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04

 保健室のある3号館は静かで、雨粒の跳ねる音がよく聞こえる。


 初めてノエル様にびっくりさせられたときも雨だったなあと思い出し、いやまさかと首を横に振った。

 そう何度も、人間が怖いタイプのホラーを実演させられては堪らない。

 大丈夫だと自身に言い聞かせて、保健室の扉を軽く叩いた。


 開いた先から漂う、消毒液や薬品のにおい。

 明るい室内灯に照らされた室内は、整頓されていた。

 銀髪の保険医は机についており、細い眼鏡のフレームが明かりを反射する。

 彼が座っていた椅子を軋ませた。


「怪我ですか? 体調不良ですか?」


 淡々とした口調のフィニール先生が立ち上がる。

 扉のところにいる僕の元まで歩み出た彼が、こちらの目線に合わせて身を屈めた。

 あわあわと、胸の前で両手を振る。


「ええと、今日はお見舞いです。ノエル・ワトソン様はいらっしゃいますか?」

「彼ならそこに。今は彼しかいません」

「そうですか」


 先生の顔が、カーテンで区切られた一台のベッドへ向けられた。

 閉め切られたそれに得心し、こくりと頷く。


 徐に肩を叩かれ、パリッとした痛みが走った。

 竜胆色の目がこちらを覗き込む。


「雨が降ってきました。庭園の水を止めてくるので、私が戻るまでここにいてもらえませんか?」

「わかりました」

「助かります」


 簡素に呟いたフィニール先生が退室し、扉が静かな音を立てて閉められる。


 ……先生、雨が降っていても静電気体質なのかな? 大変だろうなあ。


 全部で3床あるベッドの内、廊下側のカーテンが閉じられている。

 戸棚の裏にあるそこへ近付き、ノエル様、声をかけた。

 身じろぐ気配に、「開けますよ」とカーテンを揺らす。


 こちらに背を向けて寝転がる彼は、布団を目深に被っており、表情は窺えなかった。

 ぼそり、くぐもった声が投げられる。


「何の用ですか?」

「ノエル様のお加減がよろしくないとお聞きしたので、」

「笑いに来たんですか?」

「心配しに来ました」

「はっ、そうやって善人振ったら、点数稼げるんですか?」


 刺々しい口調とともに、ごそりと音を立てたノエル様が起き上がる。

 柔らかな茶髪が跳ね、彼がそれなりに長い時間をここで休んでいることを察した。

 半眼の悪態に苦笑いを浮かべる。


「そう善人でもありません。お加減は如何ですか?」

「先輩の顔見たんで、最悪です」

「そうですか」


 失礼しますと一言告げ、茶髪についた寝癖に手櫛を通す。

 息を呑む音とともに、腕ごと叩き落とされた。

 ……ああ、しまった。つい癖が。


 ぐにゃりと表情を歪めたノエル様は苦しそうで、おつらそうで、空中庭園で見せた様子を思い起こさせた。


「勝手に触らないでください」

「申し訳ございません」

「先輩のせいで、運試し、ちっとも楽しくなくなったんです」

「はい?」

「何を入れても、どんなもの詰めても、どきどきしない。どうしてくれるんです?」


 泣きそうなお顔で訴えかけられ、困惑してしまう。

 彼の様子も深刻そうだし、件のお菓子の中身も物騒だ。

 何より責任を要求されているけれど、僕は何を仕出かしてしまったのだろう……?


「どうしてくれるんですか? どきどきも、わくわくもしないんです。空っぽなんです。どうしてくれるんですか?」

「どう、とは……」

「こんなの、生きてるのも死んでるのも変わらない。どうしてくれるんです? 折角見つけた遊びだったのに」


 立てた膝に顔を埋めたノエル様が、恨み言を吐き出す。

 躊躇った末に、丸められた背中へ手を伸ばすも、振り回された腕に払われた。


「そうやって土足で踏み荒らして、満足ですか? 優しさを振り撒けば、みんな仲良しになれると思ってるんですか? そんなに良い子でいたいんですか? 俺に構えば何点になりますか? 中途半端に同情して、楽しいですか?」


 矢継ぎ早に疑問符を投げかけられるが、ひとつとして回答が間に合わない。

 言葉のナイフとは言い得て妙で、鋭利なそれが、突き刺さって痛い。


 ノエル様の拙い感情表現は幼子のようで、それが余計に純然たる凶器に聞こえた。


「ぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、そのあとどうするんです? 俺の気持ち考えたことあります? ねえ先輩、聞いてます?」

「……僕は、ノエル様のことを、全く知りません」


 掠れそうな声を正し、ゆっくりと呼吸を意識して言葉を紡ぐ。

 正解なんてわからない。また、怒りを煽るかも知れない。


 何故だか、お屋敷に来たばかりの頃の坊っちゃんの姿が視界に被った。


 手のひらに爪を立てて握り、気持ちを明瞭にさせる。

「お前には関係ない」だったか。

 声変わりを迎えていない高い声が、聞こえた気がした。


「何がおすきだとか、ご趣味は何か、すきな食べものも、何も知りません」

「はっ、だから何です?」

「ノエル様も、僕のことを知りません」


 沈黙を返す彼は、膝に顔を埋めたまま微動だにしない。

 吸い込んだ空気を、音として吐き出した。


「きっと、たくさんのおつらいことがあったのだと思われます。ですけど、ご自分の痛みを表現するために、他人を貶す必要なんて、ないんですよ」


 ハイネさんとアーリアさんの調書と、坊っちゃんと僕の報告。

 違いを上げるとすれば、『距離感』と『接した密度』の差だろう。


 前者は浅い人付き合いと、遠目から見た噂話。

 後者は、個人対個人の感想だ。


 ノエル様は、ご自身の主張のために僕を利用している。

 害意に何かしら意図があるのだろう。

 ……根底に何があるのかは、わからないけれども。


「僕の痛みは、ノエル様にわかりません。ノエル様の痛みも、僕にはわかりません。

 ……わかり合えないんです。近しい経験を当て嵌めて、想像するしか出来ないんです。けれどもそれは、ただの『つもり』であって、あなたの痛みではない」

「わからないなら、どうするんです? 綺麗ごとのお説教並べて、はいさよなら解散ですか?」


 くぐもったノエル様の声は、やっぱり刺々しくて悲しい気持ちになってしまう。


 ゲームヒロインは、どうやって彼の心を癒したのだろう?

 僕には、細かなルートを思い出せるだけの記憶力がない。


「僕には、お話をお聞きすることしか出来ません。おつらいことや、悲しいこと、苦しいこと、嬉しいこと。色々なお話を聞いて、思い合うことしか出来ません。

 ただお傍に控えて、受け入れることしか出来ません」

「……何もしてくれないんですね。押し付けがましくて、自分勝手です」

「そうですね。全て自己満足です。僕は心理学の先生ではありませんし、出来ることにも限度があります。誰かを助けられるほどの高尚な技術もありません。ただお傍にいることしか、出来ません」

「何だ。お話聞いて、はいよしよしですか。くだらない。先輩にはがっかりしました」


 顔を上げたノエル様はこちらを見ることなく、布団を捲ってベッドを降りてしまう。

 こつこつ爪先で床を蹴った彼が、去り際に冷めた目でこちらを一瞥した。


「今後とも、偽善者頑張ってください。さようなら」


 見送った背中が、扉の開閉音を立てる。

 詰めた息を吐き出し、両手で顔を覆った。


 改めて自分には何も出来ないのだと、音にして痛感してしまった。

 自嘲気味に吐息を漏らす。


 ただお嬢さまと坊っちゃんのお役に立ちたいだけだ。

 けれども、こんな僕に役立てることなど、あるのだろうか?


 ――だって、話を聞くことも、傍にいることも、誰にだって出来る特別じゃないことだ。

 取り立てて優秀でもない僕は、主人の温情によってこの場にいる。


「――戻りました」

「あっ、おかえりなさい」


 音を立てた保健室の扉が開かれ、フィニール先生が入室する。

 濡れた身体を払うように撫でる仕草に、遠退いていた雨音が耳についた。

 ざあざあと本格的に降り頻る雨粒を窓から見遣り、白衣を脱ぐ先生に近付いた。


「タオル、お出ししましょうか?」

「ああ、ありがとうございます。右の棚の開き戸にあります」


 指示された場所から一枚の白いタオルを取り出し、広げてフィニール先生の元まで戻る。

 お礼の言葉を述べた彼が、雫の滴る銀髪にそれを被せた。


「……ノエル様はお戻りになられました」

「そうですか。留守中ありがとうございました」

「いえ。……では、僕はこれで」

「オレンジバレーくん」


 踵を返そうとした肩を掴まれ、ひんやりとした手のひらが額へ当てられる。

 冷たいそれに唖然とし、こちらを覗き込む竜胆色の目を見詰め返した。


「……顔色が悪いようですが、どうかしましたか?」

「いえ……、びしょびしょの先生より元気です。髪、乾かして、あったかくしてくださいね」

「……。そうですか」


 離された手に合わせて、礼をする。

 失礼しましたと扉を閉じ、深く息をついた。


 引っ張り出した懐中時計は、微妙な残り時間を示し、今度はため息を飲み込んで顔を上げた。


「っ?」


 ほんの一瞬の立ち眩みが、視界を真っ赤にする。

 片手で顔を覆って、歪みに耐えた。

 心音が嫌に速くて、どくどく耳につく。


 雨音と相俟って響くそれは、妙に不安感を掻き立てる。

 緩く顔を上げ、瞬きを繰り返した。


 今度は何ともなかったそれに、再び自嘲してしまう。


「情けないな。……しっかりしなきゃ」




 *


 去り際に見た先輩の歪んだ顔に、胸の中がすっとする。

 やっぱり先輩は、悲壮な顔をしてこそ先輩だと思う。

 雨の日は憂鬱だけど、久しぶりに靄が晴れたから、いい日だ。


 ――どうして、こんなにも先輩に固執するのだろう?


 ……先輩が、俺の欲しいもの全部持ってるから。

 ほんのちょっとくらい譲ってくれてもいいのに、先輩はずるい。


 空中庭園で見た、先輩の笑った顔が脳裏を過ぎた。

 ふたつ差し出された手のひらに、顔も思い出せない女の子が被る。

 ぎしりと痛んだ胸が苦しくて、折角晴れた気持ちが再び淀んだことを知った。ああ、くそ。


 何が『どっちも当たり』だ。そんなことあるわけない。

 当たりか外れ、賭け事にはそのふたつしかない。

 引き分けなんて、そんなの全く面白くない。


 誰かが泣きを見るまで続けなきゃ。

 勝負ってそういうものでしょう?


 何が『おそろい』だ。

 そういう生温いことを言って、これまで色んな人に取り入ってきたとか?

 じゃあ先輩の周り、落とすのも楽そうだ。

 お人好しばっかり。カモがいっぱい。


 空っぽな胸の何処が痛むのか、ちっともわからない。

 けど、ずっと胸が痛い。苦しいし、叫び出しそう。


 先輩をいじめてる間は軽くなる。

 なのに、終わったあとは、前にも増して痛くなる。

 ……わけがわからない。


 階段に座り込んで、胸を押さえて蹲る。

 早く治まってほしいのに、頭は勝手に先ほどの応酬を繰り返すばかりで、吐きそうなほどに気持ち悪くなった。


 ……全部先輩のせいだ。

 先輩がつらい目に遭えば、俺の気持ちも軽くなる。

 先輩のこと、ずたずたにしなきゃ。


 ……俺は、『お話聞いて、はいよしよし』って、してもらったこと、あったっけ?



「うおっ!? 危ないだろ、お前! 階段で何をしているんだ!?」


 聞き覚えのある声に驚かれ、慌てて立ち上がる。

 階段の踊り場にいるのはティンダーリアくんで、驚愕の顔で胸を押さえていた。


 取り繕うように、にっこりと笑みを浮かべる。

 先輩以外の前では、外面は大事にしなきゃ。


「すみません、ティンダーリアくん。まだ授業中だけど、どうしたんですか?」

「それ、お前もだからな。……ちょっと湿布をもらいにな。アルバートのやつ、加減を知らんからな」

「俺も保健室帰りですよ」

「ああ、……そうだったな」


 ぶつぶつ呟いていたティンダーリアくんが、顔を上げる。

 琥珀色の目は真っ直ぐで、少しだけたじろいだ。


「お前、ベルナルドが見舞いに来なかったか? アルバートのところの従者だ」


 ひくりと自分の口許が引きつるのがわかった。


 そっか、そういえば前にも親しげにしていたもんね。

 本当、あの先輩、パイプとしては優秀なんだよな。


「……いえ、見てません」

「……そうか」


 琥珀色の目が俺から逸らされ、彼が階段を下りる。

 こつこつ響く靴音が通り過ぎたところで、はたと先輩の言葉を思い出した。


「ティンダーリアくん、何か悩みごととかあれば、俺にも相談してくださいね」

「……お前、馬鹿だな」


 止まった靴音がこちらを振り仰ぐ。

 雨雲のせいで薄暗い空気は、遮蔽されている階段を余計に暗く見せて、心許ない。

 影を背負ったティンダーリアくんは、呆れた顔をしていた。


 不味い、選択を誤った。


「信用のない人間に、込み入った話をするやつがあるか」

「信用って、何でしょうか……?」

「信用は信用だろう。野心があっても、信がなければ、上には取り入れないぞ」


 ティンダーリアくんの率直な言葉に動悸がして、喉がひりついたように痛みを帯びる。

 表情を取り繕うことに必死で、彼の半眼に晒されることが苦痛に感じた。


 ……だって、俺も先輩の信用を利用して、彼等を自分の都合の良いように誘導した。

 俺では頷かなかった言葉にも、先輩が発した瞬間に彼等は耳を貸した。

 ……ああ、そういうこと?


「口が堅い、約束を守る、正直。あー、あと何だ? とりあえず、裏切り行為はやめておけよ。嘘は案外簡単にばれるからな」


 どきりと音がした。外に聞こえたかも知れない。

 俺はこの短時間で、既に嘘をついている。


 そんな、だって正直に生きたって、誰も褒めてくれなかったじゃないか!


「積み上げるのは大変でも、失うのは一瞬だからな」


 片手を上げたティンダーリアくんが踵を返し、廊下を曲がる。

 姿が見えなくなっても呆然とそこに立ち尽くして、じくじく痛みを訴える胸を握り締めた。

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