、揺れましたね。僕はこれから坊っちゃんの元へ向かいますが、ノエル様は――」
「先輩、お城、……さっき、一部分が、吹き飛びました」
「……は?」
ノエル様が指差す先に見える、いくつもの尖塔。
掠れた声に従い、眺めた景色。
大気汚染とは縁遠い空気は澄んでいて、遠くまで見渡せる。
だというのに、離島に隔離された城壁の一角から、白い煙が立ち昇っていた。
すっと体温が下がる。
「リヒト殿下、今日、お城に、ッ、そんな……」
殿下はご無事だろうか? お怪我されていないだろうか!? 早く誰かに知らせなきゃ……!
震える身体を懸命に走らせる。
教官、僕の主人、エリーゼ様へご報告したそれは、二日後に王城からの呼び出しを受けるという形へ転じた。




