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93 なかったことになっちゃうなんて、嫌だ


頭を上げて兄さんの顔を見ようとするが、またそう出来ない様にきつく頭を抱きしめられていた。

「何度、謝っても足りないんだ。君の母親が死んでしまったのは、僕の父のせいなんだ」

え?

兄さんの腕を解こうと、顔の周りを締め付けるそれに手をかけたが、更に息も出来ない位強く、抱き締められた。

兄さんの首筋に頬が押しつけられ、兄さんの甘い匂いがきつく香った。

「あんなところに長く居るべきではなかった。無理矢理にでも、君とあの人を危険の少ない土地に連れて行くべきだったんだ。それをしなかった父のせいで、あの人は死んでしまった」

「待って。何?どう言うこと?」

くらくらする様な心地よい兄さんの腕の中から何とか意識を持ち上げ、尋ねた。

「あんな場所に居れば、ロウエンを憎む奴らに見つかった時どうなるか予想出来ていたはずだ。僕が幼く無知でなかったなら、絶対にあの場所に留まるなんて、馬鹿な事はさせなかった」

兄さんの顔は全く見えなかったが、囁く様なかすれた声は、酷く辛そうで切なかった。

相変わらず私を締め付ける兄さんの背中に、恐る恐る手の平を置き、さすってみた。

嫌がる素振りはなく、ほっとした。


「ねえ。危険だって分かってた父さんと母さんが、その場に留まってた理由が有ったんでしょ?どうして兄さんが自分が悪い事をしたみたいに苦しまなくちゃいけないの?そんなに母さんが好きだったの?」

兄さんが私の肩を掴み勢いよく自分の身体から離した。

信じられないと言う顔をしていた。

「違うよ。小さな君から母親を奪って、君のその後の人生も滅茶苦茶にしてしまったからだよ」

結局私のことばっかりな兄さんに、呆れて溜息を吐いた。

同時に、涙が出そうな程嬉しかった。

「兄さんも違うよ。兄さんが苦しむことない」

兄さんの綺麗な目を真っ直ぐに見る。

どうして、こうも自分を責めるのだろう。

「兄さんも、父さんを奪われたのよ?兄さんだって人生を滅茶苦茶にされた被害者よ。兄さんも私と同じ、子供だったの。それに、父さんのせいでもない。暴力をふるった奴らのせいよ。そうでしょう?」

兄さんはじっと私を見つめていた。

「どうして父さん達は留まっていたの?」

この綺麗な薄い青の目は、父さんと母さんを失う前も同じ色だったのだろうか。

幼かった私を抱き上げて、明るい綺麗な目を細めたり、丸くしたりして、私をあやしてくれたのだろうか。


冷たく澄んだ目で私を見つめたままの兄さんが、淡々と答える。

「あの人が、君の父親がいつか戻るかもしれないと。あの森に君とあの人を探しに来て、一緒にロウエンに戻るのだと。人より余程賢いくせに、有り得ないことを、信じて。何年も、何年も」

私の本当の父を愛し続けた母の気持ちを思い、涙が堪え切れなかった。

それから、母の身勝手な思いに父さんを奪われた兄さんの悲しみと、おそらく母を愛していたのであろう父さんの切なさと、それから、私のことを思うあまり二人を責めてしまう兄さんの苦しみと、全てが愛おしくて切なかった。

「そう。分かるわ。私だって、もし兄さんと離れ離れになって、あの地で待てば兄さんと会えるかも知れないと少しでも思えるなら、迷わず戻るもの。兄さんだって、私が危険な地に向かうのなら、ついて来ずにはいられないでしょう?同じじゃない?そう思えば、母さんと、父さんの事も許せない?」

兄さんが綺麗な薄青の目から、静かに涙を流していた。

冷たい色も、流れ出てしまえば良いのに。

そう簡単にはいかないと分かってはいても、兄さんの心にある辛さや苛立ちや悲しさ、その他の暗い感情がその目の冷たさとなって表れている様な気がして、切なかった。

「父さんのせいでも、母さんのせいでも、兄さんのせいでもないんだよ。私は、兄さんのおかげで生きられたの。兄さんのおかげで、今こうやって兄さんと一緒に生きていられるのよ?」

兄さんが涙を零しながら唇を噛み、私の方へ身体を傾けて来た。

腕を伸ばすと、私の肩に目元を押し付けてくる。

嬉しい。兄さんに求められている様で、凄く嬉しくて、胸が高鳴った。

首に絡めた腕で抱き締めると、私の耳元で兄さんの震える声が囁いた。

「君を、生かして、良かった?」

ああ、あの時、自分の手で死なせてしまった方が良かったのではないかと、長く自分に問い続けてきたのは兄さんの方だったのかも知れない。

そんな事出来るはずもないくせに。

死にかけた私を見下ろしていた兄さんの酷い顔を思い出す。

兄さんに回す腕に更に力を込めた。

「当たり前でしょう?兄さんが私を生かしてくれたから、ジョエにもおばさんにも会えた。ここでも優しい人に沢山出会えて楽しいわ。全部なかったなんて、今の私が居ないなんて、皆を好きな気持ちも知らないままだなんて嫌だよ。兄さんに一杯迷惑かけて生きてきちゃったけど、生きてて嬉しい。生きてたから、兄さんとこうしてられるのよ?兄さんが一緒に生きてくれるなら、ずっと生きていたいよ。兄さんと今まで生きて来たことが、なかったことになっちゃうなんて、嫌だ」

途中からだらだらと流れ始めた涙を、今度は私が兄さんの肩に押し付ける。

嗚咽で浮き上がる私の身体を押さえる様に、兄さんの腕にきつく抱き締められた。






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