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05

「急に呼び立ててごめんね、ミュゼット」


 やんわりと微笑んだリヒトに促され、ミュゼットがソファに腰を下ろす。

 対面に部屋主が座り、アーリアが彼等の前へ茶器を並べた。


「構いませんわ。リヒト様、お加減は如何ですの?」

「ありがとう。もう大丈夫だよ」


 日没を迎えたカーテンの向こうは暗く、本来であれば女性を招くには適切な時間ではない。

 それでもミュゼットは気にした風もなく、背筋を伸ばしてティーカップを傾げていた。


「それで、どのようなご用件でしょうか」

「……まずは謝罪からかな。ごめんね、ミュゼット。ぼくはきみを一番に出来ない」

「……ええと、……存じておりますけど……?」

「知ってたの!?」


 真摯な表情で切り出したリヒトに、ぽかんと瞬いたミュゼットが困惑の声を上げる。

 何を当然のことを。少女の声は言外にそう物語っていた。

 愕然、リヒトが肩を震わせる。

 すっかりうろたえた顔で、彼は彼女の様子を窺った。


「ええと? リヒト様が、誰よりもベルを尊重していることは、周知の事実だと思っていましたが……」

「そんなにバレバレだったんだね! すごく恥ずかしい!!」

「え!? 今更ですか!? てっきり開き直っているのだとばかり!」

「あ、あー! それでクラウス、いっつも渋い顔してたんだね! なんでだろうって、ずっと不思議だったんだ!」

「えええ!? リヒト様、ご自覚なかったのですか!?」

「ごめんね!! つい最近自覚した!!」

「そ、そうですの……」


 はわわー……。ミュゼットが頬に手を添え、天井を見上げる。

 羞恥に肩を狭め、震えているリヒトまで、その視点が下ろされた。

 彼女の顔が、決意に染まる。


「では、わたくしも。……わたくしも、あなたを一番にすることが、出来ません」

「え、うん。知ってるよ?」

「あ、はい」


 けろっと肯定された告白に、彼女が両手で顔を覆う。

 細い肩が震え、髪から覗いた耳が真っ赤に色付いた。

 リヒトが微苦笑を浮かべる。


「ぼく、小さな頃、てっきりミュゼットはクラウスのことがすきなんだと思っていたよ」

「な、何故ですか!?」

「よくクラウスの方を見てたから。でもあれ、ベルからぼくを引き剥がすために、クラウスに助けを求めていたんだね。ようやく辻褄が合ったよ」

「そ、その節は大変なご無礼を……ッ」

「あはは、大丈夫だよ」


 小さく声を立てたリヒトが、静かに睫毛を伏せる。

 必死そうなミュゼットを置いて、彼が唇を開いた。


「ぼくときみって、似てるよね」

「……恐れ多いですわ」

「外聞は気にしなくていいよ。この部屋には、この三人しかいないんだし」

「……わたくし、ずっとあなたが羨ましかったわ」

「ぼくが?」


 大きなため息をついた少女が、茶器の縁をなぞる。

 普段の口調を外した彼女が、億劫そうに瞼を下ろした。


「女の子が淑やかでなければならないなんて、誰が決めたのかしら。わたくしだって、あの子と一緒に走ったり遊んだりしたかったわ。

 あなたはいつだって、あの子の手を引いて先に行ってしまうもの。わたくしも、男の子であればどれほど良かっただろうと、擦り切れるほどに思ったわ」

「男の子のミュゼットは、敵いそうにないから遠慮したいなあー」

「だからよ。わたくしのベルなのに、あなたはいつだって連れて行ってしまう」

「その、……ごめん」


 ぷくり、頬が膨れる。ミュゼットの拗ねた口調に、リヒトが肩身を狭くした。

 茶器を置いた彼女が俯き息をつく。

 細い肩から若草色の髪が零れ落ちた。


「いいえ。リヒト様のせいではないの。わたくしはあの子の中で、ある種の宗教になっているもの。

 わたくしがどれだけ願おうと、あの子はわたくしと対等にはならない。あの子の一番は間違いなくわたくしであるはずなのに、その思いはとても遠いの」


 先程とは異なる理由から両手で顔を覆い、少女が俯く。

 苦しげな声音が、指の隙間から溢れた。


「わたくしの愛と、あの子の愛は決定的に違う。

 わたくし、あの子の博愛が恨めしいの。リヒト様たちが羨ましい。あの子の傍で、あの子のありのままの声を聞ける。わたくしだって、冗談のひとつでも言い合える仲になりたいわ! でも出来ないの。あの子、わたくしがカラスを白色だと言ったら、本気で肯定するような子だもの!」

「うん……。ミュゼットが善良な人で、本当によかったよ……」


 ぐすりと鼻を鳴らした主人の姿に、アーリアが瞬時にハンカチを用意する。

 この場で唯一の侍女は、苦い顔をしていた。


 立ち上がったリヒトが、ミュゼットの背を撫でる。


「……ぼくは、ミュゼットのことが羨ましいよ」

「新興宗教よ?」

「それは遠慮したい……じゃなくて。ぼくには極端に自由がない」


 潤んだ目を上げたミュゼットを見下ろし、リヒトが浅く息を吸う。

 意を決したように、彼が音を零した。


「きみは、ぼくたちの婚約について、どう思う?」

「唐突ね。政略結婚ですもの。例えあなたとの婚約がなかろうと、わたくしに恋愛結婚は無理よ」

「それでも、きみはぼくの元へ嫁いだら、両親も侍従も領地も、全て失うことになる」

「……それは気遣いかしら? それとも、わたくしを侮っているの?」

「ぼくはきみが羨ましい。きみはぼくにないものを持っている。そんなきみを、ここまで引き摺り落としたくない」


 両者がぴたりと見つめ合う。

 そこに甘さなどなく、焦燥と緊迫に満ちたぴりぴりとした空気が占めていた。


 先に動いたのはミュゼットだった。

 ため息をついた彼女が、凛と背筋を伸ばす。


「交渉と参りましょう、リヒト様」

「うん?」

「あなたが王子様をやめるとき、わたくしも一緒にお連れください」

「うん!?」


 浮かべた微笑を引きつらせたリヒトに構わず、ミュゼットが言葉を重ねる。

 その微笑みは、中々に意地の悪いものだった。


「ギルベルト様が、あなたは王子様をやめたがっていると」

「あー……。ギル、ほっぺ引き伸ばしの刑」

「ふふっ。わたくしが密告したことは、どうかご内密に」


 天井を見上げたリヒトが、諦めたように息をつく。

 くすくす声を立てていたミュゼットが、上目に彼を窺った。


「それは、今も?」

「……内緒にしててね」

「勿論よ」


 唇の前に人差し指を立てた少年に、少女が軽やかに笑う。

 彼女が声音を潜めた。


「あなたとの婚約を解消したところで、わたくしは他の誰かの元へ嫁がされる。それはとても都合が悪いわ。わたくし、すっごく人見知りだもの」

「そうだね、否定しないよ」

「何よりわたくし、あの子の傍を離れたくないの。

 どうかしら? 利害の一致よ。このままいけば、アルのひとり勝ちだわ。あの子ったら、本当強かよね」

「……ミュゼット、結構腹黒いよね。アルバートに似たのかな?」

「そうかも知れないわ。あの子、涼しい顔をして結構えぐいもの」


 ここにはいない義弟の姿を思い浮かべ、ミュゼットが小さく肩を落とす。

 彼女のほっそりとした手が、リヒトへ向けて差し出された。


「あなたが王子様をやめるとき、わたくしも一緒に連れる。わたくしはあなたをコード領へ引き込む」

「うわあ、理想系!」

「わたくしの実家は良いところよ。是非リヒト様にも見せてあげたいの。あの子も喜ぶわ。あの子、あなたのことがだいすきだもの」

「本当? 嬉しいな。でもいいの? ミュゼットにとって、ぼくは敵でしょう?」

「敵として切り捨てるには、わたくしたちは長い時間を一緒に過ごしてきたわ。わたくしにだって、人情くらいあるもの。どうでもいい方に時間を割くほど、わたくし暇ではないわ」


 内気だった頃の面影もなく、ミュゼットが朗々と言葉を重ねる。


 リヒトが微笑んだ。

 嬉しそうな表情は柔らかで、目尻にうっすらと涙が浮かんでいる。

 彼が彼女の手を取った。


「おめでとう、ミュゼット。交渉成立だよ」

「ふふっ、勝算しかありませんでしたわ」

「ねえ、耳貸して。これからいうことは、絶対に秘密だからね。ベルにもいっちゃ駄目」

「ええ、秘密」


 ソファの肘置きに腰を下ろしたリヒトが、ミュゼットに顔を寄せ耳打ちする。

 近く控えるアーリアにさえ届かない情報共有は、少女が表情を輝かせたことで締め括られた。


「わたくしたち、共犯者ね!」

「もっと早くに打ち明ければよかった。ありがとう、ミュゼット」

「いいえ。わたくしも決心が足りなかったわ。……そう、ベル」


 それまでの晴れやかな顔色を変え、沈痛な表情を浮かべたミュゼットが、リヒトを見上げる。

 胸の前で重ねられた彼女の指先が、固く衣服を握った。


「ベルが、壁を見詰めているの。……拾った頃のように」

「壁?」

「昔のベルは、ぼんやりしていることが多かったでしょう? あの頃のように、ぼうっと壁を見詰めているの。なのにそのことを、あの子はちっとも覚えていない!」


 不安げなミュゼットの指摘に、リヒトが記憶を引っ張り出す。

 最近のベルナルドの様子を思い返し、彼が苦渋に表情を染めた。


「……ごめん、ミュゼット。不安にさせるといけないと思って、黙っていたんだ。ベル、対立戦の話が持ち上がった頃から、時々ぼんやりしていた」

「ああっ、やっぱり! リヒト様、あの子が遠くを見詰めていたら、声をかけてちょうだい。クラウス様に聞いたら、第二階層へ落ちたときと様子が同じだと言うの! わたくし、心配で心配でッ」

「ミュゼット、落ち着いて。ベルは空気を読むことが上手だから、ぼくたちが慌てると、本人に伝わるよ」

「そう、……そうね。でも、あの子が壊れるところなんて、これ以上見たくないの。あの子の目にわたくしが映らないことが恐ろしかった! あの子、『あか』しか言わなかったの!!」

「ミュゼット……」


 両手で顔を覆った少女が、甲高い声で叫ぶ。

 アーリアが宥めるよう彼女の背を撫で、小さな声で呼びかけた。

 すすり泣く音に、リヒトが彼女の頭を撫でる。


「……わかったよ。ミュゼット、つらくなったら、またおいで。ぼくにも話を聞くくらいなら、出来るから」

「ありがとう、リヒト様。……アルも、自分を責めてしまっているの。よかったら話を聞いてあげて」

「うん、勿論」


 涙で歪んだ石榴色の瞳へ、優しくリヒトが微笑みかける。

 落ち着いたミュゼットを見送り、部屋に残ったリヒトが窓を開けた。

 吹き込む夜風がカーテンと合わせて彼の髪を遊ぶ。


 いびつだなあ。微かな声が囁いた。

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