05
※心が重くなる表現注意
伯爵家の三男。
それが俺に与えられた全てだった。
「おかあさま、きょうはここまで、おべんきょうしました!」
「……ノエル、あなたは三番目なの。お兄様より目立っては駄目よ」
母親に言われた言葉を、一言一句違えることなく思い出すことが出来る。
不恰好な文字の並んだ答案用紙を見下ろし、たしなめるように小言を述べた母の顔。
褒められることを期待していた幼い俺は、母の怖い顔に竦んで俯き、答案用紙をくしゃりと鳴らして「ごめんなさい」と呟いていた。
けれども物覚えの悪い俺は、褒められたい一心で、進んで良い子になろうと足掻いてきた。
ふたりの兄のように、俺も褒めてもらいたい。頭を撫でてもらいたい。
いい子だね、よく出来たねって、一言でいいから言ってもらいたかった。
兄の失敗をよく観察して、真似しないようにした。
兄が褒められている事柄に、率先して取り組んだ。
寝坊しないように自力で起きたし、すききらいで困らせないよう、何でも食べるようにした。
勉強も、剣術も、馬術だって頑張ってこなした。
困っている人がいたら親切にしたし、お手伝いだっていっぱいやった。
「ありがとう」と言われることを、たくさんやった。
「ノエル、あなたは三男なの! お兄様より目立っては駄目だと、何回言わせたらわかるの!」
苛立ちいっぱいに、母は俺を叱り飛ばした。
叩かれた頬がじんじんと熱を持つ。
起こった出来事がよくわからなくて、呆然と熱い頬に手を添えた。
母は俺を見てくれなかった。
父も、仕事だと称して家に帰って来なかった。
上の兄ふたりも、母に怒られることを嫌ってか、俺と関わろうとしなかった。
いや、分別がつく今だからわかる。
兄は恐れていたんだ。
自分より優秀な弟が煩わしくて、目障りで。
嫡子の地位を争って、ふたりでその椅子にしがみついていたんだ。
何で俺はここにいるんだろう?
空虚だと思った。
胸の中がすかすかして、何を食べても何を飲んでも埋まらない。
ただ、褒めてほしかった。
優しくしてもらいたかった。
嫡子なんて、そんな椅子いらない。
俺はただ、いい子だね、頑張ったねと褒めてもらいたかっただけだ。
俺だって、叩かれるんじゃなくて、頭を撫でてもらいたかった。
何で息してるんだろうと、考えるようになった。
何で生きてるんだろう。
何で生まれてきちゃったんだろう?
叩くだけなら、何で産んだんだろう?
俺、何のためにここにいるの?
ぐるぐるぐるぐる、何で何でと繰り返すけれど、一向に答えが見つからない。
長く長く息を止めてみたけど、心臓が止まる前に苦しくなって、息を吸ってしまう。
両手で一生懸命塞いでいるのに、空気が勝手に入ってくる。
しゃくり上げる喉が言うことを聞いてくれないから、何度試しても失敗してしまう。
ぼろぼろ零れる涙が立てた膝に落ちて、鼻水も出てきてぐちゃぐちゃで、ひとりぼっちでうずくまってよく泣いていた。
ある程度大きくなると、外の景色が広がった。
家の中だけじゃない、外にも人がいる。
胸の中が寒くて堪らなかったから、誰でもいいから俺のことを見てほしかった。
もう、何でもよかった。誰でもよかった。
お湯を浴びても、毛布に包まっても、すかすかしたものが埋まらなくて、寒かった。
外に出て、女の子に声をかけた。
愛想に気をつけて、にっこりと笑って、可愛がってもらえるように話を合わせた。
女の子とはすぐに仲良くなれて、話が弾んだ。
何を話したのかさっぱり覚えてないけど、繋いだ手があたたかいことが、泣きそうなくらい嬉しかった。
「ノエルくん、どーっちだ?」
女の子が両手で握りこぶしを作り、こちらに突き出している。
どちらか選んでと微笑む彼女に、むず痒い心地を得ながら、片方の手を指差した。
「当たり! ノエルくん、運がいいね!」
華奢な手のひらが開かれ、ころんと銀紙に包まれた飴玉が転がった。
それをこちらへ差し出し、女の子が笑う。
面白い遊びだねと笑い返したら、「運試しだよ」と教えてもらった。
「ノエルくんって、三兄弟の末っ子なんだ。ふーん」
それから女の子は余所余所しくなった。
声をかけても、愛想笑いして話を聞いてくれない。
どの子に声をかけても、どれだけ仲良くなっても、俺が三番目だと知ると、みんな「用事がある」といって離れてしまう。
ここでも俺は、三番目の壁にぶち当たった。
俺といても、将来性が見込めない。
つまり彼女たちは、俺が貴族だからこれまで遊んでくれていたのか。
けれども、三番目だからいらない、と。
そっか、誰も俺のことを見てくれていなかったんだ。
それがわかった瞬間、これまで以上に胸の中が空っぽになった。
「ノエル! あなたはお母様に恥をかかせたいの!?」
母に頬をぶたれた。
激昂する彼女は見慣れた怒りの形相をしていて、俺の胸中はこれ以上ないほど冷え切っていた。
ワトソン家の三男が、遊び呆けていると噂が立ったらしい。
あの伯爵家は碌でもない。
何て厚顔だ。恥知らず。
陰口がついて回るそうだ。
「お前のせいで、お母様は恥ずかしくて外に出られないわ! お前なんて産まなければよかった!!」
ぐにゃりと世界が歪んだ気がした。
泣いてたわけじゃない。
大きくなってからは、泣かないように努力してきた。
なのに視界が歪になって、母の顔が抽象的な絵画のように見えた。
この一言で、俺の中のこれまで耐えてきた色々なものが決壊したんだろう。
俺は魔術を暴発させた。
前後の記憶がひどく曖昧で、時系列を上手く並べられないのだけど、目の前で爆発した火球に、母は怯えたらしい。
派手に壁を抉って、調度品を吹き飛ばした威力に腰を抜かし、俺のことを『化け物』と罵った。
それから母は、俺の顔を見ることがなくなった。
父もふたりの兄も、腫れ物のように俺を扱い、遠巻きにした。
何がいけなかったんだろう?
何が悪かったんだろう?
俺はどうして褒めてもらえないのだろう?
どうして怒られてばかりなのだろう?
呆然と、ただただそればかり考えていた。
俺も、誰かに優しく微笑みかけてもらいたかった。
頭を撫でてもらいたかった。
誰かと一緒にいたかった。
学園の入学手続きで外に出たとき、公園を親子連れが歩いているのを見かけた。
当然とばかりに母親と手を繋いだ幼い子どもが、にこにこと笑っている。
何やら楽しい会話をしているらしい。
母親が目許を優しく和らげ、うんうん聞いている。
――その光景を目にした瞬間、叫び出したいくらい気持ちが競り上がってきた。
苦しくて痛くて、けれども何処が痛いのかわからない。
胸のような気がする、押さえても変わらない。
泣き出したいくらいいっぱいいっぱいで、なのに空っぽですかすかしてる。
真っ青になって震える俺に、母親が気付いた。
不審そうに眉を寄せた彼女に、母の激昂した顔が被る。
ゆっくりと見える速度で開かれた唇が、怒声を上げる前に俺はその場から逃げ出していた。
「あの、大丈――」
背中にかけられた声がなんて言っていたのか、よく覚えていない。
「出て行け! 化け物!!」
母は俺の暴発に巻き込まれて、火傷を負ったらしい。
入寮で出て行く俺へ、金切り声を上げて物を投げつけ、勘当同然に追い出した。
どうすれば、母に見てもらえるのだろう?
怪我させてごめんなさいと、謝った言葉を受け入れてもらえるのだろう?
母はいつも俺に怒っているから、何をすれば喜んでもらえるのか、わからない。
学園には貴族がたくさんいた。
うちよりも高位の貴族もたくさんいた。
不意に過去の女の子が発した、「末っ子なんだ」との甘ったるい声が脳裏を掠った。
……そっか。偉い家柄の人と、懇意になればいいんだ。
何だ、こんな簡単なことに気付けないなんて、だから褒めてもらえなかったんだ。
そうだ、みんなそうしてるし、俺も頑張ろう。
偉い人と仲良くなれたなら、きっと喜んでもらえる。褒めてもらえる。
えらいねって、頭を撫でてもらえる。
がんばらなきゃ、急がなきゃ。
他の人と仲良くされる前に、俺となかよくしてもらわなきゃ。
そうだ。どうせだから、一緒に『運試し』もしよう。
運がよければ、きっといいことがある。
雨は嫌いだけど、晴れだったら気分もいい。うん、そうしよう。
あのときの女の子みたいに、にっこり笑って両手を差し出したのに、あのとき感じたむず痒い心地になれなかった。
変だな。お菓子が悪いのかな?
もっとどきどきするような、スリルのあるやつがいいのかな?
中身を変えたら、どきどきするようになった。
『当たり』を選んでくれないか期待して、そわそわ口許が緩んでしまう。
こんな気持ちは初めてで、楽しくて堪らない。
ついつい色んな人に、賭け事を持ちかけてしまう。
公爵家のコードくんは、素っ気なくて冷淡で近寄りがたい。
周囲が躊躇った隙に、前に出て牽制した。
コードくんは俺のことを邪険にするけれども、俺がいることで大人数に押し寄せられることがないと気付いたらしい。
お互いが利用し合う、ビジネスライクな関係。とっても楽だと思った。
でも、オレンジバレー先輩を遠ざけたのはいただけないかな。
俺はもっともっと偉い人と仲良くならないといけないんだから、あの人がいないと餌に出来ない。
それに、あの人を見ていると、公園で見た親子を思い出してしまうから、いっぱいひどい目に遭えばいいのにと思ってしまう。
先輩ばっかり、ずるいな。
……あ。そろそろ先輩の空き時間だ。
せんぱい、今日こそ『当たり』引いてくれるかな?
あははっ、どきどきする。楽しみだなあ!




