02
ノックの音に、口を噤んだ。
アーリアさんが開いた扉の向こうから、ギルベルト様が顔を覗かせる。
意外にもその後ろにいたのはノエル様で、落ち着きのない様子で目線を下げていた。
「ギルベルト様! 腕、どうされたのですか!?」
思わずぎょっとしてしまった、ギルベルト様の左腕を吊った三角巾。
ご本人様は飄々とした調子で、気軽に元気な片手を上げていた。
「いやなに。大袈裟に治療されただけだ。お前こそ、調子はどうだ?」
「平気です。元気です、歩けます」
「ベル?」
「申し訳ございませんッ、お嬢さま……!!」
「ははは! お前、だいぶん参ってたからなあ。無理すんなよ!」
宰相閣下によく似たお顔を快活に笑ませ、ギルベルト様が片足を引き摺る。
うかがえば、捻挫だと答えられた。
坊っちゃんとお揃いですね……。
はーどっこいしょ、とギルベルト様がベッドの縁に腰を下ろされる。
……いつも思うけれど、彼はもっと見た目を大事にした方がいい。
見た目のイメージって、大切だ。
「ノエル様は?」
扉の前から動かないノエル様へ、調子をお尋ねする。
びくりと肩を跳ねさせた彼は、俯いたまま固く手を握り締めていた。
「ッ、何がですか」
「お加減、お怪我の調子は?」
「別に。……普通です」
ぶっきら棒に返され、あんまり大丈夫じゃないんだろうなあと感想を抱く。
この部屋には僕以外に人がいるのに、普段の猫被りが出来ないほど、彼は磨耗しているようだ。
ギルベルト様が膝を叩く。
ぱん、とした小気味良い音に、そちらへ顔を向けた。
「リヒトが部屋に引きこもっててな、クラウスが言うには飯も食ってないんだと。あとでで構わないから、様子を見てやってくれないか?」
「殿下がですか? 畏まりました」
「わたくしたちも、先程お部屋をお伺いしたの。……お会い出来なかったのだけれど」
眉尻を下げたお嬢さまが、坊っちゃんへ相槌を求められる。
こくりと頷かれる坊っちゃんに、リヒト殿下のご様子が心配になった。
殿下のペンダントも返さないといけないし……?
ぱん、ズボンの両ポケットを叩く。
すっと青褪めた。殿下のペンダント、どこ!?
「……あの、殿下のペンダントは、どちらに……?」
「ああ、ここだ」
坊っちゃんがポケットからハンカチで包んだ小包を取り出し、広げられる。
中央に収められた赤い石のペンダントに、泣きそうなくらい安堵した。
繰り返し坊っちゃんへお礼を伝える。
「よ、よかった! 打ち首になるところだった!!」
「ベル、あまり不吉なことを言わないで」
「申し訳ございませんッ、お嬢さま!」
「ははっ、懐かしいなそれ! リヒトがよく窓から投げ捨ててたやつ!」
「何してるんですか、殿下!?」
けらけら笑うギルベルト様が、いててと肩を押さえられる。
それでも声を笑わせたまま、彼がペンダントを指差した。
「リヒト、王子やめたかったみたいでな。椅子で踏んでみたり、色々してたんだぜ?」
「リヒト殿下にも、そんな時期があったのか?」
「あ、やべ。本人には言うなよ? 絶対怒られる」
意外そうなお顔で首を傾げた坊っちゃんに、ギルベルト様が慌ててご自身の口を塞がれる。
僕とお嬢さまはひたすら驚いていて、まじまじとペンダントの赤い石を見詰めていた。
……歴戦の猛者だと思えないくらいに、傷ひとつない。
「まあ、この年までちゃんと持ってたんだ。偉いもんだよな。じゃあな、俺は伝えたからな」
立ち上がったギルベルト様が片手を振り、上がらない片足を引きながら部屋を出て行く。
重たい扉が閉じる音に続き、廊下から「ギルベルトさまああああ! 勝手に出歩かないでくださいと、あれほど申したはずですがああああ!!」滅多にないユージーンさんの大声が響き渡った。
「うわっ!? 何だユージーン、驚かせるな! その肺活量どうしたんだ!?」声が遠退いていく。
「……騒がしいやつだな」
「ギルベルト様も、抜け出したタイプなのね」
坊っちゃんとお嬢さまがしみじみされていらっしゃる。
ギルベルト様、あんなに堂々と脱走されていたのですね。見習います。
「……あの、」
ノエル様の発した小さなお声に、全員の視線が向く。
一瞬たじろいだように唇を開閉させた彼が、再度俯いた。
「……すみません。オレンジバレー先輩に話があるので、ふたりにしてもらえませんか」
飾り気も疑問符もない、素っ気ない声だった。
困惑したように、お嬢さまがこちらをうかがう。
とても心配そうなお顔に、良心が痛んだ。
「大丈夫です。どうぞ、ノエル様。椅子……は、ないようですね。適当にお寛ぎください。お嬢さま、坊っちゃん、アーリアさん。また後ほどお迎えに上がります」
「お前は安静にしていろ。頃合いを見て戻ってくる」
「ベル、絶対に無理をしては駄目よ。いいわね? ベッドがあなたのお城なの」
「僕も歩き回りたいです!!」
「48時間後に審議する」
「二日後!!」
うわああああんっ、あんまりですー!!
情けなく追い縋る僕に構うことなく、お嬢さま方が「何かあれば、大きな声で呼ぶのよ」と部屋を出て行ってしまう。
うわあああん! 脚は動くのにー! また身体が鈍っちゃうのにー!
「ぐすっ。お茶もお出し出来ず、申し訳ございません、ノエル様」
「通常運転ですね、先輩。俺が何かするとか、考えなかったんですか?」
「リズリット様もいますし、大変なことにはならないかなと」
「寝てるじゃないですか、その人」
ベッドの縁に座ったノエル様が半眼を作る。
寝返りすら打たないリズリット様の頭を撫で、まあまあと笑った。
「それで、どうなさいましたか? ノエル様」
僕の問い掛けに、言いよどむように彼が口を噤む。
俯いた仕草に合わせて、前髪が表情を隠した。
固く握られた手が微かに震えている。
「……せんぱい、……俺のお話聞いて、はいよしよしって、してください……ッ」
「はい?」
泣きそうなほど歪んだ声で訴え、ノエル様が俯いている。
記憶を辿って、彼がそう称した話題を思い返した。
……何だっけ。僕には聞くことしか出来ないと言ったやつだっけ。
ノエル様、彼を呼ぶ。
びくりと大袈裟なまでに震えた肩に、これ以上怯えさせないよう両手を差し出した。
「もう少しこちらへ来てください。そこは腕が届きません」
「っ、いいん、ですか……?」
「どうぞ」
ベッドの傍らをぽんぽん叩くと、こちらを向いた緑の目が潤み、大粒の涙が溢れ出した。
両手で顔を覆ったノエル様が、嗚咽を漏らす。
いつも持っているハンカチはポケットになく、おろおろと周囲を見回した。
仕方なく長袖を引っ張り、ノエル様の頬を拭う。
あ、あれ!? ますます泣いちゃったんだけど、どうしよう!?
「……ッ、せんぱ、せんぱいっ」
「どうしました? 悲しいことでもありましたか?」
「俺、ひっ、家、……追い、ださ、れましたッ」
ノエル様の言葉に、思わず息を呑む。
泣きじゃくる彼は呼吸をつっかえさせながら、それでも続きを話した。
「てが、てがみ、がっ、届いて、ぐすっ、……父が、ッとおえ、んに、俺、……預けるって」
「……はい」
「コード、くん、の、ことっ、……だけッ、ひっ、……ほめ、ほめて、ううっ、もら、はじめて、ッほめ、て」
本格的に泣き出してしまったノエル様の頭を撫で、神妙な心地に陥ってしまう。
ノエル様は以前から、愛情を渇望している様子を見せていた。
反省室に怯えた仕草や、対立に投影された母親。
『三男なんて、頑張らないとパパとママに認めてもらえない』彼は最初から、答えを口にしていた。
肩口にノエル様の頭を寄せ、背中を宥めるように叩く。
僕の背に回された腕が、痛いほどに縋りついた。
ぐすぐす、涙声が不安定に揺れる。
「せんぱ、いっ、俺、どうしよ、すて、ひっく、すてられ、家、すてられたぁ……!」
「大丈夫です、ノエル様。ノエル様は、いい子です。大丈夫です」
15歳で家族というコミュニティから外されるなんて、どれだけ苦痛なのだろう。
彼が僕や坊っちゃんに拘った理由は、高位の存在への足がかりだ。
彼は彼で、家のために尽力していた。
それをコード家との接点だけ褒めて、ノエル様は不用と?
それってちょっとひどすぎない?
お家の人はノエル様のことを、何だと思ってるんだろう!?
「ノエル様は、対立戦で大変な中でも、坊っちゃんのことを知らせに来てくれました。お友達思いの、優しい方です」
「ち、ちがっ、俺、……めいれ、無視! コードく、ん、ひとりにっ、した! せんぱい、落ちて……ッ」
「……ご心配をおかけしました。僕も、坊っちゃんも、ノエル様も、こうして無事です。ノエル様が知らせに来てくれなければ、僕はもっとのんびり坊っちゃんの元へ向かっていました。……取り返しのつかないことになっていたと思います」
柔らかな髪を梳く。
あのとき、坊っちゃんのすぐ足許に影が見えた。
普通に走っただけでは、きっと間に合わなかっただろう。
坊っちゃんをお守り出来て、本当によかった。
「ありがとうございます、ノエル様。あなたがいてくれたから、坊っちゃんをお守りすることが出来ました」
ますます背に回された腕に力が込められ、ノエル様が泣き出した。
わんわんとしたそれは子どものようで、心音に合わせて背中をあやす。
ノエル様が落ち着くのを待ちながら、彼が語ったご実家の様子について思案する。
遠縁の家に預けられることも、家を追い出されたことも、僕は関与出来ない。
……つくづく、僕には何の知恵も力もないのだと痛感してしまう。
……旦那様に相談したら、何か解決策は見出せるのだろうか?
ううん、旦那様にまで話が行ってしまえば、大事になってしまう。
まずはヒルトンさんに相談しよう。
養父なら、何か助言してくれるはずだ。
そもそも、ここまでノエル様を蔑ろにするご実家は、本当にノエル様にとって必要なのだろうか?
「ぐすっ、……ううっ」
「落ち着きましたか?」
「……リズリット先輩、起きてますよね。絶対」
涙で震えた声が、恨みがましい音で響く。
ノエル様の頭を撫でながら、膝に乗った頭を見下ろした。
ぱちり、開いた白い睫毛が薄茶色の瞳を覗かせる。
本当だ、起きてる!
「ベルくんの膝は俺のだもん」
「僕の膝は僕のですよ。おはようございます、リズリット様。起きたのでしたら、そろそろ退いてください。痺れました」
「ベルくんのそういうところ、すきだよ……。やだあぁ、まだ寝るううう」
駄々をこねるリズリット様に、ううん、唸る。
「寝苦しくありませんか? 隣のベッド空いてますよ」
「先輩って、時々めちゃくちゃクールですよね。温度差で風邪引きます」
「どういう意味でしょうか!?」
僕、そんなに非道なこと言ってるの!?
ノエル様が離れたため、ごねるリズリット様の頭を撫でて宥める。
目許を擦ったノエル様が、呆れたように息をついた。
「先輩が寝てる間、不眠を拗らせたリズリット先輩が、夜通し廊下を徘徊していたんです」
「何なさってるんですか、リズリット様!?」
「ただでさえ精神病院とかいう薄気味悪い場所なのに、何往復もぺたぺた足音がするんですよ? ぶち切れた俺と一戦交えました」
「何なさってるんですか、おふたりとも!?」
「真夜中に廊下と壁を抉って、教官にものすごく怒られました。なので俺はリズリット先輩が苦手です」
剣呑な顔でじっとりとリズリット様を睨むノエル様に、勢いよく頭を下げる。
「その節はリズリット様が大変なご迷惑をおかけしましたこと、誠に申し訳ございません!!」
「その子だって、突然攻撃してきたんだよ? 正当防衛だもんー!」
「リズリット様、夜は寝る時間です! 夜更かししたら、大きくなれませんよ!?」
「俺、まだ大きくなるの……?」
180センチ台にいるリズリット様が、愕然としたお顔をされる。
優男といった風貌で、細身だからうっかりするけれど、リズリット様は身長にも筋力にも恵まれている。……羨ましい。
むすりと唇を引き結んだノエル様が、僕の手首を掴んで腕を引く。
そちらを向くと、不機嫌そうな顔とかち合った。
「先輩、王子様のお部屋に案内します。部屋番号知らないでしょう?」
「本当ですか!? 助かります!!」
「ええーっ。それ、ミュゼットちゃんとアルくんに怒られるよー?」
「だったら俺の名前を出したらどうですか? 別に俺の評価が下がっても、痛くも痒くもないので」
「ノエル様、捨て身が過ぎませんか……?」
のそりと起き上がったリズリット様が眉尻を下げる一方で、ノエル様が不貞腐れた顔で腕を引く。
「うるさいですよ。行くんですか? 行かないんですか?」
「行きます」
「ええー! ベルくんチャレンジャー……」
「じゃあ、さっさと立ってください。見つかったら強制送還なんで」
脳裏をお嬢さまと坊っちゃんとアーリアさんが過ぎたが、痛む良心に蓋をした。
リヒト殿下のことが心配だったし、何よりネガティブを繰り広げていそうで戦慄した。
それからクラウス様と、エンドウさんにもお礼とお詫びを伝えたい。
やりたいことがいっぱいある。
ノエル様に腕を引かれるまま、床に足をつける。
何処にどんな怪我を負っているのか把握していないけれど、引きつれた痛みに悲鳴を噛み殺した。
「……誘ったの俺ですけど、先輩、大丈夫です?」
「ベルくん、やっぱりあとにしよう?」
「い、いやですー! 時間は有限なんですー!」
う、うそだ! こんなに痛くなかったもん!
僕、このコンディションで飛んだり跳ねたりしてたもん!!
ノエル様に思い切り体重を預け、リズリット様の護送つきで、僕の病室脱出大作戦が幕を開けた。




